1-8

 意識が戻ると、清潔な部屋に寝かされていた。朝のような光に包まれていて目覚めはさわやかだ。あの殺風景なむき出しのコンクリートの地下にこんなところがあったのだろうか。

 機人に乗せられていたときのスーツは脱がされ、ガウンの下の身体は何もまとっていない。ベッドの脇には脱いだはずの制服がきれいに折りたたまれている。これらすべてを黒江がやってくれたのだろうか。先ほどは後ろを向いていたけれど、結局はすべて見られてしまったのか。

 あるいは耳元でしていた声の主だろうか。シーシュポスの状況も読み上げていたオペレータたちや、会話を交わしていた男。だが、彼らがどこにいたのか修は推測することもできなかった。

 立ち上がって部屋の中を物色していると、新しい下着を見つけたので身につける。それから、廊下の様子を伺おうとしたが鍵がかかっていた。仕方がないので他に何かないかさぐる。しかし、ちょっとした飲み物があるだけだった。

 水を飲みながら思うのは、先ほどの戦闘の高揚感がどこかに行ってしまったことだ。その代りに胸の中にあるのは、何かを成し遂げた後の静かな満足感だった。自分は不条理な世界にひとつだけ報復できたのだと思うと笑みが漏れた。

 だが、それも長くは続かない。そんなことをしても姉は戻ってこないし、自分にはもう帰る場所がないのだ。住んでいたアパートがなくなってしまったことが実感するとひどく心細い。それに、姉のにおいのする品もすべてなくしてしまった。それは姉の痕跡が失われたのにも似ていて、涙をこぼしそうになる。自分はこれから何を頼りに生きていけばいいのだろう。感情の蓋が動きそうになって動揺する。

 ノックの音がして、黒江が入ってきた。かろうじて両目を袖で拭いているところを見られなかった。

「もう立ち上がって大丈夫?」

黒江が修を気遣う声色はあたたかく、機神との戦いに導いたときの意志の強さは見られない。おっとりしているとさえ感じられた。その落差に修は戸惑いながら、おかげさまで、としか答えられない。彼女は親しげに距離を詰めてくる。

「回復も早いみたい。私が思ったとおり、シーシュポスとの適合率は高そう」

 ああ、とだけ応じる。こんなにすぐそばで女の子と話したことなんてない。ほっそりしているとはいえ、体のふくらみが修の体に当たりそうで怖い。

「お疲れさま、大変だったでしょう」

そばで見ると、黒江が思っていたよりもかわいらしい顔をしているとわかる。

「本当によくやってくれた。とても感謝している」

 そんなことを言われるなんて思ってもいなかった。ただ、彼女の言葉に従っただけだ。でも、彼女は距離をますます縮めてくる。後ろに下がるのもためらわれる。

「本当はあなたの手を握ってあげたいのだけれど、苦手だってことはわかってる。だから、こうさせてもらう」

 そう言うと黒江はすらりと長い腕を伸ばして修をハグした。何が起きているのか修にはわからなかった。ただ、姉とは違うにおいにつつまれて、筋道立てて考えることもできなかった。柑橘系のさわやかな香りと、思っていたよりも小さく感じられる体と、思いがけないやわらかさが修を惑わした。

 どうして君はこんなことをしてくれるのか。そもそも、君は何者なんだ。そんな問いがごまかされていき、初めての感覚に身をゆだねることしかできなかった。

 そのせいで機人が自分に新しい力を与えたという、事の重大さがすっかり抜け落ちてしまう。修は黒江に縋りつくように言う。

「でも、僕は聖蓮の思い出をすべて失ってしまった」

 これからどこに行けばいいのかという寄る辺なさもさることながら、姉が所有していた物、日常で使っていた物、それらすべてに慰められていたのに失われたのだ。

 黒江はささやく。

「思い出の品というのはあっという間に古びていくし、ふとしたきっかけでなくなってしまう。それよりも、不確かで変形してしまうかもしれないけれど、記憶していることのほうがずっと大事」

「けれど……」

 黒江の前では泣き顔を見せたくなかった。でも、感情が心の中で暴れていた。修のくしゃっとなった顔を見た黒江は体を離し、部屋の片隅にまですたすた歩いていく。それから鞄の中から何か小さなものを取り出した。

「これ、あなたのお姉さんがくれたものでしょう?」

 それは水兵のような服装をした熊の小さなぬいぐるみだった。少年が身につけていても違和感がないが、修の好みにしてはかわいらしいものだった。

「どうして……」

 その問いには、どうしてこれだけが見つかったのだという驚きが含まれていた。幼いころにもらったはずだったが、それがここにある理由がわからない。

「あなたがシーシュポスに乗った部屋で拾った。あそこで落としたんじゃない?」

 そうかもしれない。修が鞄につけていた記憶はないのだけれど。でも、それがあたかも姉の痕跡がこの世から完全に消えることを拒んでいる力があるみたいに感じた。修はそれを握りしめる。あたかも、そうすれば姉からもらっていた力が自分の中に注ぎ込まれるように。励ましの言葉を聞くことができるみたいに。

 そんな修を見ながら黒江は微笑む。

「これが少しでもあなたの心の支えになってくれるのなら、私はうれしい」

 彼女の笑顔と姉の痕跡で、修のあらゆる疑惑も溶けてしまった。

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