溜息


「いらっしゃいませ。ようこそいらっしゃいました」

「あっ、さっき予約した……」


 自動ドアを抜け、フロントに現れて声をかけたのは二十代後半くらいの男性だった。スーツ姿のところを見ると、出張だろうか。

「はい、お待ちしておりました。それではこちらの用紙をご記入ください」

「あっ、はい」


 ここら辺には、そもそも『ビジネスホテル』というモノが実はあまりない……というより「ここしかない」くらい宿泊施設が充実していない。


「今回は夕食、朝食ともになしのプランですね?」

「はい」


 逆に言うと、今も昔もなんだかんだ色々な意見がでつつも、結局ここだけで事足りているとも言えるのだろうが。


「それでは、こちらの番号のお部屋になります。お部屋へはあちらの階段かその横にあるエレベーターをお使いください」

「はい」

「チェックアウトは明日の午前十時までにお願いします」

「分かりました」

「ごゆっくりどうぞ」

「ありがとう」


 予約カードを記入しもらいつつプランの確認をし、その予約カードに抜けがないかを確認した上で、部屋の鍵を渡し、部屋に行く方法とチェックアウトの時間を伝えるという、ここまでが大体の一連の流れだ。

 いつも利用してくれる常連のお客は特にそうなのだが、このやり取りを『泊まるまでの儀式』の様に大体流して聞いているが、時々詳しく聞いてくる人もいるから油断ならない。


 しかし、今回のお客はかなりスムーズに出来た。


「だいぶ慣れたみたいね」

「そっ、そうですか?」

「ええ、アルバイトとはいえこんなに若い子が入ってくれたんだから本当にありがたい話よ」

「そんなことは……」


 別に謙遜しているわけではない。


「でも、本当に良いタイミングで入ってくれたわよ」

「そうですね。俺としてもラッキーでした」


 この辺りに来てすぐにここのアルバイトの募集を見つけた。

 その時は、本当に「運が味方に付いている」と思った。何をするにしても、資金がなければ話にならない。

 ただ、ターゲットの『男性』が『ひったくり被害を受けた女性』を雇うとは思ってもいなかったが……。

 おかげさまで少し計画はこじれてしまったのが、それでも何とか軌道修正は出来たと思う。

 それに『あの人』とは結構長い付き合いにはなるが、正直もうそろそろ『潮時』ではないかと思っていたところだ。


 これを機に俺も『あの人』もやり直せればいいのと思うのだが。


「……と電話ね。ちょっと裏にいるから」

「はい、分かりました」


 この『ビジネスホテル』のアルバイトを始めて分かった事は、ここを利用するほとんどの人が出張のために来た『ビジネスマン』だということだ。

 最近はインターネットサービスも始まっている事もあってか、電話で前もって早めに予約をする人もいる。


 だが、今の様に当日飛び込みで予約をしてくる人もたまにいる。


 ただ時期によっては『受験生』や『就活生』も来る事もあるらしいが、今の時期はあまりいない。


 だからまぁ――――。


「あの、すみません。ついさっき予約した、えと織田ですけど」


 この人の様に『スーツ姿じゃない人』を見ると、ちょっと身構えてしまう。


「かっ、かしこまりました。織田おだ倫太郎りんたろう様……ですね?」

「あっ、はい。そうです」


 しかも、名前は完全に『男性』だが、目の前にいる人はどう見ても『女性』だ。


「申し訳ございません。ご本人様では……ないですよね? 一名様でよろしいですか?」

「はい、一人です。すみません。父の名前で予約したもので、えと本人の方がいいですか?」


 あまりこういった『宿泊施設』を利用した事がないのだろう。女性は心配そうな表情で隣にいる男性を指した。


「…………」


 そして、隣にいる男性がどうやらこの人が父親だろうか。


 確かに、年齢まではさすがに分からないが、確実に目の前にいる女性よりは……年上だ。


 ――当然か。いや、むしろ同い年に見えたら怖い。アンチエイジングどころの騒ぎじゃない。


「いえ、それではこちらを『お泊りになる方』がご記入ください」

「あっ、はい」


 少し焦ったような表情で、女性は肩にかけているカバンを持ち直した。


「……持ってやる」

「えっ、いいよ」

「書きにくいだろ」

「ありがとう」


 傍目から見ると何気ないやり取りだが、こうやって若干投げやりな態度が出来るのも『親子』だから出来る事ではないだろうか……。


「えと、これで」

「ありがとうございます。それでは……」


 一通りいつものように一連の流れを説明した後、女性はフロントを後にした。

 父親と言っていた男性がコンビニの袋を手に提げていたから、部屋で食べるのだろう。


「……来ちまったか」

「えっ?」

「いえ、なんでもありません」

「?? そう?」


 まぁ、安さを求めれば当然こういった『結論』になるのは目に見えていた。

 他にもいろいろな方法は考えていたが、それらは全てはこの人が来た事によって水の泡になった。

 だが、コレくらいシンプルな方がこちらとしても気が楽だ。


「すみません。ちょっと席外していいですか?」

「すぐに戻ってきてねー」

「分かっていますよ」


 ごくごく『普通』にここにいれば……多分、充実した日々を過ごせていたのではないかと思う。

 あの人に「ターゲットが来ました」の一文だけ入力し、俺はすぐにフロントへと戻った。


「すみません」

「はっ、早いわね。もういいの?」


 あまりにも早く戻り過ぎたので、上司には驚かれたが、特に気にしている様子はない。


「はい」

「そう」


 ――――本当にいい職場だと思う。


 それこそ本当に『普通』であれば、こんな『目的』がなければ……と思ってしまうほどだった。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「お疲れ様です」

「あっ、お疲れ様です。もうそんな時間ですか」


 フロント横にある時計を見ると、十時を指している。

 もともと今日は早めに上がるはずだったが、ちょっと『予定』が変わり、無理を言って長くしてもらった。

 しかし本当に、時間というのはあっという間に過ぎてしまう様だ。


「まぁ、今日は平日だから」

「そうかもしれませんね」


 明日であればもう少し忙しいところだが、今日はそこまででもない……。


「何か変わったことはあったか?」

「いや、ん?」

「何か引き継ぎは?」

「あっ、えと」


 ふと思い返してみると、父親と娘が一緒に部屋に行った後、まだ父親が部屋から出て行っていないことに気が付いた。

 出ていこうと思ったら、このフロントの前にある自動ドアを通らなければならないのだが、その姿を見ていない。


「いえ、特には」

「そっか」


 しかし、いくら娘が心配だったとしても遅すぎる様に思う。それとも、会話に花が咲いているのだろうか……詳しくは分からない。

 本来であれば『引継ぎしなければいけない事』の一つなのだが、別に報告しなくてもいい話だ。


「はぁ……」


 今からやろうとしている事を確実にする成功させるためには、出来る限り障害はない方がいいが、こうなってはしょうがない。

 それに『連絡』がないという事は「決行」という事なのだろう。


「それじゃあ。あとお願いします、お疲れ様でした」

「はーい、お疲れー」


 そう言って俺はフロントを後にし、まっすぐ男子更衣室ではなく『別の場所』を目指した――。

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