第45話 新曲の影で 前編
「うわぁ、相変わらず凄いなぁ」
私がその場に来て、まず驚いたのは圧倒的な人の多さだ。
場所は私の住む町の駅から乗り継いでいくこと約1時間半。半年ほど前に行った、椎名咲桜が所属する事務所があるところよりも、ちょっと遠め。
されど、都会なだけ人の数は多く。そしてこの場所の人は、都会の中でも人口が密集しているといえる。
というのも、ここはライブ会場であるからだ。つまり、もうすぐここのライブ会場で、あるアーティストのライブが行われる。
ここまで言えばもう分かるだろう。
今日は、
「にしても人が多い」
私は1人で会場が開くまでの間、ライブ会場前にできた長蛇の列の中の方にいた。
かれこれ、1時間ほど並んでいる。
でも、自然と苛立つことはない。
好きなものをこうして待つのに、苛立つ訳がなかった。むしろ、この時間こそが楽しい。
今日のライブは、実は祈凜さんが私にチケットをくれたから来ることができたライブだった。私はライブの抽選に申し込んで落ちた身であるため、他のファンに対して流石に申し訳ないと、断ろうとは思ったのだが、つい欲が出てしまった。
こうして考えると、ずるをした罪悪感が心を刺す。でも、ここまで来てライブに参加しないというのもないだろう。
それに、今日は新曲が初めて歌われる日なのだ。だからこそ、私はチケットが取れなかった。
そんな機会なのだから、フェアではないと分かっていても、行きたくなってしまう。
とにかく、今日は悪い云々を考えずに楽しむだけである。
「では、時間となりましたので、会場いたします! ゆっくりとお入りください!」
拡声器で拡張されたスタッフの方の声が聞こえた。
そして、私の並んでいた列はスタッフの言葉に対応するようにゆっくりと動き始めた。
「緊張するなぁ」
まだライブが始まる訳でもない。でも、それは緊張とともに楽しみでもあるのだ。
そして、ライブが始まった。
◇
一曲目、二曲目とライブは順調に進んでいく。
そんな中、私は違和感を感じていた。
というのも、普段、祈凜さんと会う時は椎名咲桜として見ることはなかったに等しい。それは、あまりにも私の中での椎名咲桜とはイメージが違っていたから。
でも、心のどこかで、祈凜さんは椎名咲桜だと理解していた。
そして、今日分かったことがあった。
「……祈凜さんだ」
私の違和感の正体はそれだった。
あまりにも、祈凜さんなのだ。
ライブといえども椎名咲桜は顔を隠している。具体的に言えば、仮面をつけて観客の前に立っているいる。
その椎名咲桜は、誰が何と言おうと私の知る祈凜さんである。当たり前のことだが、当たり前じゃない。
今まで、椎名咲桜のライブやイベントで、椎名咲桜以外のイメージを感じたことなどなかった。
でも、今考えてみれば、祈凜さんと会って始めてのイベントであるわけだ。当然、無意識に祈凜さんをイメージしてしまうのも仕方ないのかもしれない。
でも、私はこのイメージの差に対して困惑していた。
「えーと、みんな今日は集まってくれてありがとう。楽しんでいってください!」
やっぱり、祈凜さんだ。
もう、違和感しかない。楽しむとか楽しまないとかそんなこと気にしていられなくなってきた。
MCが入れば尚更。
一体どうすればいいのだろうか。こんな感覚、初めてだ。
「じゃあ、次の曲いきますね!」
そうこうしてる間にも次の曲のイントロが始まる。この曲は椎名咲桜の中でも、一番売れてる曲で自然と会場も盛り上がる。
でも、またしても、私は何故かその雰囲気に乗り切れない。
何故ならこの曲もまた祈凜さんとの思いでの曲だから。
沙夜と私が喧嘩した時、ゲームセンターで祈凜さんと音楽ゲームをやった時の曲。
この曲を聞くと、祈凜さんの恥ずかしそうな表情を思い出す。
もちろん、ライブは楽しくはある。生で憧れの人の歌を聞けるのだから。
ただ、今この状況で心の底から楽しんでいるとは言い難かった。
◇
「それじゃあ、ラストの曲。皆さんお待ちかねの新曲です」
椎名咲桜のMC。
当然、新曲と聞いて観客のテンションも上がる。
「この曲は、私が初めて作詞をさせて頂きました」
初耳である。
それは、祈凜さんだってプロなのだから、私に教えてくれることにも限度はあるだろう。
「この曲は、バラードとなっていて、実は私の大好きなものを歌詞に入れさせてもらいました」
大好きなもの。
沙夜のことだろうか。それとも、シードルか。検討はなんとなくついたような気がする。
「じゃあ、この曲で最後まで楽しんでください」
いよいよだった。
いくら、気分が乗り切れてないからと言って、この曲を前から楽しみにしていたことには変わりはない。
そして。
「曲名は」
私の耳をその音が揺さぶる。
「ベンチの時間」
だが、それは私の期待していたものとは良い意味でも悪い意味でも違った。
◇
「はぁ」
今日のライブは疲れた。
正確に言うならば、ライブに疲れたのではなく、自分の感情が疲れたというべきか。
正直なところ、私はがっかりしていたのかもしれない。
それは、決して祈凜さんにではなく、私自身に対してだ。
何がそんなにがっかりするか。
それは、新曲を喜んでいる自分に対して、私が求めていた椎名咲桜の新曲とは違うと言う自分がいたことだ。
どういうことか。
私が今までもっていた椎名咲桜という歌手のイメージは、クールでどこか冷めた感じの歌手。
だが、私が今日見たのは、何もかもが優しい祈凜さんの姿。
それに加え、新曲『ベンチの時間』。
これはそのまま私達を表したような曲。
歌詞も曲も歌い方も、全て完璧で、非の打ち所がなかった。ただ、祈凜さんの優しさを除けば。
これはもう私のただのワガママ。
ただ、優しい祈凜さんとクールな椎名咲桜が同じという事実に対して、受け入れられなかったのだ。
椎名咲桜が、祈凜さんが、好きなことには変わりはない。
「でも、なんか複雑だなぁ」
ライブ会場から出た瞬間。私はそう呟いて、歩き出したのだった。
「待って」
「え?」
しかし、そのまま私が帰路に着くことはなかった。
誰かが私の腕を後ろから掴んできたからだ。
私は掴んできた手が誰のものなのか、見るために、後ろを振り向く。
すると。
「ふ、藤尾さん?」
そう。それは紛れもなく、
椎名咲桜が所属する事務所の社長本人だった。
よく見れば、傍らに椎名咲桜のマネージャーである
「少し時間あるかしら?」
藤尾さんが私にそう言ってきた。
「えっと、はい。時間はありますけど……」
一体なんの用なのだろうか。というか、私のことなんかを覚えていたのだろうか。
藤尾さんも門脇さんも、真剣な表情でなんだか緊迫感が凄い。
「じゃあ、車で移動するから、こっちにきてちょうだい」
そう言って、私の手を離した藤尾さんは、駐車場の方へ歩いていく。
少し呆然とした私だが、すぐにハっとなり、急いで後を追いかけたのだった。
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