困惑
「……あっ!」
「えっ、あっ!」
夢莉がちょうど流し台の前を通った時。
突然現れた賢治に驚き、その際にバランスを崩してしまい持っていたグラスを一つ落として割ってしまった。
「すっ、すみません。怪我していませんか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
「掃除は私がしますので」
「えと。じゃっ、じゃあお願いします」
あの事件以降、賢治の様子がおかしい。
普段であれば、一言声をかけてくるはずだし、そもそもこんなところを通る事もない。
「一体、どうしたんだい? 今日のマスターは」
そんな中、その様子を不思議そうな表情で飲んでいる珈琲のカップを置いた常連さんがコソッと私に尋ねてきた。
この人はアルバイト初日に最初に出会った人で、いつもは開店と同時に来るのだが、たまにこうしてお昼に来ることもある。
「すみません。私には……」
しかし、常連のお客までそう言ってしまうほど今日の賢治さんは特におかしかった。
今の様に食器を落としたり、注文のミスをしたり、それだけでなくどことなくボーッとしているかと思えば、やけに夢莉の方を気にしたり……と、とにかく様子がおかしい。
「やはりあの事件がきっかけでしょうか」
「その可能性は否定できないね。なんせ、君が怪我をした後からこんな状態だから」
「そうですよね」
そうはっきり言葉にされてしまうと心が痛む。
でも、ここまで分かりきっている事実に対し、夢莉は肯定する事しか出来ない。
「でも、それは君が悪いって話じゃないと僕は思うよ」
「え」
「君はあくまで被害者。それに、事件が頻発しているとは言えその事件を予測して生活しろっていうのは物理的に不可能な話じゃないかい?」
「それは、そうですけど」
「もし、たとえば会計をしているのが君だったらとか、そもそも会計の時も一緒にいれば……なんて事まで言ってしまったら、それこそ可能性なんて無限。そんな、それらを全て予測して生活なんて当然不可能。そんな事を言ってしまったら、それこそ誰も外なんて出られないよ」
「…………」
――確かに言う通りである。
夢莉を斬りつけてきた犯人は逮捕する事は出来た。しかし、事情聴取ではコレといった証拠は何も出ていないようだ。
本人はただ「事件を起こして目立ちたかった」とだけ言い、今までの『事件』とは無関係だと主張を繰り返しているらしい。
「でも、手口はほぼどころか全く一緒だったんだろ?」
「はい。それはちゃんと証言していました。自分はただニュースでやっていた事を真似しただけだと」
犯人の顔をちゃんと見たわけではなかったが、ガラス越しで見たその人は……どう見ても未成年。
髪は染めているものの、顔にはまだ幼さの残る少年だった。
「ただ、その一連の通り魔と何も関係ないとすれば、いつまた事件が起きても不思議じゃないって事になりますよね」
「まぁ、安心は出来ないね」
「そうですよね」
「はぁ、マスターも可哀想だね。やっと色々と気持ちの整理も出来て事件もあまり起きなさそうなところだと思って来たはずなのに……。ああ。そうか、昨日は『あの子』の命日か」
「え?」
「あっ」
多分、口に出した本人としてはコレを言うつもりはなく、心の中で思っているつもりだったのだろう。
しかし、本人の気持ちとは反対に、口に出してしまった……という事くらいは今の反応ですぐに分かる。
そういえば、昨日は賢治が「ちょっと出かけるところがあるから」と言って、珍しく朝早くにどこかに出かけていた。
「あの」
「あー、うーん。でもまぁ。君も知っておいた方がいいかな」
その常連さんは一人で納得した様にそう言って「はぁ」と一つため息をついた。
「あの、知っておいた方がいいとは一体?」
普段はお客様と長話はしないのだが、ちょうど今はこの方以外に他にお客様は誰もいない。
「君から見てマスターはどう見える?」
そして、単刀直入にその人は私に尋ねてきた。
「どう見える……と聞かれましても」
何となく感じているのは他人に対してかなり甘く、相当なお人よし。
だが、なぜか自分の事に対してはかなり厳しいという印象を受ける。
そのせいなのか、夢莉はこの人が愚痴をこぼしていたり弱音を吐いていたりしている姿を見た事がない。
それこそ悪口なんて全くだ。
「
「はい」
「うん。ここのマスターの前職は『探偵』だったんだ」
「それは、以前別のお客様から聞きました」
「そうだろうね。ここら辺じゃ結構有名な話だからね。もう探偵は引退したって本人は言っているけど」
「…………」
そう言われて、ようやく常連客の皆さんが言っていた「事件を解決した事がある」という言葉に納得がいった。
「でも、なぜ引退されたんでしょう?」
「ああ、それは……」
常連さんは、賢治さんのいる一度だけチラッと厨房の方に視線を向け、様子を見つつ私にボソッと呟いた。
「妹さんが事件に巻き込まれて亡くなったからだよ」
「……え」
夢莉がこの「え」というたった一文字が出るまでかなり間があったと思う。それくらい、今の言葉は衝撃的だった――。
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