Ep.10 君が産まれた奇跡

 まだ薄暗い中、腕枕をしていた上にあった重みがないことに気がついた。

 闇に浮かぶデジタル時計の数字は、二時を示している。

 まだまどろんでいた頭、意識が違和感を教える。


「……リディア?」


 ベッドの中、横で息子のレオンは寝ている。

 ディアンは起き上がり、ドアの隙間から漏れる明かりに足を向ける。

 廊下の先、トイレの奥で呻く声が聞こえた。


「リディア!?」


 自分の中から切羽詰まった声が出てくる。頭の隅でこれが自分の声かと呆れるが、同時に焦ってもいた。


 ドアをあけ放つと、リディアが前かがみで呻いていた。何度呼び掛けても、顔をあげてくれない。


「リディア、どうした!?

「……でちゃう…出ちゃう!」


 え? と、頭が真っ白になる。どんな窮地でも、即作戦を考え直す、常に冷静さを忘れない自分が。


「……赤ちゃん、出ちゃう!!」


 思考が止まった。

 



 病院に電話をすると「すぐ来てください」との言葉。

 救急車を呼ぶか、判断に迷う。この自分が、だ。どんなときにも即、最善の策を考えるのに、最善は何だと。


 その間に、這うようにトイレから出てきたリディア。迷っている暇はない、横抱きにして抱え上げる。とたんに、首に爪を立てられた。


 いつのまにか起きてきて、まだパジャマ姿で目をこするレオンを見て、横目で時計を見上げる。


 救急車は最低でも到着まで五分かかる。病院までは、車で五分。


「うまれる~~~」

「まて、まて!! レオン、こい!」


 レオンはパジャマのままだ。迷ったがもういい。


 リディアを抱え上げたまま、車まで走る。助手席に座らせようとして諦めた。後部座席におろすと、彼女は丸くなっている。


 シートベルトを締めるのは無理だ。


「……赤ちゃん、産まれるの?」


 レオンが助手席でシートベルトをはめている、年齢の割に大人びているがリディアが叫ぶたびにビクッとする。


 自分も焦る。

 車を発進させる。車がほとんど走っていない時間帯で助かった。じゃないと事故を起こしていたかもしれない。


 チカチカと黄色を点滅させる信号を見ながら、車を飛ばす。


 病院の駐車場に車をとめると、スタッフが夜間用ドアから駆け寄ってきた。助産師ですと名乗る彼女の顔も強張っていた。


「リディア、動けるか?」

「……」


 後部座席を開けると、呻いて声も出せないリディア。手を伸ばして抱き上げると、リディアが叫ぶ。


「でる!!」


 つられたように助産師が叫ぶように、俺に言った。


「ご主人、そのまま連れてきてください!」



 ドアをくぐると、エレベーターは既に「開く」のまま待っていた。


「まだ、いきまないでくださいね!!」


 助産師が、必死で言い聞かせている。

 腕の中でディアンの腕に爪を立てるリディア、痛いとは感じない。痛みなんか麻痺していた。


 リディアを自分が運び、ポカンとしているレオンを助産師が腕をひいていた。


「でるーー!!」


 チン、という到着音と共に廊下に出ると、分娩室が口を開けていた。


「ご主人、そのまま抱いてきてください!!」


 確かレオンの時は「外で待っていてください」としばらく待たされたはずなのに。

 お姫さま抱っこのまま、リディアを抱えて煌々と明かりのついた分娩台の上に彼女を寝かせる。


 が、腕を強く掴まれていて離れられない。


「まだいきまないでくださいねー、フーですよ、フーって息をしてくださいね」


 助産師が言いながら、準備をしている。リディアの腕に点滴がつけられて、腹に機械をつけると、胎児の心臓の音がトットッと、聞こえてくる。


 レオンが、ディアンのズボンの裾を掴んでくるから、反射的にその頭に手を置いて乱雑に撫でる。


「ご主人、これ着てください」


 他のスタッフが黄色い不織布のガウンを渡してくる。けれど、リディアが腕を離さない。片手で受け取りながら、彼女の顔を見る。


 必死な雰囲気の中、自分も必死だった。上ずった声が出てくる。


「リディア、フー、だ。息しろ、息!」

「でちゃうーー!!」

「――もう、いきんでいいですよ」 


 どこか安堵したように助産師が言う。


「いきんでいいって、な」


 いい聞かせる前に、ディアンの腕をぎゅうと絞るようにつかんでいたリディアの手に力がこめられる。


 とたんに赤ん坊の泣き声が響き渡った。



***


 廊下の長椅子でレオンが膝に頭を載せてウトウトとしている。ディアンもあっという間の出来事に放心している。

 長男のレオンの時は、陣痛で入院してから産まれるまで二日間かかった。

 なのに今回は、嵐の様に過ぎ去った。


(おわった……のか?)


 産まれたばかりの赤ん坊は見た。けれど、あっという間すぎて、実感がわかない。


 プシュッという音が響いて、陰圧で密閉度が高い手術室と同じ作りの分娩室が口を開けた。

 助産師がバスタオルに来るんだものを抱き抱えながら、分娩室から出てくる。


「ご主人、おめでとうございます」


 レオンが膝から起き上がり、「赤ちゃん?」と尋ねる。

 渡されたものをこわごわと受け取る。


 ――あまりにも小さい。レオンの時も、こんなに小さかっただろうか。

 くるまれているタオルを顔からどける。金色の髪は頭に申し訳程度にへばりついている。色はリディアより淡い。


 金色のまつ毛は信じられないほど、ふさふさで、くるりとカーブを描いている。小さな拳が懸命に握り締められて、頬に添えられている。


「赤ちゃん!?」


 レオンが椅子の上からのぞき込んでくる。少しだけ腕を下げて見えるようにする。


 その瞬間、閉じていた瞼が開かれた。

 ――鮮やかな碧、そして中心はグラデーションを描いて淡い蒼へと変わっていく。

 リディアの緑とレオンの青、両方の色を持つ瞳。

 自分の色はどこにもない。


 でも、それでも、なんとなく嬉しい。


 ディアンの顔を見る眼差しはまだ焦点があってない。

 けれど、でも。


 全ての思考も、目も――そして心も奪われた。


「赤ちゃん、目あけた!」

 「そうだな、開けたな」と返しながら、腕の中のモノをぎゅっと抱きしめて、レオンの方へと見えるように顔を向けた。




 分娩室の中に戻ると、目を閉じていたリディアが上気した顔で見上げてくる。その顔は、疲れているのに、どこか誇らしげだった。

 今まで見た中で、一番きれいだった。


 彼女の横に産まれたばかりの娘は寝かされていた。ディアンは腕の中で眠ってしまったレオンを抱えなおす。


「見た?」

「ああ」


 そして、ディアンは一言だけ返す。


「俺。嫁とか、一生無理」


 リディアが黙った後、ほわっと笑う。


「なんだよ」

「……私ね。“ディアン先輩”が、初恋だったんだよ」


 思わず黙る。しみじみとリディアがつぶやく。


「初恋は実らないって言うのにね。私は……幸せだね」


 ディアンはリディアの方に屈みこむ。胸にこみ上げてきた感情は言葉にできない。


「リディア?」

「うん?」

「――産んでくれて、ありがとうな」


 そして、額にキスをした。



***


 帰り道の車を走らせる。一度、家に帰ってまた昼間に会いに行くとリディアには告げてある。

 ふと思いたって、車を停めた。


「……ついた?」


 レオンが目をこすり、もにゃっと呟いた。

 

 もうすぐ朝が来る。

 明け方の一面に空が青くなる時間だった。ブルーモーメントと呼ばれる瞬間。


 ディアンは目を細めて、窓越しに空から地平線まで写す青の世界を眺めた。


 それは、娘の瞳の色、だった。


 ディアンがシートベルトを外して、外に出ると真下には一面の菜の花が揺れていた。


 レオンが、おぼつかない足取りで外に出てくる。


「寝てていいんだぞ」

「……うん」


 目をこすりながら、ディアンの足にしがみついてくる。それを抱き上げて、菜の花と空を見上げる。


「ティア……」


 その名を呟いていた。

 もう一度、胸にこみ上げてきた名を呟く。


 今決めたばかりの名前。


「ティアナ……」


 ああ、この色は、ティアナの色だ、と。


 汗がにじんだ額、疲れているのに一番の仕事をして微笑む顔、そしてディアンに向ける絶対の信頼と愛情。


 『初恋の人だね』なんて。


「……俺も、だよ」


 あの時、言えなかった言葉。何度も感情をぶつけ合って、年下だからと相手にしないで。

 でも、先に惹かれたのは自分だった。

 初めての恋。そしてもう一度恋した相手は、自分の娘とか。


「マジ、嫁とか、無理だわ」


 娘の瞳と同じ青の中、眼下に見下ろすのはリディアにプロポーズした満開の菜の花の黄色。

 

 そしてディアンは、口を覆うように手を当てた。

 こみ上げてきた嗚咽を堪えるのは無理だった。


 一生、守れる。それが嬉しかった。






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