第9話

 銃声は響かない。

 タヌキの愛銃はサイレンサーが内臓されており、どこまでもスナイプに適している。30㎝に満たないサイズに対する必中距離3000mという射程は隠密性の高い持ち運びを可能とし、ABASと呼ばれる銃撃支援機構や反動制御システムまでもが組み込まれた次世代のスナイパーガンである。弱点と言えば目視による照準は念頭に置かれていない点、単発式のため1発撃つごとに排莢と装填が手動で必要なこと。1発に必殺の呪いを込めた、技術の粋を集めた傑作。

 ゆえに、銃声は響かない。

 サムライの刀の絵を砕き、右手に損傷を与えた結果を生み、その銃は蒸気を吐きだした。


 その結果を確認した瞬間、タヌキは走り出した。サムライは抜刀の寸前の姿勢で止まっていた。


 15分ほど走り、タヌキは地面に倒れ込んだ。

「はぁ、はぁ。もう一歩だって動けないぞ」

『おつかれさま。いま右に見えてる建物がマスターの作った秘密基地らしいから中で休んで』

 穏やかなアヤノの声。カシミヤに代わる直前はかなり狼狽していたようだったが、今は落ち着いているようだった。

「なぁ、カシミヤってのは何者だ?退役軍人が秘密基地なんて作れるようなカネ、持ってんのか?」

 タヌキの疑問はもっともなものだった。タヌキが知るタチカワ周辺にいる自称退役軍人は皆スラムで退廃的な生活を送っていた。その日暮らしとでも言おうか。またそうでなくても退役軍人が大金を抱えているような話は聞かない。再就職が難航し、没落していく者が圧倒的多数だった。

『私も良く知らないけど、なんか左目の怪我のせいで年金をたくさんもらってるみたい』

 本当に知らないのか、唸りながらアヤノは答えた。タヌキは指示された「建物」と呼ぶには少し年季の入った、辛うじてコンクリートが自立している何かに侵入した。

 床がそのままエレベーターの床になっており、数メートル地下に降りた先が「秘密基地」だった。まるっきりただの家だが、およそ50年ほど前の家具で構成されているレトロな空間に仕立てられていた。

 経年劣化で緩んだパッキンから漏れる水滴がキッチンのシンクに落ちる音が時折聞こえる以外は非常に静かなところだった。

 タヌキはコート、ジャケット、ブーツを脱ぎ、イヤーギアを毟り取って放り投げ、そのままベッドに倒れ込んだ。そして死んだように眠った。

 およそ15時間後。

 昼の12時を過ぎたところで、タヌキは目覚めた。

『あ、起きた。おはよう』

 ベッド脇に置かれたサイドテーブルから、アヤノがこちらに手を振っている。投影型コンタクトシステムだ。今では廃れかけている。

「あー…おはよう」

 タヌキが返事をする。寝起きで声が掠れていた。左手はぶらりと垂らしたままキッチンに向かい、右手だけで蛇口を操作すると顔をその下に突っ込んで水を飲み始めた。壁の向こうでモーター音がする。

 地下に造られた居住空間とは基本的に湿度との戦いになる。この建物も水をを地下水から得ているため、水道水は壁の外側の濾過機を通す。全力稼働で毎秒80ℓの濾過能力があるため、普段は停止してある。

『保温庫の中に食糧があるから好きに食べていいって。あと左手の具合はどう?』

 アヤノの声が聞こえる。どこから放送しているのかわからないが、すぐ隣に立っているかのように聞こえた。タヌキはきょろきょろと辺りを見回しながら返事をした。

「動かすと痛い。腕甲がボロボロになったから、替えが欲しいところだな」

 腕甲ごと固定してギプス代わりにしてやろうということだ。一晩経って腫れてもいないのが気になるが、軽く前腕の中ほどあたりを押し込むと激痛が走った。

『えっと…廊下の突き当たりが倉庫になってるね。中にあるかも』

 アヤノの指示に従って基地内を進む。廊下に沿って寝室はいくつもあり、ベッドだけでも10人は眠れる広さがある。タヌキが使ったのはそのうちキッチンやリビングに最も近い1室だった。

(銃器はないが装備品は充実してるな)

 倉庫内は大量の衣服や靴、カバンといった、面倒な整備が不要なものが揃えられていた。恐らく本当にここは「基地」として使うことが想定されている。万が一敵の手に落ちても脅威になるようなものは置いていない。使い捨てられる前線基地としてカシミヤが保有していることになる。

(アイツはいったい何を考えてるんだ)

 どんなに思考をトレースしようと試みても、カシミヤの心情は推し量れない。記録に残っていない彼女の行動や、思いや、目標が、タヌキの想定をはるかに超えているのだ。

(俺はとんでもないやつを相手にしたんだな)

 年齢差7歳だが、その7年は絶大な差をタヌキとカシミヤの間に生んでいる。

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