【現代ファンタジー/シリアス・恋愛】アイタイ。…2
僕がまた君を見つけるまでには、それからさらに数年が必要だった。
大学生になって一人暮らしを始めた僕のもとに、君は再び現れた。
今度はベランダに。
歌声はテレビ番組の笑い声に混じって聞こえてきた。
始めは空耳だと思った。
でも、歌声は記憶よりも力強く、鮮明に聴こえてきた。
テレビを切ると、さらにはっきりと耳に届く。
カーテンを開け、その瞬間、僕は凍り付いた。
君が立っていた。
こちらに背を向けている。
ベランダから見える星空に向かって両手を広げて、君は歌っていた。
「あの」
そう声を上げて、掃き出し窓を開けた瞬間だった。
君は、最初に見つけた時と同じように、ふっと空間に溶けるようにして消えてしまった。あとには、空に瞬く星の光が、闇夜にベランダを白く浮かび上がらせている光景だけがひっそりと残っていた。
また失ってしまった。大きな過ちを犯してしまった。
僕は後悔して、泣きだしたいような気持になった。焦った自分がひどく愚かで欲深い人間のように思えてならなかった。繊細なものを手荒く壊した自分がいると、苦々しくも認めるしかないと思っていた。
でも、終わりじゃなかった。
この出来事から数日後。
君は何度もベランダに現れるようになったんだ。
そして、三度目で僕はある法則を見出すことが出来た。
君はベランダに続く窓を開けると消える。
でも、閉じたままでいれば、数分間でもベランダに存在してくれるんだ。
君が現れる時間は決まっておらず、早朝もあれば深夜もあったし、真昼間に現れることもあった。君は毎回僕に背を向けていたのだが、ある日、何の前触れもなく、いきなりふり返り、そして、ガラス越しに立つ僕を見つけた。
そう、君は僕を初めて見つけたんだ。
今までは僕だけが君を知っていた。互いに存在に気づいたのはこの日が初めてだった。君は驚いた顔をして目を見開き、そして一瞬にして消えてしまった。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。
それか、ずっとあと、忘れた頃に戻って来るだろうか。
僕は不安になった。惜しいことをしたと悔いた。隠れているべきだったと、自分の浅はかさと無遠慮さに恥じ入った。
でも、君は翌日にも、その次の日にもベランダに現れてくれた。
今度は僕の方を向いて。
互いに窓越しで見つめ合った。
君は、最初に見つけた日と変わらない姿をしていた。
細身で白いワンピースを着ていて、長い髪は銀色、瞳はブルー。
近くに寄れたことで、知ったこともある。
長い銀髪の右上を一本、三つ編みに結んで垂らしている。毛先にはリボンが結ばれていた。それに首には黒いチョーカーをつけている。
そして、これは多分一番の収穫だと思うのだが、君の名前を知ることが出来た。チョーカーには星型の飾りがついていて、そこに小さな文字で『メル・アイヴィー』と刻印されていたのだ。
「メル……アイヴィ……?」
僕が読み上げると、君はゆっくりほほ笑んだ。
「これ、君の名前?」
また微笑む。そして、小さくうなずいた。
「僕は――」
名前を伝える前に、君はふっと消えてしまった。
君の歌声が聞こえると、早朝や深夜であろうと目を覚まして、僕はベランダに向かった。窓越しに向き合い、歌が終わるまで耳を傾けると、それから、ゆっくりとした会話をした。会話と言っても、僕が一方的に質問して、君がうなずいたり首をふったりするだけだったけれど。
それでも、僕たちは親しい関係を築けていたと思う。
君は笑い、手を叩くような仕草もした。
でも不思議なことに、歌声以外の音はまるで聞こえず、君がどんなに笑って大喜びしているようでも、決して音は聞こえてこなかった。
それは、寂しく、物足りないことでもあった。
でも、歌は聴こえたので、いつしか僕も君に合わせて歌うようになった。
言葉は分からなかった。聞いたことのない音の重なりだ。
高くなり、低くなる旋律は難しく、僕の歌声はひどいものだったが、君は愉快そうにするだけで、怒るようなことはなかった。
君とのまどろっこしいやりとりの末、この歌は祈りの意味が込められているのだと知った。平和や成長、恋の祈りもあるそうだ。複雑な呪文のような言葉と強弱のある音の連なりには、それぞれに目的があって奏でられているらしい。
また、君が歳をとっていない理由も対話の中で、なんとか理解した。
君と僕との時間軸が違ったのだ。僕にとっての数年が、君にとっては数時間、または数日であることも多いらしい。君には君の時間が流れていて、けっして歳をとっていないわけではないという。
「ここ以外でも会えないかな」
たとえば、海が見える場所とか、もっと星がきれいな場所がいい。
でも、君は首を傾げ、困った顔をするだけ。
君は気づけばここにいて、気づけば消えている。
何の目的があってそうなるのか、お互いに分からないのだ。
そしてそれは、いつ、また君に会えなくなるか、僕らには全く予想がつかないということでもあった。それなのに、僕がそのことに気づいたのは、すでに君を失ってからだった。
あの日は夕暮れ時に君が現れ、僕は他愛のない日常の報告をしていた。
翌週からは長期休暇で、僕は実家に帰る予定になっていた。
「あの神社で会えないかな」
こりずに僕は提案した。最初、君を見つけた神社ならば、もしかしたら。
彼女の答えは分かっていたけれど、あの場所ならと、胸が期待に膨らんだ。
でも、君はやっぱり首を振り、困った顔をする。
「ごめん。約束はできないんだったね。でも、ひょっとしたら」
会えるかも。
あくまで、理想を言っているだけ。
でも、これには君も微笑んでくれた。
大きくうなずき、目を細めて少し首をすくめるようして笑う。
もしかしたら、会えるかもしれない。
もちろん、会えないかもしれない。
「お互いにさ、会いたいって願えば、会えるかも」
歌、歌ってよ。願ってみて。
息を吸い、歌いだす君。音が聴こえる。歌だけは、君の声で聴けるんだ。
「もっと近づけたらいいのに」
僕はつぶやいた。
音にならない声で、夕日の中で歌う君の背に、そっと小さく。
帰郷中は何度も神社へ行った。
でも、君には会えず、あの公園にも足を向けたが、歌声もメルの姿も何もなかった。がっかりしたが、それでも帰宅を楽しみにして時間を過ごしていた。
前向きな気持ちで満たされ、まさかそれが無慈悲にも打ち砕かれるとは、わずかも考えずにいたんだ。
帰宅後、ベランダにまっすぐに向かった。
閉じられたカーテンを開ける。耳を澄まし、目を凝らす。
でも、誰の姿もなかった。
夜、またベランダを見る。いない。
翌朝、今度はベランダに出て、左右を見回した。
いない。どこにも君の姿はない。
ベランダには、知らぬ間に吹き込んできたナイロンのゴミ袋が転がっていた。
それを拾い、ゴミ箱に捨てたとき、すっと悲しみが体の芯を流れていき、そしてあざ笑うかのようにあっけなく通り抜けていった。涙はなかった。
しばらく様子を見ることにした。
数日待ち、数か月になる頃には、僕はあきらめがついていた。
完全にあきらめたわけではないが、今すぐは無理なのだろうと納得したのだ。
きっと、ひょっとした瞬間に歌声が聴こえ、そして君の笑顔に会えるのだろうと期待して、その日を待とうと思った。
何年でも、何十年でも。
君の時間とは違う時の中で、僕だけでも進んで行こうとした。
そうして、ある種の覚悟を決めた頃。
僕は意外なかたちで君と再会した。
課題をこなすため立ち寄った図書館で、君の絵を見つけたんだ。
銀色の長い髪。右端で結われた三つ編みとリボン。
白いワンピースと黒のチョーカー。
ブルーの瞳。どこか寂しげな表情。
『メル・アイヴィー』
名前も記されてあった。
メル。君は百年前にも、この世界に現れていたんだな。
僕と同じ国の人間に会い、そして、突然消えた。
伝承として本にまで載っていたよ。
君はひとりの男の前に現れた。彼は勤勉な学生で、僕と同じように神社で君の歌声を聞いた。そして、ここからは少し嫉妬するのだけれど、彼は君と会話が出来たようだね。君は君の国の話をして、彼は彼の国の話をした。
メルは十六歳だと言った。
異国の者なのか、見慣れない服装と何より髪の色が珍しかった。
メルは特別な存在なのだと自任しているらしく、その国では宗教的な存在であるようだった。時空を超え、私とは違う世界に住んでいる少女との交流は、不思議で、とても心躍るものだった。
ある日、私は洋品店で首飾りを購入した。そこに彼女の名前を、この国の文字で刻印してもらった。メルはそのプレゼントをたいそう喜んでくれて、私を誇らしい気持ちで満たしてくれた。
しかし、それが別れの合図になってしまった。
メルは消え、二度と私の前には現れなくなったのだ。
惜しいことをしたと思うが、それでもこの奇怪な交流は尊いものであるし、時空の仕組みを考えれば、ふとした瞬間、ずっと後になって彼女と再会できる可能性もある。それを楽しみに、私は歳を重ねていくことだろう。
僕は彼の描いた挿絵、記憶の中の君の絵に、指を這わせた。
髪を撫でて、頬に触れた。
首にあるチョーカーは彼からの贈り物だったのか。
僕は君と歌い、君と笑いあった。
でも触れることも、何かを分け与えることも、差し出すことも出来なかった。
メル・アイヴィ―。
君は今、何をしているんだろう。
また、新しい誰かに、あの祈りの歌を聴かせているのだろうか。
もし、願いが届くなら。
最後に、君にもう一度会いたいと思う。
ガラス越しでもいい。森の中の日差し中で、茂みからのぞくだけでもいい。
歌ってくれ、メル。
僕のために。
待っている時間はどれだけ過ぎようとかまわない。
歌声だけでも、聴かせてほしい。
メル。
君はたしかに存在して、僕に奇跡をくれたんだ。
(了)
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