アケローン 声にならぬ苦悩

1-1

 閉ざされた部屋はひたすらに暗く、少年の眼には光がない。カーテン越しに陽光が透けるが、あたりを明るくするには埃が多い。

 光と影の切り取られた境目、布団の上に座り込んだ少年の傍らに少女は腰かける。彼、庵地いおちしゅうは口を開かず、うなずきもしない。ただ床を見つめているばかりだ。彼が高校に通うことを拒んで何週間も経つ。心を閉ざし、メールにも返事をしない。少女の声が聞こえているのかどうかもわからない。けれども、ほたるという名の少女は優しく言葉をかけつづける。学校で起きたことや、通学路で感じられた季節の変化について穏やかに語る。

「だんだん暑くなってきたし、そろそろアイスを食べながら帰るのが楽しみだな」

 そう言いながら、隅に積んである普段着や、ハンガーにかかったままの制服に目を向ける。使い捨ての食器がゴミ箱に詰め込まれているのを確かめる。風呂にも入っているようだし、洗濯物もため込んでいるわけではない。一応、修が最低限の身の回りのことはしているとわかる。だからほたるは少しだけ安心する。部屋が少し埃っぽいのも、一人暮らしではよくあることだと思ったらしい。

「それが終わればいよいよ夏休みだよ」

ほたるの優しげな口調は、拗ねてしまった幼児をあやす母親のようだ。肩のあたりで揃えられた髪が揺れ、丸顔をかわいらしく覆う。大きな瞳はまっすぐに修を見ている。でも、修は膝の間から床を見ているばかりだ。だから、ほたるの言葉も、湖の中に投げられた石のように沈んでいく。

 一通り話し終えると、ほたるは整頓された鞄の中からファイルを取り出す。

「これが今日の課題ね。数学と英語と神学。仏典と聖典の対応関係までが試験範囲だって。宿題、あまりため込むと、後が大変だからね?」

 しかし、修は受け取ろうとしない。二度と学校には顔を出さないと決めているらしい。仕方なく、ほたるは机の上にそっとプリントを置いた。そこには手を付けられないままのプリントが山になっている。触られた形跡はなく、皺ひとつない。

ほたるは感情を見せない修の肩に手をやろうとし、ためらい、それからあまりにもはしたないと感じたのかやめにする。けれども、ほんの少しだけ修に寄り添うように近づいた。

「庵地君のお姉さんのこと、私も残念に思ってる」

 少年はわずかに少女に注意を払う。彼の関心のあるのは、姉のことだけだ。

目の前で死んでしまった姉、聖蓮せれん。唯一の肉親であり、心のよりどころだった。そんな彼女が突然奪われる可能性なんて考えたこともなかった。そして、起きるはずのない出来事のせいで修はうちのめされている。ほたるは悲しげに続ける。

「こんなことを口にするのは罰当たりかもしれないけれど、私にもどうしてあんなことになったのかわからない。私もしょっちゅう生徒会でお世話になったけれど、天罰が下るような人じゃなかった」

 修も、姉が消し去られたのを目の当たりにしたのにもかかわらず、いまだにそれを現実のものとして受け入れられていない。あまりにも鮮烈すぎて、かえって現実感を欠いた悪夢のようだった。だが、修以外の人々にとっては、無明時代を終わらせたタカマガハラ族の裁きに畏怖するしかなかった。

 無明時代とは何か。それは長く続いた悲惨の時代だった。驕りにより文明を崩壊させてしまった人類が甘受すべき罰であった。知識は失われ、明日の生存も確かではない退行の時代。その苦痛を終わらせたのが神であるタカマガハラ族だった。彼らは姿を見せることなく宗教、政治、経済のすべてを再建・統一し、人類をかつての水準にまで引き上げた。

 タカマガハラ族は人類の安寧のためにすべてを与えた。人類に奉仕しているようでさえあった。一切が人類の繁栄に捧げられてきた。あらゆる悪は根絶された。少なくとも、即座に罰が与えられた。凶器によって人を傷つければ、即座に天からの雷、アマツミカボシが撃たれた。あらゆる暴力は不可能になった。

だから、誰からも愛されていた聖蓮の死はあまりにも不可解だった。街中で何の前兆もなく、空からの光で彼女は焼き尽くされた。

 しかし、周囲の人々は驚きこそしたものの、その後は無関心だった。人類に繁栄をもたらした神々の裁きに間違いがあるはずがない。ゆえに、聖蓮に何らかの落ち度があったのだ、と。たとえば、取り繕われた外見の下はよこしまな考えで満ち溢れていたのだとか、想像できないほど淫乱であったのだとか。挙句の果てには、大量殺戮の果てにタカマガハラ族の体制を転覆しようと試みていたのだ、とまで口にする者もあった。

 修はそんな言葉に耐えねばならなかった。姉の死を悼む者がわずかだったことはきつかったし、罪人の弟として冷たく扱われることもつらかった。だが、何よりも受け入れられなかったのは、誰も姉の無実を信じてくれなかったことだ。教師どころか友人でさえも、タカマガハラ族の裁きに何の疑いを持たなかった。だから修は、何も信じることができなくなっていた。自分以外の誰かと親しくしたくなどなりたくなくなった。ましてや、社会とかかわりなど持ちたくない。

 だが、ここにいるほたるは、少なくとも判断を保留してくれている。

「私は庵地君にまた学校に来てほしいな。教室にいない人がいると寂しいから」

 それは素直な善意だった。だから、やっとのことで少年は言葉を発した。滅多に口を開かないためか、声は少しだけかすれていた。

けやき、すまない」

 少女は、そのひとことで報われたかのように微笑んだ。

「また来るからね」

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