虫たちの楽園

 立ち入り禁止。入らないでください。

 錆びた注意書きの貼りついたフェンスの奥にはゴルフ場があると記憶している。まずは近くから、と一日中歩き回った。物珍しい虫はなく、成果は五回ほどヒルに噛まれたくらいである。

 普通の人はヒルに噛まれたくない。駆除しようと考えるのも理屈は通っている。でも、自分はこれごときで虫の大量殺戮なんか考えたくない。頬を両手で2回たたくと、大股で歩き出した。

 ペットボトルの水も底をつく頃になっても、新種どころかセミ一匹見つけられずにいた。虫は夜行性のものも多い。夜に備えて休憩しようと考えた。日が傾きだしたころに買っておいたおにぎりを頬張り、また歩き出した。とにかく動くものがあれば夢中で追いかけた。

 空が赤く染まりだすころ、1つ大切なことを忘れていた。

 泊まりの用意はしていない。

 キャンプ道具はおろか、荷支度も1日分しかしていないので、一晩過ごせるかどうか怪しい。森の中のキャンプは、夏とはいえ、野生動物もいるなかでの命がけの試練である。とにかく山を下りたほうがいいと判断したが、ここがどこなのかさっぱりわからない。スマホの位置情報も当てにならないし、いざというときのためにバッテリーを残しておきたかった。

 どうするか。うんうん頭をひねっていると、フェンスが目に付いた。そうだ、確かゴルフ場がある。スタッフから聞いてみようか。フェンスを伝っていき、出入り口を探した。やがて一部穴が開いている箇所を見つけた。きっと狸か何かの抜け穴に違いない。何とか人が通れるだけの大きさまで広げると、地面に這いつくばって中まで入っていった。

 きっと背の低い動物、猫とかはきっとこんな感じに世界が見えているんだろうな、と新鮮な気持ちだった。足までフェンスを潜り抜けたくらいで立ち上がる。ゴルフ場はもう少し奥か? ずんずん背の高い木の合間を縫って歩いていく。

 開けた先にあったのは、ゴルフ場ではなく、立派な庭園だった。真ん中に岩を並べて取り囲んだ噴水がある。一応水が噴いているものの、池の大きさに対して規模が小さかった。その周りを4つの花壇が取り囲んでいる。何だろうか、ぱっと見て雑草が植わっているという感覚はなかったものの、園芸品種にしては不格好なものも多かった。誰かに手入れされた痕跡もほとんどないが、どの花も立派に咲いている。何となくゴルフ場の一角ではないと思った。自分が歩いてきたほうに道が伸びているのもおかしな話だからだ。周りには建物の影も見えない。一体ここは? とりあえず思ったのは、ここがどこにせよすぐにこの庭園から出たほうがよさそうだ、ということだ。建物とは離れていそうなので助けを求めるにもそちらに伺うべきだし、下手に不法侵入で通報されても困る。直感でまっすぐ前の道を選んだ。

 ずっといっても、森が続いた。

 そもそもここは森の続きなんだろうか。

 周りの木は針葉樹が多い。さっきまでは落葉樹の森を歩いてきたはずだ。スギ林にでも入ってしまったか? どうやら本格的に迷子になってしまったらしい。これは最終手段、とスマートフォンを取り出した。下手に動かず助けを呼ぶことにした。そんな願いを無視するかのように、スマホは圏外を示していた。

 万策尽きた、がっくりとうなだれていた時だった。

 透き通った黄色い羽のチョウが、ひらひらと飛んでいった。

 顔を上げて目で追った。ひらひらひらひらと、自分のことをどこかへ誘うように舞っている。

 あのチョウは確か……絶滅を危惧されている、幻のチョウ……。

 虫取り網を構えてわっととびかかる。こんな山奥だが、めったに見られるものではない。何とかあれを捕まえて研究すれば、種の保存、それに貢献できれば。

 元ムシ博士は、いかなる虫も絶滅から守る。

 虫取り網片手に黄色い羽のチョウと格闘を始めた。網を振るたび、チョウはのらりくらりとかわし続ける。持久戦に切り替えて様子を見ても、チョウはどこで羽を休めるでもなくふわふわと周りを飛んでいる。どれだけのスタミナがあるんだ。こちらも精一杯飛びはねて捕獲を試みたがチョウは逃してしまった。

 捨てる神あれば拾う神ありとはこういうことを言うのだろう。飛びはねた先でとんでもないものを見つけてしまった。

 現地の森林伐採や焼き畑農業、あるいは乱獲で姿を消してしまったというオオカブト。ここで会ったが100年目。気が付けばそちらを追いかけていた。それだけではない。セミにクワガタ、カマキリ、アリにタガメ、現在では姿を消したとされている虫たちがそこかしこをうろついている。

 一体どうなっているんだ、この森は。

 一歩歩けば貴重な生き物を潰してしまいかねないこの状態に、固まってしまった。一体何から捕まえればいい? アリ? クモ? ムカデか? いややっぱりカブトムシ?

 ぐるぐる頭の中でターゲットが絞り切れない中でえい、ととびかかったのは、最初に見つけた黄色いチョウだった。

 いったか? と飛び出した先は、崖だった。両手が網から離れない。もう駄目だ、と重力のなすがままに崖から落ちていった。

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