第二話 呪文は広東語

 突如現れた小型の女性に変な渾名をつけられた挙句「呪われている」と宣言され、強は激しいショックを受け、自分がこの後どうするべきなのか暫く考え込んだ。口髭を軽く引っ張りながら、意識の奥深く、深くへ……。

 (これは生物なのか?女性なのか?天使とは?広東語とは?中国語ではないのか?……――)


 そして数分後。我に返った強はズボンの右ポケットにスマートフォンを入れていた事を思い出し、取り出してカメラモードを起動した。そして、辛抱強く彼の反応を待つアンジェリーナへカメラを向けた。しかし、画面の中に映り込んだのはガラスの破片が散らかった床だけだった。残念ながら、スマートフォンのカメラは『広東語の天使』を認識しなかった。

 「あれ、映らない……?」

 「映るわけがありません、私、アンジェリーナは天使ですから。貴様、特別に私をアンジーと呼んでも構いません。私も貴様を飲茶と呼びます。『飲茶超人』だと長いですからね。」

 アンジェリーナは胸を張り両手を腰にあて、フフンと小さく鼻で笑った。その拍子に太い鼻毛が出入りしたのが見えて、強は居た堪れない気持ちになった。と同時に「天使なのに、あんなに太い鼻毛が生えているのか。」という疑問が、彼の心の中に浮上した。

 「あの……鼻。」

 「鼻が何か。私の美しい鼻の写真を撮りたいのですか。」

 「いいえ……何でもないです。」

 「間違いなく鼻って言いましたね、鼻が何ですか。」

 アンジェリーナが目を見開いて近づいて来た。体は小さいのに、圧倒的な迫力であった。

 「鼻は何でもないです。ただ、その……アンジェリーナさんを、骨董品店のゆるキャラとして、SNSにアップしようと思っただけです。」

 「ゆるキャラ?いいですね。貴様、ライセンス料として月に10万円私に支払いなさい。」

 「……あなた、さっきから胡散臭いですね。名前もアンジェリーナ・ジョリーって、それ絶対偽名ですよね?それに広東語の天使って何ですか、妖怪の間違いじゃないですか。」

 ライセンス料10万円発言に驚いた強は思い切って問い詰めたが、鼻毛の事は伏せる事にした。

 「偽名ではない!アンジェリーナは私の素晴らしい英語名イングリッシュ・ネームなのです。そして、広東語の天使とは、魔法戦士・飲茶超人を守護する美しい大天使様なのです。」

 「はあ……。僕、魔法戦士なんですか。ピンと来ないなあ。」

 アンジェリーナがまた胸を張ってフンと強く鼻から息を出したので、強は再び鼻毛を目撃する事になり、ますます彼女の存在が奇怪なものに思えてきた。

 「いいですか飲茶、今から40〜50分以内に、悪の魔法超人が決闘をしに来ます。それを退治しなさい。退治したら、貴様にかけられている呪いが何かを教えます。」

 「呪い、ですか。呪いだって、あなたの嘘かもしれないですよね。」

 「嘘ではない、二つの呪いがかかっています。一つ目、貴様は二度と吸着音を発音できません。」

 「はあ、そうですか。それは残念だ。」

 「二つ目の呪いは、困る呪い。でも今は教えません。」

 恐ろしい呪い、例えば病気や死に関連する呪いを想像していた強は、深い安堵の溜め息をついた。呪いについては彼なりに心配していたのだった。

 強は、アンジェリーナが言う二つ目の呪いも、彼女が到来を予言した悪の魔法超人とやらも、特に害は無さそうだと判断した。そして、床に散らばったガラスの白菜を片付ける作業に取り掛かった。

 「喂、飲茶!無視するのではない!吸着音が出せないという事は、舌打ちも出来ないし、アフリカ言語も習得出来ないのですよ。」

 「いや、アフリカは別にいいです。」

 「では舌打ちしてみて下さい、音が出ないはずだ。」

 強はアフリカには全く興味が無かったが呪いの真偽については気になったので、掃き掃除を続けながらも舌打ちを試みた。チェ、という音を出そうと舌を動かしたが、確かに音が鳴らなかった。

 「まあでも、生活に支障は無いし。いいですこのままで。」

 「飲茶、話を聞いて下さい。」

 「今、先にここ掃いてしまわないといけないんで。ガラス危ないですから。」

 「喂……喂……。」

 アンジェリーナは怒り始めたのか元々険しい表情がさらに険しくなり、白い丸顔は今や濃いピンク色へと変色し、さながら桃のようであった。強はガラスの欠片を塵取りに集めながら、アンジェリーナに店から出て行ってもらう方法を思案した。一通り片付いたところで強が再びアンジェリーナの方を向くと、彼女は静かに泣いていた。

 「え、どうしたんですか。」

 「何でもない……。飲茶超人、あと20分しかないです。どうか無視しないでください。」

 「何が20分?ああ、悪の魔法使いが来るんだっけ。でも僕、魔法戦士になるなんて同意していませんよ。そういうのって、契約が必要なのでは。一方的に決めていいものではないですよね。」

 「契約は必要ありません。あの美しい白菜を割ったその瞬間から、貴様は魔法戦士・飲茶超人となったのです。」

 「あれはチャッピーが割ったようなものなので、魔法戦士はチャッピーだと思うのですが。チャッピー呼んで来ましょうか?」

 強が階段の方に歩き出そうとすると、まだ涙の乾かないアンジェリーナが空中をパタパタと走ってきて、強のTシャツの端を小さな手でぎゅっと掴んだ。強は「小さくて可愛いかもしれない。」と一瞬考えたが、それを打ち消すように頭を静かに振った。

 「お待ちなさい飲茶!猫がどうやって言葉を話すのですか。さあ、急いで魔法の呪文を覚えるのです。」

 「魔法の呪文って、ファイアとかエロイムエッサイムみたいなの?」

 ファンタジー小説のようでちょっとカッコいいかもしれないと思った強の甘い考えを、広東語の天使は一瞬で打ち砕いた。

 「いいえ。呪文は広東語です。」



 「呪文は広東語……左様ですか……。」

 「まず、紙を準備して下さい。」

 正直なところ強はがっかりしていたが、手の甲で涙をゴシゴシ拭うアンジェリーナの姿が少し可哀想だったので、言われた通りに手近にあった紙をアンジェリーナに差し出した。店のポップ用に準備して余った、ハート型に切られたピンクの紙である。彼女はそれを小さな手で受け取ると、突如目をカッと大きく見開いて紙を凝視し、叫んだ。

 「打邊爐da bin lou!!」

 発声と共に目から赤いレーザー光線が放たれて紙の表面に細い線を描き、やがて『打邊爐』の三文字が完成した。強は、アンジェリーナの事を小さくて可愛いと少しでも考えてしまった事を後悔した。

 「本当に時間が無いから、まずこの漢字を覚えて。これが呪文。」

 「げっ、画数多い!難しい方の渡邊さんの邊……。そもそも、何の呪文ですかこれ。」

 「それは後で。漢字を覚えたら、次は発音。広東語は声調言語だから、発音する音の高低で語の意味が変わります。例えば同じaという音節でも、高音の一声で発音した場合と低音の四声で発音した場合では、違う意味になるということです。わかりますか?」

 「わかりません……。」

 「詳しくは後で広東語の入門書を読んで下さい、私も教師ではないので理論の説明は上手くはないのです。それでは、『打邊爐』の発音。まず最初の漢字『打』はdaと読みます。韻母、つまりdaの主母音ですが」

 「ちょっと待って下さい、主母音?ボインボイン?母音って何だっけ?今スマホで検索するので。」

 「有冇搞錯……検索は後にして下さい。」

 「……はい。」

 アンジェリーナが強には意味のわからない言葉を吐き捨てるように言った。強は発音の調子から罵詈雑言の類かと思い少しムッとしたが、また目からビームを出されるのが怖かったのでそのまま彼女に従うことにした。

 「主母音はdaのaの部分です。少し低めの音域から高い音域に上昇させます。そして、『邊』は高い音域を維持したまま、bin。『爐』は、低い音域からさらに下降させる、lou。はい、発音してみて。打邊爐!」

 「ダァビンロウ……。」

 「爐はもっと下げる!それから、大きな声で発音して下さい。自信なさそうに小声で発音しても、魔法の呪文にはなりません。」

 「ダァビンロウ!」

 「貴様、さっきよりも良くなりましたよ。」

 アンジェリーナはにっこり微笑んで強の発音を褒め、ちょこまかと謎のステップを踏んで踊った。強は外国語の発音を初めて褒められ嬉しく思うと同時に、小さな広東語の天使の事を「やっぱりちょっと可愛いな。」と思うようになった。

 「ありがとう。ところで、あの、貴様って呼ぶのをやめて欲しいのですが。」

 「何故ですか?」

 「それは、丁寧な言葉ではないからです。」

 「そんな馬鹿な……あ!」

 アンジェリーナは突然、雷に打たれたように身を固くし小さく叫んだ。そして、強のTシャツの裾を引っ張って騒ぎ始めた。

 「あいつが来た、あいつが来た!外へ出ろ、店の中では戦えません!」

 「あいつって、悪の魔法使い?」

 「そうです!早く外へ!」


 言われるままに店外へ出ると、店から数メートル離れた路地に高校生ぐらいの少女が所在無さげに立っていた。少女は黒いボーラーハット、そしてやけにレースの多い黒いワンピースに黒いブーツという、地方の小さな港町からは完全に浮き上がるような服装をしていた。黒く長い髪の毛には縦ロールのパーマがかかっており、どのようにその髪型を維持しているのか強には全くわからなかった。少女の顔立ちは整ってはいるものの顔色が悪かった為、まるで霧の中に幽霊が佇んでいるように見えた。そして彼女の横には、古代の甲冑を着た小さな中年男性が浮いていた。


 「久しぶり、ラテン語の堕天使、ネロ!」

 ドスの利いた声でアンジェリーナが叫ぶと、中年男性がニヤリと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る