【現代ドラマ/恋愛・高校生】「おめでとう」初恋の人
「よかったじゃん。おめでとう」
聞こえたのは、そんな言葉。
誰が言った? ああ、俺か。俺が言ったんだ。
千佳はまぶたを伏せている。
「うん。よかった」
戸惑うような、あまり嬉しそうじゃない態度だ。照れているのかもしれない。千佳は千佳で、まさかあの兄貴の彼女になるなんて信じられなくて、まだ現実が飲み込めていないのだろう。
俺はそんな動揺している千佳の肩を軽く叩いて、
「義理の姉目指して頑張れよ」
そう、半笑いで声をかけた。
次は「結婚おめでとう」なんて、俺は言うんだろうか。
笑顔で、そう、本当に言うんだろうか。
ずっと好きだった。近所に住んでいて、兄弟のように遊んで育った。
俺と千佳は同い年だ。そして俺には二つ上の兄貴がいる。
その兄貴に千佳は告白して、めでたく恋人同士になったのだ。
「昔っから、千佳は兄貴が好きだったもんなー」
「まぁね。海斗とは違って、陸斗くんは大人だし、優しいし」
はいはい。どうせ俺は兄貴と違って頭は悪いし、口も悪い。
運動神経は負けてない気がするけど、どっこいどっこいだ。
千佳は何かにつけては、いつも俺と兄貴を比べ、俺を馬鹿にしてきた。
「陸斗くんだったら」「陸斗くんなら」「陸斗くんのほうが」
うんざりだ。本当なら千佳のことは嫌いになってもおかしくない。でも、実際にはいつか見返してやる、俺を認めさせてやると憤っているうちに、「いやだ、負けたくない」と、千佳を巡って、兄貴に対抗心を燃やしているだけだと気がついた。
それが、中学一年の頃。それから三年。
俺は千佳に恋している。いや、いたんだ。もう終わった。
兄貴より俺の方が千佳と似合いだと思っていた。
それに、あの兄貴が千佳のことを本気で好きになるはずがないとも。
兄貴はモテるし、千佳は妹みたいなものなんだ。そう信じていた。
だから、兄貴が恋人と別れたと聞いたとき、軽い気持ちで千佳に「いま、チャンスじゃん」とけしかけてしまった。まさか千佳が告白するとは思わなかったし、兄貴のほうでもオッケーするなんて思いもしなかった。
最悪だ。俺はどうしようもない馬鹿野郎だ。
でも、いまさら千佳に「好きだ」なんて言えない。
だから「おめでとう」。そう言うしかない。
後悔と呼ぶには、あまりにお粗末な顛末に、涙も出ないほど呆然とした。
これからずっと兄貴と千佳が仲良くする様子を間近で見てなくちゃいけないんだろうか。兄貴が千佳を泣かすことがあるだろうか。そのとき、俺はどうするんだ。
泣くあいつは見たくない。
かといって、幸せいっぱいのあいつを見るのも辛い。
旅に出ようかなんて無謀なことを本気で考える。
学校なんてどうでもいい。とにかく兄貴と千佳から離れたい。
でも、現実は何でもない顔をして、へらへら笑いながら、兄貴と千佳を冷かして過ごすばかりになるだろう。俺も誰か千佳以外の相手を見つけよう。兄貴ほどじゃないが、俺だってモテるんだ。すぐに彼女だって出来る。
そんな感情が、一瞬の内に流れて渦巻いて。
「実はさ」
そう、口走っていた。
しょうもない薄っぺらな見栄だけで。
「俺も彼女出来たんだよ。ちょい前に。秘密にしてたけど」
「え?」
顔を上げた千佳は、目を見開いて驚いていた。
こわばった頬に、ぽかんと開いた口。
なんだよ。そんなに意外なことか?
「お前に言ったら、会わせろだなんだ、からかってくるだろ。だから黙ってたんだ。もう一か月くらいになるかな」
「そ、うなんだ」
「ああ」
ふっと笑う千佳に、なんだか無性に腹が立った。
お前だって兄貴と付き合うくせに。
俺に彼女が出来るのが、そんなにおかしいか。
「すっげー、可愛い子なんだよなー。お前、見たら腰抜かすぞ」
「そう。ふぅん。全然、気づかなかった」
「お前に何でもかんでも話すわけじゃねぇしな」
好きだ。その言葉が言えない。
俺は、ずっと言えなかった。
一番、伝えなくちゃいけなかったことなのに。
「じゃあ、二人とも『おめでとう』なんだ」
「そういうことかな」
兄貴をよろしく。
俺は軽い調子で言った。
肩をすくめてみせる千佳に、胸がうずいた。
何かとんでもないことを言いそうで。
大切なものをぶち壊してしまいそうだったから。
俺は千佳に背を向けて、ぞんざいに手を振った。
「じゃあな。明日からは姉貴と呼ぼうか」
「やめろっての」
笑う千佳。どこか寂しげに見えるのは、俺の心が泣いているからか。
夕食が喉を通らないほど、苦しい。
でも、普段と違うことをして、兄貴に何か感づかれるのは困る。
味なんてしない飯を口に押しこみ、さっさと部屋に引きこもる。
宿題がどうとか、そんな言い訳をして。
でも、わざわざ俺の部屋にまで来て、
「千佳ちゃんと付き合うことになった」
なんて報告に来る兄貴の顔を見て。
俺は思わず言ってしまった。
「ロリコン。兄貴は年上好きじゃなかったのかよ」
つうか、妹みたいなもんだろ、千佳は。
「気持ちわりぃ。あいつとキスとかすんの? ないわ」
枕を放り投げて、笑う俺に、兄貴はやっぱり兄貴だ。
俺のたわごとなんて軽く流して、小さく息を吐くだけ。
どこで俺は間違えたんだ。
千佳が好きだ。でも、もうこの恋は実らない。
千佳は兄貴のことが好きだった。
かっこいいといつも言っていた。
俺と比べて、どこが優れているかなんて、わざわざあげつらって。
そのたびに腹が立ち、悔しくて。
でも、あいつの好みが知りたくて、耳をそばだてて。
それに、兄貴に惚れているうちは、他の誰にも盗られやしないと安心して。
俺はなんて愚かなんだろう。
それから数日。千佳はこれまで通りの付き合いをしようとした。でも、俺はあいつからくるメールや電話も、なにもかも無視した。話しかけられても、冷たくあしらったし、なるべく顔を合わせないで済むように千佳を避けた。
表向きは兄貴に遠慮して。でも、露骨すぎて本当はそうじゃないことは、千佳や兄貴にも伝わってしまっただろう。それでも、平気で変わらずに振舞えるほど、俺は大人じゃないんだ。少なくとも、本当に俺の「彼女」が出来るまでは、今まで通りに話すのは無理だ。
俺は千佳も兄貴のことも、自分の人生から締め出すと決めた。そうすることが精一杯の抵抗。自分を保つために必要なことだった。二人がどう思おうと、知ったことじゃない。
だから、「お前、文句があるなら、はっきり言えよ」と兄貴に詰め寄られた時、飛び出たのは言葉じゃなくて手だった。何年かぶりに兄貴を殴った。昔だったら兄貴も殴り返して来ただろう。それで俺がボコボコにやられるんだ。
けど、兄貴は舌打ちしただけで、やり返してはこなかった。
あきれたような、上から目線の余裕ある態度で口の端を上げて笑う。
「お前、そんなんだからダメなんだよ」
わかってる。わかってる、わかってる。
だから、千佳に嫌われた。選ばれなかった、俺は。
悔しい。そう思ったら、泣けてきた。惨めさで初めて涙が出た。
「バカだな」
兄貴はかすれ声で言うと、俺の頭を軽く叩いた。
「あのな。千佳ちゃんの気持ち、お前、考えたことあるか?」
「なんだよ。知るかよ」
袖口で涙を拭う俺に、兄貴は全身の空気を吐きだすような長いため息をつく。
「お前、彼女いるとか、嘘だよな?」
「い、いるし」
「いないだろ。嘘つくな。バカらしい」
うるさい。兄貴に負けた弟の気持ちなんか、わかるもんか。
いつも、いつも、負けている俺の気持ちが、兄貴にわかるはずがない。
「千佳ちゃんはさ、ずっと好きな奴がいるんだよ」
兄貴は腰に手を当てると、昔語りをするように視線を上げる。
「そいつは口悪くてな。まぁ、好きな子はイジメるタイプなわけだ」
だから、彼の本音がわからない。
探ろうとするけど、上手くいかない。
「で、もし、俺と付き合うって話をしたら?」
相手はどう反応するか。
「まさか、『おめでとう。俺も彼女いる』とは、思わなかったな」
にやりとする兄貴に、俺はぽかんとするしかない。
「な、え?」
「え、じゃねーし。お前な、ガッと行くときは行けって。そんなんじゃ、いつまでたっても両想いなのに進展しないだろ。じれったいわ」
両想い。
両想い?
「ほら。ここまでしてやったんだから、正直になれよな。にいちゃんだって、千佳ちゃん可愛いなーって思うんだから。いつまでもニセモノで満足してると思うなよ。危機感持てよ。俺が本気出したら」
「や、やめろ。千佳はダメだ」
慌てる俺の肩を、兄貴はがしりと掴み、じっと目を覗き込む。
「じゃあ、自分の口で言うんだな。『好きだ』って。俺がいくら弟は『千佳ちゃんひと筋だ』って言っても、信じきれないらしいから」
ぐるぐる視界が回る。なんだろう。まだ、理解しきれていないけど。
「俺、言う」
「おう。言え」
「告白する」
「だから、遅いくらいだっての」
よし。携帯に手を伸ばしたところで、兄貴に背中をぶたれた。
「近所なんだから、直接言えよ。走れ」
わかってるさ。
いま何してるか、聞くつもりだっただけだ。
俺はぶつぶつ文句を言いながら、兄貴に背を押されて玄関を出た。
もう日が暮れて、星が見えている。
千佳はどんな顔をするだろう。
もう、手遅れじゃなきゃいいけど。
気合を入れて、両頬を叩く。
もう、逃げない。
この恋に、二度と背を向けないんだ。
駆け出した足音が住宅街に響く。
吐きだした息は熱く、心臓は跳ね上がり激しく踊る。
いつしか俺の顔にはバカ面が浮かび、ニヤニヤとだらしなく笑っていた。
(了)
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