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 修は目線だけでほたるを見送る。彼女が消えると、くやしさのあまり布団の端を握りしめる。

 怒る気力さえなかったときには、死にたいのかな、とも思った。怒りがすべて消えてしまい、感情が平板になる瞬間にはそう感じた。生きる理由など、すでにどこにもない。にもかかわらず、生きて行くのに必要な分は食べていた。目の前で姉が死んだことで、激しい死への怖れが生まれていた。そして間欠的に、焼けつく怒りの発作がやってきた。その両極端で、修の心は壊れそうだった。

 いつまでもほたるの好意にすがるわけにはいかない、とわかってはいる。だが、こうして社会との接点を失ったままでいるのは心地よかった。自分の部屋にさえいれば、あの出来事は幻だったのだと自分に言い聞かせることができる。

 外に出るのが嫌だったのは、世の中が聖蓮に向ける悪意に向き合いたくなかったからでもある。タカマガハラ族に何の疑いを持とうとしない連中が憎らしかった。そして、そんな人々ばかりでできている社会そのものがいとわしかった。いっそのこと、聖典の巻末に記載された黙示録のようにすべてが消し去られてしまえばいい、と願った。

 修は立ち上がると聖蓮の部屋に忍び込んだ。生前も姉の部屋に遊びに行ったものだ。勉強を見てもらおうだとか相談事があるだとか、理由がなくても聖蓮は嫌な顔一つ見せなかった。他に血のつながった相手がいないから、と修は自分に言い聞かせていたが、ほかにそうしている人がいるかどうか確かめるのは恥ずかしかった。姉に甘える高校生なんて、人からどう思われるかわからない。

 聖蓮の部屋からは、まだ優しいにおいがする。それは香水のにおいなのか、シャンプーのにおいなのか、はたまた体臭なのかわからない。でも、修は幼いころから姉がそんな香りを身にまとっていたことを覚えている。一緒に布団で眠っていた頃から変わらない、懐かしくてやわらかな嗅覚への刺激だった。でも、いなくなってからもそのままにしてある聖蓮の部屋からは、少しずつそのにおいが薄まっていく。それは当然のことではあるけれど、修には姉が遠ざかっていくように感じられた。

 もしもタカマガハラ族の言うように、死者は守護天使となって残された者のそばに寄り添いつづけるというのが本当だというのなら、どれほど慰められたことだろう。でも、修はもうタカマガハラ族の言葉を信じることができなかった。

 姉の布団にもぐって、姉のいない現実からさらに一歩退きたかった。でも、そんなことはできなかった。そんなことをしたら、二度とそこから出られなくなりそうだったからだ。修は首を振ると部屋を出た。亜熱帯となった大八洲国の初夏の午後だった。

 修が部屋から立ち去ったとき、夏の兆しの沈黙を破る異様な音がした。窓ガラスが震えた。机の上に置かれたプリントが落ちた。何冊かの本も棚から崩れた。何事か、と思い修は何週間ぶりに窓を開いた。そこからは埋めたてられた横浜の海を遠くに見ることができた。直接日差しは当たらないはずなのに、暗闇に慣れた目には眩しくて思わず目をつぶる。

 聞こえるのは、激しい滝のような音。何キロリットルにもなる水が、何十メートルの高さから落下して海面を叩いていた。目が徐々に慣れるにつれ、修は陽光を反射する人の子のような姿を認めた。だが、それは人間の何十倍もの大きさをしていた。そして、その水音は巨体から落ちるときのものだった。海底から突如姿を見せて、体から水を滴らせている。機械仕掛けの神というべき巨魁だった。ひたすらに白く、もう一つの太陽のようだ。そして背中には、翼のような飾りが備わっていた。

 修は凍り付いたようにその場から動けなかった。その姿に魅了されていたのだ。その巨神が善であるか悪であるか修には理解できなかった。ただ、その力に幻惑されていたのだ。もしも自分にあれだけの力があれば、と修はつぶやく。聖蓮を失うこともなかったのではないか、と。

 我に返ると悲鳴があがっていた。建物中の人々が逃げ惑っていた。人々はぶつかり、罵り合い、あの巨体が何も手を下していないのにもかかわらず、既に負傷していた。

 だが、その姿は人々にまったく無関心であり、何かを探すように顔を動かしていた。それが視覚によるものなのか、嗅覚に頼ったものなのか、それともヒトにはうかがい知ることのできない五感の外にあるものなのかは定かではない。だが、それは全体としては陸を目指していた。

 埋め立て地に上陸すると踏みしめられたコンクリートは割れた。建物は揺れ、崩れ、裂けた。瓦は雪崩を打って落ち、柱は歪み、折れた。

これが僕の願った世界の終わりなのか。修が呆然としていると、一人の少女が後ろに立っていた。ほたるではない。彼女は走ってきたのか、制服は汗でにじんでいた。肩で息をしている。

「君は……」

 少女は切れ長の瞳に長い髪、そしてしなやかな手足をしていた。名前だけは知っていた。隣のクラスの海原うみはら黒江くろえ。接点はなかった。近づきがたいわけではないが、わざわざ話す機会はなかった。

 制服のままだったのは部活の帰りだったからだろうか。彼女が何部に所属しているか考えたこともなかったが。いや、そもそもどのようにして生体認証式のオートロックを開けたのか。尋ねようとしたが彼女は有無を言わずに告げた。

「時間がない。お願い、端末と鞄を持ったら私についてきて」

 突然の言葉に答えを言い淀んでいるのにも構わず黒江は宣告する。

「説明は後。あなたの遺伝子で機人ゲーゲネイスが起動するのを確認するのに手間取ってしまったから。ちょうどすべての試験が終わったところ。本当は、あいつが現れる前にすべてを済ませておきたかったのだけれど」

 そう言って眩しい純白の鎧を指さして見せる。それは、じっくりと探すような動きをやめていた。獲物を求めるように執拗に周囲を見つめながら、徐々に内陸へと近づく。踏みつぶされる建物は数知れなかった。

「あいつは何をしているんだ」

「ある意味ではあなたを探している。だから、あなたは私と一緒に来ないといけない。ぐずぐずしていると、あなたもここで死んでしまう」

 彼女は迷いなく答える。だが、修には、あれほど巨大なものが自分を探している理由がまったく思い当たらなかった。戸惑いながら問う。

「君は、僕を助けに来たのか」

「一言でいえば、そういうことになる」

 修の家もわずかに歪んだようだった。気のせいか、身じろぎしただけで建物が傾いていく。黒江は修の手をつかもうとした。だが、指が触れるか触れないかといったときに、修は思わず腕を振り払うようにひっこめた。その乱暴さに黒江は驚いたようだったが、すぐに納得した表情をすると、修を手招きした。ほかの住人は誰一人残っていなかった。

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