5-14


 修はそれ以上言葉を続けることができなかった。君がシーシュポスの中にいたのなら、最初に乗ったときにどうして呼びかけてくれなかったのか。はじめからずっとそばにいたのなら教えてくれればよかった。そうしたら、これほど心の痛みを覚えずに済んだのだから。あふれだした感情で修は泣き出す。悔しさと怒り、寂しさと後悔、名付ける以前のものすべてを打ち明け、ぶつけてしまいたかった。姉が死んで以来、少しでも声に出して泣いたら自分が壊れてしまうのではないかと不安で、ずっと押し殺してきた。それがすべてここで流れ出す。この時間の流れない世界で、修は永遠とも思える間泣き崩れる。

 その気持ちを彼女はすべて受けとめてくれる。何も説明しなくてもすべてわかっている。だから彼女は修を抱きとめてくれる。それは、黒江のしてくれたのとは異なっている。黒江の場合、そこには修に頼りたいという願いと、同じ罪を抱えた者同士の甘えがあった。わかってほしいという気持ちだった。聖蓮とよく似た少女は、聖蓮自身と同じように、ただ修をあるがまま抱きとめる。乾いた土塊のように砕けてしまいそうな自分を適度に湿らせてくれるあたたかさだ。自分の中に、何かの芽を育てる土壌の豊かさをもたらしてくれる。

 この言葉を必要としない世界では痛みがすべて彼女に伝わり、理解され、慰められたと感じた。そして、十分に癒されたと感じた修は、そっと彼女から身を離す。

「聖蓮はわかってたんだろうな」

 自分が間もなく殺されてしまうことを。そして、その戦いを修が継がなければいけないことを。だが、どうやってそれを修に説明してやればよかったのか。そんな時間はなかった。そして彼を混乱させるくらいなら、はじめから何も言わないほうがいいと思ったのだ。聖蓮の考えがわかるにつれて、姉との距離がさらに縮まっていく。どうして消えてしまったのだ、という困惑もすべて溶けていく。自分だって同じ立場に置かれていれば同じことをしただろう。黒江のしたことだって、家族を失った境遇なら無理もないことだ。彼女は僕と同じだ。

「ごめんなさいね」

 修はうなずく。彼女は修のそんな様子を見ると安心したようだった。そして、自分の役割は済んだ、という顔をした。彼女の仕事が何かはわからなかったが、修は理由もなく寂しくなる。もう一度、姉に抱きつきたくなる。それを彼女はもう一度だけ受け入れる。それでも、次はない、と修も理解した。

彼女のぬくもりを感じていると、彼女は修のポケットに黙って手を突っ込んだ。不用意に身体に触れられた不快感はなかった。むしろあたたかだった。彼女は、聖蓮のクマのぬいぐるみを握っていた。そしてふわりと微笑む。

「これはもう、修には必要がないと思う」

「でも」

 もう会えないのは仕方がない。でも、それはあまりにも寂しい。何かよすがとなるものがほしい。触れていて安心できる具体的な事物が僕にはまだ必要だ。言葉にすればそんな思いが胸を訪れる。けれど、少女は修の胸にそっと手をやる。

「大丈夫。私はいつもあなたの中にいる。それに、あなたには現実の世界に守るべき人がいるのだから」

 そう言って彼女のポケットにそれを収める。

 わかっていたことだ。巣立ちの時期を迎え、繁殖が可能になった獣のように、もはや修は彼女を必要としていなかった。それに、いつまでもここにいるわけにはいかない。

確かに、尋ねたいことはいくらでもある。彼女は世界の知恵そのものなのだから。命は結局どこに行くのか。意識は永遠なのか。春香に聖蓮の魂は宿っていたのか。でも、求めても答えが得られないことも、実のところよく知っていた。

 だから修はもう一度だけ抱きしめる。

「さようなら」

 あの時に言えなかった言葉だ。

これでやっと聖蓮にお別れが言える。もう、聖蓮がいなくても大丈夫だと思える。感謝と別れの言葉を伝えることができたのだから、これからは一人でも歩いていける。彼女に縛られない人生が待っている。

 まばたきをしたら彼女は消えた。永遠の夜の中でもう一度まばたきをすれば、元の世界に戻っている。


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