オリオン

猫屋梵天堂本舗

第1話 オリオン

 今夜も飲みながら、君のことを考えているよ。

 君が好きなバーボンは、少しわたしには強すぎるけれどね。

 水も氷も入れずに、年代物のショットグラスを重ねるのが、君の一番好きな飲み方だったね。

 わたしも何度も真似しようとしたが、こればっかりはお手上げだ。おとなしく、今日も水だけにするよ。

「水だけなんてつまんないけど、あんたにはこれが一番よね」

 君はよくそう言っていた。きっと今、君がここにいたら、同じように苦笑いを浮かべていただろうね。

 君が今、ここにいてくれたら。

 そうだったらいいのにと、わたしは心から願う。


 君は突然いなくなってしまった。

 あれから何年経っただろう、それとも何十年、何百年だろうか。

 わたしにはもう、永遠のような時間に思える。

 君がもう永遠に失われてしまったなんて、わたしには今でも信じられない。


 わたしは何もかも覚えている。

 君のつややかな黒髪も、ほとんど日の光に当たったことのないような白い肌も、絹のような皮膚の感触も、いつも伏し目がちだったまなざしも。

 君は、自分を醜いと思い込んでいた。

 いつも自分のプロポーションが不格好だと嘆き、美しく生まれなかった自分を憎んで、理想の顔立ちに近づけるために整形手術を受けようと、わずかな給料から毎月貯金をしていたね。必要以上に痩せ細り、ほとんど食事をとらず、ときどき何かを食べては吐き、楽しむためではなく眠るために酒を飲んでいた。

 君自身、君のやっていることはいささか度が過ぎていると分かっていたのかもしれないね。だから、外の世界の人々とはできるだけ関わらず、友人を作らず、家族とすら距離を取っていた。

 本当のところ、わたしにも心を許してはいなかったんじゃないかと思うよ。君はわたしには優しかったし、わたしのために必要なあらゆることに力を尽くしてくれたし、わたしにいつも話しかけてくれたけれど。それはただ、わたしが君の言葉に、決して反論しないからだと知っていたからだろうね。

「あたしが生きていても意味がないの。あたしがこの世から消えても、誰も気付かない」

 君は酔うと、たまにそんなことを言ったね。

 でもきっと、気付いていたんだろう。わたしは、わたしだけは、君がいなくなったら、必ず探すし、きっと見つけ出すと。


 君のいない家に、今も居座ってしまってすまないと思っている。

 でも、ここには君の思い出が詰まっているから、離れ難かったんだ。

 君のにおいがする。

 毎日、いや、毎秒ごとに、君のにおいは遠ざかっていくけれど。わたしが君のにおいを忘れるなんてこと、あるわけがないだろう?

 君は、世界で一番、美しいにおいを纏っていた。

 気付いていたかい? 一度でも鼻の奥まで吸い込んだら、永遠に忘れられないにおいだ。

 君の涙と、好物のバーボンと……あと、どこからかな。もしかしたら君の体から自然に立ちのぼっていたのかもしれない、珍しい果物のような、甘い香り。

 わたしには、君ほど美しいひとはいなかった。


 もうすぐ処分されると……死ぬと分かっていたわたしのことを、君は救い出してくれた。他にいくらでも、生きながらえたいと切望している犬猫がいる中で、君はわたしを選んでくれた。

 初めて出会ったとき、初めて目が合ったとき。わたしは君を救世主だと思った。

 君は、わたしのことをどう感じたのだろう。可愛いとは思わなかったのは分かっているよ。わたしはもうおとなで、可憐で愛らしく、これからいくらでも躾けられる子供たちとは違ったからね。こんなにでかいシェパード混じりの雑種を欲しがるなんて、君はどうかしてるよ。

 番犬くらいの役には立ちそう? それとも、自分と同じ哀れな負け犬だとでも思ったのかな。

 それがたとえどんな感情であっても、わたしは構わない。わたしを優しく撫でてくれた君の手を、わたしを抱きしめてくれたときの君の感触を、君の胸に頭を押し付けたときに聞こえた鼓動を、わたしに語りかけてくれたときの君のにおいを、わたしはちゃんと覚えているから。

「今日から、あんたの名前はオリオンよ。新しい名前。強くてかっこいい勇者の名前よ。覚えてね」

 そうして、わたしは生まれ変われたんだ。

 君のおかげで。


 だからね。わたしはずっと、探し続けた。

 ようやく見つけたよ。

 君を殺した男を。

 君のためにやるんじゃない。わたしがやりたいから、そうするんだ。

 彼には妻子もいるし、幸せな家庭もある。だけど、わたしには、そんなことはどうでもいい。

 君がどんなに美しかったか、それを伝える手だてはないけれど。

 あの喉笛を噛み切って、彼に思い知らせてやれれば、それでいいんだ。


 あの時のことも、わたしは一生忘れない。

 月のない暗い夜で、街灯もまばらにしかない静かな道を、わたしたちは並んで散歩していたね。君はそのコースがお気に入りだった。

「ねえ、星がよく見えるでしょ。あたしあんまり目がよくないけど、ここなら見えるんだ。あんたにも見える? 星って分かるかな、空できらきら光ってるあれだよ」

 そう楽しげに語る君の息は白かった。

 珍しく、酒のにおいも、吐瀉物のにおいもしなくて。

「三つ、星が並んでるの分かるかな。あれがオリオン座だよ。あんたの名前はあの星から取ったの」

 コンクリートの地面はひどく冷たかったし、わたしには……というより、わたしたちにはあまり優れた視力が備わっていないから、きみの言う、星ってやつはぼんやりとしか分からなかったけれど。

 わたしは君と外を歩けるだけで、いつもどおりに上機嫌だった。そして自分を過信してもいた。わたしなら君を守れると。

 だが、鋼鉄の塊に勝てるはずなんかなかったんだよ。


 あの夜、あいつは君を車で轢いた。

 突然のことで、わたしは何もできなかった。

 わたしが気付くべきだったんだ、君に危険が迫っていると。なのに、わたしは君を、あいつに簡単に殺させてしまった。

 暗がりから街灯の下に歩み出た君に、黒い車がまっすぐに突き進んできて、君の体が宙に舞うのを、わたしは見ていた。

 ひどく無慈悲な音がした。

 それきり君は動かなかった。

 なんてあっけなく。

 わたしに最後の言葉すらなく。

 君は星の輝く空を見上げたままの姿で、道端に転がっていた。

 わたしにはただ叫ぶことしかできなかった。


 あいつは一度は車を降りて君を救おうとしたけれど、途中で怖くなって逃げたんだ。救急に電話をしようとしたが、結局やめた。そのまま車に戻って走り去ったんだ。

 ちゃんと全部分かってる。分かるんだよ。

 だってわたしが君の、無惨に引き裂かれた体を見つけたんだから。

 両足は折れ、地面に叩き付けられたせいで体は不思議な形にねじれていたけれど、強くたちこめる血や死のにおいよりもずっと、君のにおいは美しかった。

 それらのあらゆるにおいの分子のおかげで、君に何が起きたのかをわたしは知ることができたし、幸いなことに君はとても小柄で、そして痩せていたから、なんとか君をこの部屋まで連れて帰ることはできた。

 あんな寒くて寂しい場所に、君を置いておきたくなかったんだ。ここは、同じくらいに孤独かもしれないが、君の美しいにおいに満ちている。君が暮らしていた部屋。君が生きていた空間。ここは、わたしたちだけの聖域だから。


 ひとつだけお願いがある。

 君の体を食べたことを、許してほしい。

 君が用意してくれていた食事は、すぐになくなってしまったし、何よりも……暖かな季節が来て、君の体が朽ち始めるのを、わたしは感じたくなかったんだ。死のにおいを嗅ぎたくなかった。

 それに、君を食べたら、君がどうしてあんなにわたしに優しかったのか、分かるかもしれないと思ったんだよ。

 ほとんど骨だけになった君は、それでもやはり美しかったから、わたしは間違っていなかったんじゃないかな。そうならいいと、心から願うよ。


 じゃあ、わたしは行くよ。

 君を殺したあいつの喉笛を噛み切りに。

 その後どうなるかなんて、考える必要はない。

 わたしから君を奪った相手に思い知らせられれば、それでいいんだ。

 己が何をしたのかを。

 そして、君がどれほど美しかったかを。

 星が綺麗だ。あまり見えないわたしの目にも、あの三つ星は、よく見える。

 ありがとう。わたしに、美しい名前を与えてくれて。

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