【現代ドラマ/獣ホラー】津々谷くんは猫が嫌い

 恋人の津々谷くんが猫嫌いだと知ったのは、つい最近のことだ。

 彼と二人、路地裏を歩いていたとき。

 一匹の黒猫が、数メートル先の通りを横切った。


「あ、猫だ」


 細身の毛並みの美しい猫だ。

 まだ時刻は午後を過ぎたばかりで、太陽はあたりを隅々まで照らしている。


「ねぇ」


 と、機嫌よく私は振り返り、そこで彼の様子がおかしいことに気づいた。


「どうしたの?」


 津々谷くんは顔を強張らせたまま、まばたき一つせずにいる。元々、色白で少し病弱そうな彼ではあったけど、その時は血の気が完全に引いた、人形のようなぞっとする肌の色をして、目の焦点すら怪しかった。


 まるで、幽霊でも見たような顔。わたしは、彼の腕をそっとさすりながら、「大丈夫」と声をかけた。彼はびくりと激しく肩を揺らしたかと思うと、急に頭を抱えてうずくまる。そうして低くうなるような苦しげな声をあげ始めたのだ。


 私は途方に暮れた。猫が消えたあたりに視線を飛ばし、それから、再び彼に戻すということばかりしていた。すると。


「猫だ」

「え?」

「猫は嫌いだ」


 そうなの、とだけ答えて、また沈黙が続いてしまう。自分もしゃがみ、彼と視線を合わせようか、どうしようかと迷っていると、津々谷くんは落ち着いたのか、「ごめん」と短く低い声でつぶやきいて立ち上がった。


「ごめん。ほんと、ごめん」


 しゅんとして俯く彼に、私は無理やり笑顔を作って、「べつに」と軽く答えた。

 彼は首をかしげ困った顔をしたままだったが、私はそんな津々谷くんの腕に手を回すと、猫が消えた通りとは反対側へと、彼を引いて歩く。


 津々谷くんは、正直、頼りない人だ。風が吹けば飛んでいきそうで、どうしてこんな人が好きなのだろうと思うのだが、それだけに離れがたい相手でもある。つき合い始めて三か月後には同棲を始めたのだけれど、恋人同士というよりは母と子のような関係性で、あまり熱っぽさも甘さの欠片もない日々だ。


 それでも、この人だ、と思って、私は別れるなんて、これっぽっちも考えたことがない。彼のほうでも同じだといいのだが、感情の読めない人だし、しつこく問えば嫌がって逃げていきそうだから、クールを装って結婚の「け」の字も出さずにいる。しかし、何を思ったのか、津々谷くんは突然、過去の話をし始めたのだ。


「猫が嫌いで」と言ってから、少し思い直したようで、

「猫が怖いんだけど」と津々谷くんは打ち明けた。


 そして、「昔、同棲していて」と続けると、ちらりと私をうかがうような視線を向けて黙る。肩をすくめて、先を促してやる。そんなこと、どうでもいい。それよりも、猫が怖い理由を知りたかった。


「三か月ほど、同棲していた子がいたんだけど」

「そう」三か月なら、今の私たちもそれくらいだろう。

「それで?」

「それで」


 津々谷くんは、迷うように遠くに視線を飛ばすと、おどおどしながら語り始めた。彼がまだ大学生だった頃のことだという。


 休暇中、津々谷くんは一人旅をすることにしたらしい。旅といっても近場の温泉地へ行って帰ってくるという短いものだったが、一泊か二泊ほどはするつもりでいた。どこか穴場な観光スポットはないかと、スマホで調べていると、縁結びの小さな神社があるとの情報を見つけ、彼は軽い気持ちでそこへ向かった。


 神社は長い石段を行くと、木々に覆われたひっそりとした場所にあった。小さな無人の神社で、地域にも忘れさられているような、こじんまりとしたものだった。つまらないな。そう思って、石段を下りようとしたとき、彼女が下から歩いて来るのに気づいた。


「長い黒髪がきれいで、ほっそりとした人だった」

「美人?」おどけて訊ねると、彼は言いにくそうにぼそぼそと、

「まあ」とだけ答える。


 津々谷くんの話だと、ちょっとした世間話から意気投合して、という流れだったらしいのだが、私が思うに、彼の一目惚れだったに違いない。


 それから二人は一緒に賑やかな観光地を巡り、食事をして、結局は同じ旅館に宿泊した。帰宅するときには、すっかり仲良くなり、彼女もそのまま津々谷くんの自宅へと向かう。そうして、ずるずると同棲が始まったそうだ。


「ずるずるねぇ」

「まぁ、そんな感じで」


 ため息が出る。まるで仕方なくみたいな言い方は無責任に感じて癪だったが、この話で揉める気はない。続きを聞こうと、彼のほうへ顎をやって、先を促す。


「それで、どうして猫が怖いって話になるの」

「それは」


 同棲を始めて三週間後。彼女が両親に会いに、一度自宅へ戻ると言った。反対する理由もないので、引き留めはしなかった。だが、それから数日経っても帰らないどころか、連絡もつかなくなってしまう。


 何かあったのだろうか。心配と、もしかしたら、これで縁が切れたのだろうか、自分はあっさり捨てられたのだろうか、そんな疑念が混ざり合う中。

 彼女は何事もなかったように、明るい顔をして戻ってきた。


「ごめんね。親の居場所が分からなくて」


 彼女は、そう驚くような説明をするのだが、本人はけろりとしていて、「もう、会えたし、今は、どこにいるかもわかるから」と陽気でさえいる。


 津々谷くんは、あまり家庭内のごたごたに深入りしないほうがいいのかもしれない思い、それ以上、何も問わなかったのだが、それでも一度、引っかかりを覚えると気になり、前のような親しいだけの関係には戻れなくなった。


 それに、美人だと思っていた相手が、隣にいないとき、ふとした瞬間に彼女の顔を思い出そうとすると、どうしても浮かんでこず、首をひねるしかない。黒髪が艶めいていて長いということは脳裏にこびりついているのだが、うっかりすると名前すら忘れそうになる。


「そのうちに、なんだか不気味に思うようになって」


 津々谷くんは首をすくめるようにして、怯えた視線を向けてくる。私はそっと彼を抱きしめると、「怖かったのね」と頭を優しくなでてあげた。彼はすがるように私にしがみつくと、耳元で私の名前を何度もつぶやいた。


「それから」と津々谷くんはわずかに体を離すと、私の目を覗き込んだ。


 しばらく違和感を覚えながらも、彼女と生活し続けること、二か月。

 再び、彼女が親に会いに行ってくると言い出した。しかも、今度は自分も一緒に来てほしいと誘ってくる。実はもう、津々谷くんのことは両親に話していて、同棲中で結婚も近いとまで説明しているらしい。


 結婚の話など、したこともなかったし、そもそも、どうやって別れようかとタイミングを計っていただけに、津々谷くんは激しく動揺した。けれど、彼女のほうでは何の疑問も抱いていないらしく、彼が言いよどもうが、忙しいからと何とか逃れよう、ごまかそうとしても、全く聞く耳を持たなかった。


「来週の日曜日が良いと思う。夕方頃に行って、皆で食事しましょう」

「でも」

「二人はね、今は一軒家に住んでいるの。古びているけど、広いし、その日は泊っていけばいいわ」


 どうしようか。迷うばかりではっきり断れないまま、気が付けば日曜を迎えていた。津々谷くんは食欲が失せるほど気鬱になっていたが、それでも、まだ自分は学生で、結婚話なんて本格的なものにはならないだろうと、なるべく楽観視しようとした。適当に話を合わせて、数日後にダメになったでも問題ないはずだ。


 難しく考えるのはよそう。とりあえず、今日をやりすごしてしまえば、あとはどうとでもなる。そう思い、津々谷くんは彼女に手を引かれるまま、両親が住む家まで歩いて行った。


 その家は、たしかにずいぶん古びていた。前庭もついているのだが、雑草が腰丈ほどに伸び放題で、ひび割れのある窓にはガムテームまで貼ってある。


「さ、ここよ」


 うきうきとした足取りの彼女に導かれるまま、玄関のドアを開けたのだが……、そこで、彼はまず異臭に、そして、アレを見つけたのだ。


「アレ?」


 問う私に、津々谷くんはごくりと喉を鳴らす。


「廊下に転がっていて……、血はもう乾いていたんだけど」


 彼が見たのは、二匹の猫だった。死んでいて、一見すると黒いぼろ布が投げてあるように見えた。しかし、玄関のドアから差し込む夕暮れの日差しに照らされ、その光の伸びるままに近づいてみれば、惨たらしく殺された黒猫が寄り添うように倒れている姿だったのだ。


 津々谷くんは何も言えず、込み上げる吐き気に顔をそむけて外に出ようとした。 そこに、立ちはだかるように彼女が前に出て、玄関のドア口を塞ぐ。

 彼女は目を大きく見開き、蒼白な顔をして震えていた。


「出よう。とりあえず、外に出ようよ」


 もしかしたら、彼女か、彼女の両親の飼い猫だったのかもしれない。津々谷くんは、彼女をなぐさめようとそっと肩に手を当て、外へ出ようとした。しかし、ギラギラとした鋭い目を向けられ、慌てて手を引っ込める。


「人間が殺した」

「え?」

「哀しや。人間が、とと様、かか様を殺したのや」


 ぶわりと生暖かい風が吹いたかと思うと、目を瞬かせているうちに、目の前にいたはずの彼女の姿が見えなくなる。何事だろうかと、周囲に視線をやると、一匹の黒猫が足元にいた。猫は死んだ二匹の黒猫に駆け寄ると、乱れた体毛に顔を埋め、クンクンと鼻を動かす。


 艶のある毛が美しい、ほっそりとした黒猫だ。その黒猫がくるりと津々谷くんの方へと急に顔を向けた。ぱかりと口が開き、赤い舌と白い鋭い牙がのぞく。


「復讐じゃ。目玉を引っ掻き、鼻に食らいついてやる」


 彼女の声だった。唖然として恐怖が体を支配する前に、若い黒猫はドアの隙間から姿を消してしまった。津々谷くんがハッとしたときには、すでに日は落ち、あたりは真っ暗になっていたそうだ。


「それで、猫が怖いの?」


 首をかしげる私に、彼は苦笑する。


「嘘だと思っているんだね。でも、本当に」

「本当の話なのは、疑ってないわ。だって、私だもの」

「信じてくれるんだね?」

「ええ」


 信じるも何も。だから。


「それ、私だから。本当に顔を覚えてないのね。名前も忘れたのね」


 私は自慢の黒髪を手ですいて、ハラハラと流れるままに落とした。


「あなたは、私のどこに惚れたのよ。てっきり、覚えていて声をかけてくれたと思ったのに。どうして、忘れているの?」


 引きつる津々谷くんの顔に近づくと、私はべろりとその頬を舐めた。


「どう。ザラザラしているでしょ」


 くすくすと笑う。生暖かい風が吹き、そうして、見上げた彼の姿は。

 ベランダから飛び降りようとしている背中だった。

 心配だな。ここは二階だけど、猫のように上手に着地できるのかな?


(了)


※『老媼茶話』から題材を得て創作した短編です。

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