魔法戦士・飲茶超人

@maaumaaumaau

第一話 広東語の天使

 小さな港町が濃い霧に包まれたその日の朝、繁華街の路地裏にひっそりと佇む骨董品店『コルドゥン』の店主・我孫子あびこつよしは、薬箱から取り出した頭痛薬を温い煎茶で流し込んだ。それから小さいお饅頭を一つ口に入れると、裏口から店外に出て表に回り、慎重に外のシャッターを開けた。シャッターの騒音が、この静まり返った路地裏にさざ波を立てる事を気にかけている訳ではない。彼がこの店を引き継いだ初日、勢いよくシャッターを開けた衝撃によって、壁に陳列されていた古い木製の仮面が落下、真っ二つに割れてしまった。以来、強はシャッターやドアの開け閉めのみならず、店内に於ける全ての動作を、可能な限り慎重に行う事にしていた。骨董品の破損を惜しく思っただけでは無く、仮面の落下した地点を歩く際、ボソボソと何かを囁く声が聞こえるような気がして、気味が悪かったからだ。

 「ニャア。」

 小さな鳴き声と共に、店の中からモジャモジャの茶色い猫が強の足元へと近寄ってきた。彼は前の店主、つまり強の祖父が飼っていた雄猫で、ドモヴォイという名前であったが、強は彼が子猫の時からチャッピーと呼んでおり、猫も自分をチャッピーだと認識しているようであった。

 「お早う、チャッピー。今日も可愛いね。」

 「ニャア。」

 チャッピーは小さな頭を強の足にスリスリと擦りつけた後、空の餌皿をじっと見つめた。

 「お腹が空いたんだね、ちょっと待って。」

 強はチャッピーの頭を優しく撫で、レジの後ろの棚から猫缶を取り出してきて、中身を餌皿に開けた。チャッピーは美味そうに『テリーヌ仕立ての柔らかマグロ・七面鳥とホウレン草添え』を食べ始めた。

 「可愛い看板猫チャッピーに、こぢんまりとした店内、ファンシーな骨董品が所狭しと並んでいるのに、どうしてこの店は流行らないんだろう。この街が寂れているからなのか、それとも、この店が呪われているからなのか。」

 強は脱サラ後に伸ばして整えた口髭の先を軽く引っ張りながら、チャッピーの太った背中に向かって話しかけた。勿論猫缶に夢中のチャッピーから答えは無く、その期待もしていなかったのではあるが。

 「しかし!このまま手を拱いているわけにはいかない。この状況が続くと、店はチャッピーの高級猫缶代で大損失の大赤字だ。そこで今日は何と、ジャジャーン、女子高生にも大ウケ必至の、ピンク色のポップを準備してきました。」

 強は開店時間中チャッピー以外の生物と会話をすることがほとんどないため、すっかり独り言を言う癖がついてしまった。彼は猫以外誰もいない空間に向かって、これから開演するマジシャンのように一礼をすると、自宅から持参した紙袋の中からハート形に切り抜いた厚紙を取り出した。紙には創英角ポップ体で『激カワ!ミニチュア弥勒菩薩半跏思惟像』『恋が叶う!?ケニアの牛角笛』『英国王室御用達・処刑前日のティーセット』等のキャッチコピーが踊っている。昨晩、己の正気を疑いながらも、寝る間も惜しみ何時間もかけて製作した50枚近くのピンクのハート。強はそれらを満足気に眺めた後、商品の前にテープで丁寧に固定し始めた。

 しかし、作業を開始して五分も経たないうちに、強は飽きてしまった。彼は幼い頃から、こういった単純作業が苦手であった。

 「そもそも、どれだけ店内に工夫を凝らしても、客が来なければ意味が無いのでは。」

 彼がその衝撃的な結論に達し、雷に打たれたように立ち止まった時、チャッピーが突然「フーッ」と唸り始めた。そして、そのブヨブヨに太った身体からは想像出来ないような俊敏な動きで、強の右手に向かって飛びかかってきたのだ。驚いた強は、ちょうど手に持っていたガラス製の白菜の置物を床に落としてしまった。祖父が八万円と値付けしたその小さな美しい白菜は、石の床に打ち付けられ、粉々に砕け散った。

 「チャッピー、何てことをするんだ!こら、チャッピー!」

 チャッピーは強を襲撃したそのままの勢いで横の階段を駆け上がり、二階の物置部屋へ逃げ込んでしまった。チャッピーは大人しい猫だったので、強には彼が何故そのような動きをしたのか理解出来なかった。強はすぐに衝撃から立ち直ったものの、今更チャッピーを追いかけて叱る気持ちにもなれず、ガラスを片付ける為に階段の側の箒に手を伸ばしかけた。その時だった。

 「wai。」

 野太い女性の声が、背後から聞こえた。強は全身の血の気がざあっと引いていくのを感じた。強と猫一匹以外誰もおらず、来客の気配も音も無かったこの店内で、何故女性の声が聞こえるのか。強は箒を掴むと、ゆっくり振り返った。泥棒や居直り強盗の場合は箒で応戦すれば良いし、万が一来客であった場合にはそのまま箒でガラスを掃くつもりだった。

 だが、振り向いた強の視界に入ったのは、泥棒や強盗、来客ではなかった。白菜のガラスの破片の上に、身長30センチメートル程のオカッパ頭の中年女性が浮いていた。彼女はピンク色の半袖に、赤いサスペンダー付きの半ズボンという、昭和の小学生女児のような服装をしていたが、顔の造形と表情は邪悪な中年男性のようであった。化粧はしていなかったが、真っ白な肌は鏡餅のようにすべすべして見えた。

 「ひぃ……!」

 「ひぃ、じゃないですよ。初めて会った人には『こんにちは』です。貴様、姓名は。」

 「あ、あわわ」

 「あ、が姓で、あわわ、が名。」

 「違います、僕は、あびこ・つよしって言います。」

 強が女性の勢いにつられて名を名乗ると、彼女は目をカッと見開いて、ラッパのような声で怒鳴った。

 「発音しづらい!!」

 「ひいい、ごめんなさい!」

 「そうだ、今日から貴様の名前は飲茶です。飲茶jam tsa超人tsiu jan。どう、いいでしょう。」

 「はい?」

 「飲茶、中国語は話せますか。」

 「話せるわけないじゃないですか。あの、あなた、何ですか。」

 おかっぱ頭の中年女性はチッ、と強く舌打ちをした。

 「ど素人。仕方ない、あと一時間で何とかしなくてはいけません。」

 「あなた、何なんですか。」

 強は泣きそうな声でもう一度、女性に問いかけた。得体の知れないものを目の前にして、彼の両膝はガクガクと震え、心の中では「チャッピー助けて!」と叫んでいた。

 「私?私は蘑菇頭……いや、アンジェリーナ・ジョリー、広東語の天使です。そして貴様、呪われていますね。」

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