1/25(過去作) 桔梗
九月半ば、しとしとと霧のような雨が花を濡らす。そんな中、私は蝙蝠傘を片手に、もう片手には買い物袋を持って、湿ったコンクリートの上を歩く。秋の長たらしい雨を皆は嫌うけれど、私は嫌いじゃない。
道端にふと、紫の花を見つけた。群生というには数が少ないが、四輪ほど咲いている。なかなかお目にかかることのない花だ。
ああ、懐かしい。もう七年も前になる。私の初恋、その思い出の花。
当時私は十五歳、中学三年生だった。その日も今日と同じ雨だったのを覚えている。私はいい加減長たらしい雨に嫌気がさしながら、帰ろうとしていた。
「まだ、止まないか」
空を見上げて、増減する雨の量を図りつつ、いつ外に出てやろうかと機を伺っていた。なかなか秋の空は変わらないもので、いつまで経っても弱くなりやしない。空は重く塞がっていた。
そろそろかと見切りをつけ私は蝙蝠を開く。外に出ると、後ろから慌ただしく人がやってきた。おーい、待ってよ、と遠巻きに声がかかる。たまに帰りを共にする男子だ。今日は日直で残るものだと思っていたけれど、どうやら早く終わったようだ。早かったね、と私も遠巻きに声をかける。
「あれ、かなり遅いと思ったけど。逆にお前はさっさと帰ったもんかと思ってた」
そうか、雨に見とれて時間を忘れていたようだ。雨の空は人を飽きさせない何かを持っている気がする。気付けば下校している人も少なくなっている。
「雨、止むかなと思って見てたらこんなに経っちゃった。せっかくだから一緒に帰ろう」
いつもの成り行きだ、どうせ帰る方向も同じなのだから。彼は私に追いつく。雨具もなしに私の右に着いた。
「傘、無いの」
私は呆れ気味に尋ねてみる。
「忘れちゃったんだ。別に家まで遠くないし、濡れちゃってもいいかな」
「予報で絶対降るって言ってたじゃない。風邪引いちゃうでしょ。私の傘に入りなよ」
ほら、と傘を左手に持ち替えて彼を入れてやる。
「嫌だよ、恥ずかしい」
避けるように外に出てしまった。こうまでされると意地だ。
「濡れるより恥ずかしい方がましだと思うんだけど」
私は彼の方に寄ってやった。初めは避けられたが、道の端に詰まった彼は渋々ながら私の蝙蝠の中に入ってきた。彼の肩は少し熱い。
「……なあ、行きたいところがあるんだけど」
唐突に彼は口を開いた。間を繋ぐ会話といった内容ではないようだ。
「え、まあ、いいけど。一体どこに」
いいから、と彼の冷たい手で、蝙蝠の柄ごと私の手を握って、無言のまま歩き続ける。彼は私と反対を向いているし、私は言葉が見つからない。そんなこと彼は気にせず、私の家へ向かう四つ辻を通り過ぎてまだ進む。
「はい、ここ」
そう彼が言うのは、彼の家の玄関だ。私の脳内に疑問符が浮かぶ。まさか家で遊ぼうというわけか、小学校じゃあるまいし。私はしばし戸惑った。帰ってやろうか。
彼は蝙蝠から飛び出して、玄関の花壇から花を一輪、摘んだ。そして蝙蝠の中へと戻ってくる。そして再び私とともに柄を握った。彼の手はやはり冷えていた。
「はい、この花、あげるよ。桔梗って言うんだ」
「花の名前なら知ってる。でもこれじゃ男女が逆じゃない」
「どういうこと」
「この花は、女の人の愛情を表しているんだって本で読んだ。だから、反対だよ」
彼はすこしむっとする。痛いところを突かれた、というところか。
「そんなこと、別にどうだっていいよ。俺は、お前のことが好きなんだ」
語気を強めてそういった。言い終わってから、ゴクリと生唾を飲み込んだのがわかる。
「くれる、っていうなら貰うけどさ。私、修斗くんのこと何とも思ってない。そりゃ友達としては好きなんだけど」
彼はなんとも言えない表情になる。こういうのを苦虫を噛み潰したような、というのだろうか。それに苦笑混じりなのがまた複雑にしている。すうっ、と彼の顔が決心に固まる。
「じゃあ、今から好きになってよ。俺のこの気持ちはきっと、この先もずっと変わらない。だから、今は好きじゃなくていい。俺と付き合ってほしい」
雨は先程よりも強さを増し、私の蝙蝠を叩く音が激しくなっていく。ただ言葉もなく、しとしとと。
「そこまで言うなら、分かったよ、付き合いましょう」
彼の顔が目に見えて明るくなった。
「ただし、嫌になったらすぐに振るからね。そんな必要ない苦痛、味わいたくないもの」
少し強く言い過ぎたかもしれない。私は申し訳なくなる。でも、嫌な人とかかずらってたところで嫌な思いをするだけだ。ただ、嫌な人ではないのはわかっちゃいるけど。
「そんなことにはならない、ならせはしない。例えお前が俺のこと嫌になっても、この花を見て、きっと思い出してほしい。この花が俺の、変わらぬ愛の証だから」
にかっ、と笑い彼は花を差し出した。受け取るとき、彼の右手が私の左手に触れた。今度は私達どちらの手も冷えていた。
何たる身勝手だろう。気持ちの押し付けにも程がある。彼とは長らく一緒に帰っているが、ここまで馬鹿だとは思っていなかった。でもそんな思考とは裏腹に、嫌な気持ちはない。多分呆れてしまったのが半分、それとこれからの日常への期待が半分なんだろう。でも、果たしてこれから好きになれるのだろうか。
その後、桔梗の花を眺めながら帰路についたのを覚えている。雨に濡れてなお元気な姿は、まるで濡れた彼のようだった。その花は母が大切に生けてくれていたのだが、しばらくして枯れてしまった。いくら生け花の先生といえど、切り取られた花に生命を与えることはできないらしい。そのときは随分と落ち込んだものだ。
今となっては懐かしい。もう七年も前のことだ。この七年で色々なことが変わってしまった。その筆頭といえば環境。高校を飛び越え大学も卒業し、社会人一年目になった。親元を離れ、昔とはかなり違うライフスタイルになった。生活が変われば人間が変わる。人間が変わればこそ、私の気持ちも大きく変わってしまった。たぶん、もう昔の気持ちには戻れないのだろう。年月の流れとは恐ろしい。
「私も結構、年取ったな」
道端にひっそり咲いたこの桔梗の花を、私は摘んで帰る。花瓶に生けて飾りにでもしようかと思う。いや、その前に彼に見せよう。きっと私の帰りを待っているはずだ。おそらく、お腹を空かせて、疲れた体をソファに横たえているのだろう。
そんな空想を上向きでやっていると、空との間に遮るものがある。古びた私の蝙蝠、もう年月に揉まれてあちこち穴だらけになってしまっている。それでもまだ使えるし、実家から持ってきた数少ない思い出の品だ。これからも大切に使っていこう。
「ただいま、修斗くん」
花言葉は変わらぬ愛。もし永遠なんてものがまやかしだったとしても、一時の永遠を見せてくれている彼には感謝しなくてはならないのかもしれない。この花もきっとまた枯れる。しかしこれからも、この花が証になってくれるだろう。
「おかえり、奏」
ドアを隔てて相槌が帰ってくる。蝙蝠を置き、期待に胸膨らませリビングのドアを開く。喜んでくれるといいな。この紫の桔梗の花を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます