害虫と益虫と
目が覚めて視界に飛び込んできたのは、まぶしい光を放つ蛍光灯だった。
「ようやく目が覚めたかい」
隣から聞こえてきたのは、若い男性の声だった。右を向くと、パジャマ姿でベッドから上体を起こしていた青年の姿があった。なぜだか彼に見覚えがあった。
「ええと」
口ごもっていると、青年はナースコールのボタンを押した。すぐに医者と看護師が飛んできた。やがてやつれた顔した両親と制服を着た警察官がそろって入ってきた。
彼らの話を要約すると、ゴルフ場の駐車場を取り囲むフェンスの外で倒れていた自分を発見したスタッフが通報、この病院に運び込まれたという。幸い、身体に異常はなかった。
ではなぜ病院のベッドに寝かされていたのか?
なんと3日間も行方不明になっており、検査入院が必要と判断されたらしい。
ありとあらゆる人から事情聴取を受け、両親と祖父母と大学関係者だと名乗る男から叱責を受けた。とにかく多大なる迷惑と心配をかけたらしい。そこは謝ったが、昆虫採集中に起きた出来事を話すと、揃いもそろって首を傾げた。警察は崖から落ちたせいで記憶が混乱しており、どこにでもいる虫を見間違えた、そして崖から落ちた後2日間駐車場付近で気絶していた、と結論付けて帰っていった。医者からは明日退院できると伝えられた。大学は後期が始まるまで休学中ということになった。
用が済めば来訪者はいなくなる。なかなか寝付けなかった。
昨日はずっと目を閉じていた隣のベッドの青年も、今は調子がいいらしく、さっきまで楽しそうに看護師と雑談をしていた。
「なあ」
俺は彼に声をかけた。
「マモル君だったんだね」
微笑みかけるその声で、彼がタカユキ君だと気づいた。全体的にげっそりとこけてしまっていたので、誰だか分からなかったのだ。よっぽど何かあったのだろう。
「マモル君はなんか、変わらないね。虫のために全部振り切っちゃうようなところ。だいぶ会話が聞こえちゃってたから」
「ああ、そうか」
乾いた笑い声しか聞こえなかった。さっき自分もタカユキ君たちの会話を聞いてしまったからお互い様だ。
「信じてくれるわけないよな。あんなこと」
「んー、どうかな。前話したっけ? 秘密の庭のこと。そこもあんな感じだったよ」
小学生の時の会話。もちろん覚えている。
「噴水があって、ごちゃごちゃした花壇があってっていう?」
「そう」
羽が全身ピカピカだというチョウ。言われてみればその庭で見たと言っていた。当時は絶滅種のことなど頭になかった。
「まさか同じところに行ってたりして」
「それなら辻褄が合う、と言っていいのか?」
もしそうだとしても、あんな場所は幼子が簡単に立ち入れるところではないと思うのだけれど。
「でもさ、やりたいことがあって、それにまっすぐ向き合っていて、僕はかっこいいと思う」
「それでこのざまだよ」
「夢があっていいなってこと」
タカユキ君の病状は詳しくはわからない。でも、タカユキ君にも、やりたいことがあるのは分かっている。近くにいくつかの本が置いてあるし、1人の時には表紙に庭園の写真が載っている本を読んでいたようだったから、もしかしたらそういうことに関わる仕事がしたいのかもしれない。あるいは完全に趣味だとしても、行ってみたいとくらいは思うだろう。
夢があっても、彼は今夢を叶えられる状態ではない。
「そうだ、大学のこととか教えてよ。行ったこともないし」
「ここで話すことでもないよ」
「何でもいいから。病院の外の話なんてめったに聞くことないし」
入院生活はだいぶ長いのだろうか。気分を害さないように話すつもりだが、おもしろくないかもよ、と前置きした。
「とにかく虫の研究ができるところって思ったからそういう学科を選んだんだよ。そしたらさ、虫を殺す研究なわけ。アリエンでしょ」
「どういうこと?」
「人間にとって虫って邪魔な存在なんだろうね。ほら、農作物をダメにしたり、人間とかを病気にしたり。そういうことが起きないように虫をどう駆除するかっていう研究をやっている」
「カブトムシがどうとか、チョウはこんな種類がいるとか、そういうことじゃないんだね」
「そうなんだよ」
だいぶ鬱憤が溜まっていたのか、いつになく饒舌になって大学についての不満をもらしていた。
「でもさ、マモル君は虫が虫を食べたりすることもダメ? クモは家に来た虫を食べてくれるとか、テントウムシはアブラムシを食べてくれるとか」
「いや、それは違うかな」
食物連鎖の中で虫が死んでいくのは、かわいそうと言えばそうだが、仕方ないと思う。人間だって別の生き物を食べていかなければ死んでしまう。虫だって、何かを食べて生きていかなければ死んでしまうのだ。
「何で人間は虫を毛嫌いするんだろうね」
「はちみつは好きなのにね」
2人でクスクスと笑い出した。看護師さんが、消灯の時間ですと見回りに来る。2人揃ってシーツにくるまった。
米や果物を食べる虫は害虫だけれど、虫を食べる虫は益虫。
病気を運んでくる虫もいるけれど、花粉や蜜を運ぶ虫だっているのだ。すべては人間の見方次第。
人間に役に立つ虫だって、たくさんいるだろう。そんな研究だって、誰かの役に立つ。真理を探る研究も、それを応用する研究も、この社会の中では必要としているんだ。
自分は虫を守る研究がしたい。
後期になったら、益虫について研究できる研究室を探してみよう。きっと、誰か1人くらいは面白いと言ってくれるんじゃないかな。
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