Ep.8 背くことなく、重ねる想いー後編


 小さな音がしてリディアが入ってくる気配がした。その頬は少し赤い。わずかにまた目が潤んでいる。


「大丈夫ですか?」

「――まだいてくれたんだ」


 リディアが時計を見上げて力なく笑う。時計は一の文字を指していた。先程よりは余裕があるというよりも、諦めのような悟りのような笑みで、ようやくここに意識が戻ってきた、という感じだった。


「教授にね。今回の発表は諦めるように言われたの」


 そしてリディアは唇を震わせた。小さな動きだったが、こらえきれない震えがキーファには伝わっていた。


「リディア、こちらに座って」


 先程と同じようにソファを勧めると、リディアは、拒否はせずそっとキーファの目の前に腰をおろした。


「私もわかってたから。無理やり通そうとしていたって」


 自嘲の笑みは力がなかったが、顔は晴れていた。


「来週から、教授の研究のフィールドワークに参加するようにって。それから教授が教えている学部生の授業を手伝うの」

「それは――」

「ダーリング教授はわかっていたの。私、魔法陣は独学で。学部でも修士でも専攻していないから、基礎ができていないかもっていう不安があったのね。それに――リュミナス古語も」


 だから教授が行う授業や研究に参加することで、自分の基礎を補強すると。

 先ほどリディアが吐露しきれずにいた思いがこぼれてくる。


「情けないし、漏らしちゃいけないかもしれないけど」


 リディアはそう言って前置きをして、ためらうように言葉をためた。


「魔法学校では、共通語さえもわからなくて。あの時わからないままで進めたから基礎ができていないかもって。論文のリュミナス古語も、全然読めていない。研究のテーマもまとまらないけど、その前にこの方法でいいのかも、わからなくなってきて。自信がないから」


 リディアはそう言って、キーファから顔をそむけて口を閉ざした。


「教授や他のみんなを見て、未熟だなって。基礎ができていないって」


 それからしばらく黙った後、小さく漏らした。


「漏らしてごめんね」

「やればやるほど、未熟だと思うのは俺もです。自分がどれほどできてるか、やっているかを強く語る人ほど、自信がないのでは、と思いますよ」


 リディアはまだうつむいたまま。励ましは、なかなか届かない。


「俺はリディアに教わって不安だと思ったことはありません」


 そして、キーファは不意に立ち上がり、先程仕舞ったものを冷凍庫から取り出した。袋に入っているスプーンも蓋に添える。


「でも今は同じ学生です。だから一緒に勉強しましょう」


 リディアの目の前にハーゲンダッツのストロベリーを差し出す。サンドイッチと一緒に買ったものだが、あの時の彼女は手にする余裕はなかっただろうから出さなかった。


「わからないことがあれば、訊いて下さい、俺も訊きます。学生同士、訊きあい一緒に調べるのは、おかしくないでしょう?」


 リディアは差し出されたアイスクリームを見下ろして、それからキーファを見上げた。


「あのね。前から思っていたけれど。敬語、やめない?」


 大学内での言葉遣いに、他者の目を気にしているリディアにキーファは気づいていた。リディアが教員でキーファが生徒だったと聞いて、他の学生はすぐに納得していたが、リディアは時たま気まずそうにしている。


「私が、上から目線で話しちゃうからかな」


 自分が悪い、とリディアは自嘲するように、つぶやく。やはり自己肯定感が下がっているようだ。

 己を責めがちなリディアに、「それはないです」と、キーファははっきりと否定して続けた。


「少しずつ変えてますが、気づいてない?」

「……」


 リディアはそうかな、という顔をした。


「じゃあわかるように。リディア――受け取って」


 ぐいとアイスを差し出すとリディアは驚いて、それから「ありがとう」と言いながら受け取った。

 だがまだ迷い、手を付けないリディアに、キーファはさっとそれを取り戻し、蓋を開けて手渡した。

 先ほどと同じ状況に、リディアは観念したかのようにアイスクリームにスプーンを差し込み口にする。


「なら、リディアからも近づいてください」


 リディアは一口食べて、それからしばらく考え込んだ後、頷いた。「おいしいね」と味わうように呟いて、キーファを見上げる。その口元はほころんでいた。


「わかった。私も言葉遣い気をつける」


 少し意味が違うのだが、意識してくれるのであればいいかとキーファはここまでにしておく。


「おいしい、ありがとう」


 そう言いながらも、少し眠たげに手が止まりがちになるリディア。目を閉じがちになるリディアに、キーファは苦笑を浮かべた。


 今回は無理に研究を進めるのを諦め、キーファも内心は安堵していた。そして余裕ができて改めて見ると、やはり可愛いと思うのだが、今は心配だ。


「送っていきますよ」

「ううん……発表会は聞かなきゃ」


 自分は発表しなくても、聴講はしていくという。首が揺れはじめて必死でまぶたを開こうとするリディアから、キーファはアイスクリーム取り上げて蓋をして戻す。

 まるで子どものような、無防備さだ。


 頬の傍でゆらゆら揺れる横髪に触れたくなる。


「じゃあ、一晩ここで眠りますか?」

「そうする……」


 もう電車は動いていないため、タクシーで帰らせようとも思っていたが、とても動きそうにない。


 まだ背を起こしたままのリディアの肩を支えながら押して、ソファによりかからせると、リディアは素直に目を閉じた。


 ――自分を男として意識してほしいと思うが、これまでも何度もそういう機会を逃してきたのだから、警戒をされていないのはわかっている。


 こうやって少しずつ距離を縮めること。自分が好きでやっていることで、不満はないが、時たま不安になる。


 自分だから警戒していないのか、他の相手でも警戒をしないのか。それは大丈夫なのか、と。


 だがリディアの少し疲れた寝顔を見ると、やはりこれは自分が好きでやっていることなのだ、と思う。他の男の前で無防備になるのであれば、それは防ぐ、牽制する。


 学内でもキーファはリディアにとって特別だという場面をことあるごとにあからさまに見せ、手を出せないよう牽制をしていた。


 今日も院生たちに、自分がリディアの面倒を見るからと明言して、残れない雰囲気を作り、帰させた。


 リディアを助けたいし、力になりたい。一番近い存在でいたい。来週からの教授のフィールドワークも、自分も参加を教授に願い出ることを頭に書き留める。


 そしてリディアにシャツをかけたところで、ポケットに入れた振動にキーファは個人端末PPを手にする。


 相手はわかっていた。なぜリディアではなく、自分なのか、それも想像がつく。


『――今日の、夕方四時に迎えに行く』


 この人は、結果をわかっていたのだろう。彼も魔法に精通しており、リディアの研究も知っている。


 そしてダーリング教授は師団に協力をしており、教授の人となりは知られている。

 だからこそ今回の結果も予想していた。


 その上、発表はできないが聴講していくというリディアの行動も見越していた。

 彼女自身の心配もしているが、やりたいようにやらせる。その後は引き受ける。なんだか、全て彼の手の平の上にいるようで、キーファは面白くない。


 その隣に自分がいるということも容認して、任せるという体裁を保ちながらも牽制している。


 この人――ディアンは、妬心が強い人だ、と会った頃からわかっていた。

 付き合ってもいないくせに、自分のものだとあからさまに主張しているところがあった。案じ、助けながらも、行動にうつさない。最後はようやくリディアを手に入れた、という安堵の様子も見えていた。


 もしかしたら、相手がリディアだからこそ、彼は行動に出せなかったのではないか、と今では思っている。下手に動くと逃げられる、彼は怖かったのではないか。


 だからこそ、彼女が自分のものになった今、他の男が彼女に近づくことに、いい思いはしていない。というよりも、かなり苛立ちも焦りもあるのではないかと思う。


 馬鹿なことを、と思いながらもつい聞いてしまった。


「俺が何もしないとでも思わないのですか?」

『――しないだろ』


 それくらいはわかる、と。

 声が親しみやすいものではないのは、いつものこと。大抵のものが、その淡々としていていながらも端的で冷ややかに聞こえる声音に怯えている。


 彼に怯えることが何もないキーファは感情を乱すことはな。だが、いまの彼の声にはかすかに不機嫌さを感じ取れた。


「随分甘く見られている」

『さっきも言った。無事に返せよ』


 “帰せ”、ではなく“返せ”だ。


 それまでは守れよ、と。隣にいることを許し、その場を貸してやると。冷酷無比と評される彼だが、リディアには相当甘い。そしてキーファには残酷で、腹立たしい。


 それ以上言うことはない、というような終わり方。一方的な会話が終わると思われたが、その前にふと彼の声音が変わった。


『――様子は?』


 それは確かに案じている声だった。


 リディアを思う団員たちが彼とリディアの関係を許していること、それは大事にしているからだと、こういう時思い知らされる。


「気落ちしていましたが、今は眠っています」

『そうか』


 また牽制されるかと思ったが、それ以上はなかった。任せられている、そう思うと悔しさも募る。確かに自分は彼女を傷つけることはできないのだ。


『――頼む』

「言われなくても」


 彼の返事は含み笑いだった。感情を隠せていない自分の声は、むしろ彼に余裕を与えたようだと気づいたのは通話が切れたあとだった。


 苦い思いで端末をポケットに仕舞い、ソファの端に座ったまま目を閉じている彼女に楽な姿勢を取らせようと、肩に手を置き慎重に起こさないように横にさせながらキーファは考える。


 リディアは力なく素直に身体を傾けてくる。


 枕代わりの何か、を探してキーファはつい苦い笑みを浮かべた。ちょうどリディアが頭を寝かせる箇所に自分が座り、そのまま自分の膝の上に彼女の頭を横たえる。


 リディアは起きる様子はない。この行動は、彼の許容範囲には入らないだろう。自然に浮かべた笑みは、溜飲を下げているのか、それとも意識がない彼女に対してのわずかにすまないという気持ちからだろうか。


 よほど疲れていたのだろう、全く目を覚ますこともなく自分の上で無防備に眠るリディアの寝顔を見て、キーファの中のやましさも彼に対する悔しさも含めて、様々な感情が吹っ飛ぶ。


 自分の上着を、リディアの上にかけなおして思う。


 滑らかな頬にかかる一房の金色の髪を首の後ろへと流し、頬や首の線の柔らかさに愛しさが募り、目を和らげる。


 いまのこの時間は、自分にとって至福のときだった。



*ダーリング教授は、息子(ウィル)には分が悪そうだと残念に思っていますが見守っています。

内心、娘にきてくれたらいいのに、と。

このあとウィルを乱入させようかと思いましたが、キーファにこの時間を満喫させてあげることにしました。

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