Ep.8 背くことなく、重ねる想いー前編

「終わらない、どうしよう」


 もう夜も深い院生室で、リディアは途方にくれていた。窓の外は真っ暗で、大学の中庭を照らす外灯が窓にかすかに映るのみ。


 ここは、歴代の学生たちが使ってきたものだが、概ね彼らは余裕がない。去るときでさえも慌ただしく、使い古しの物品を残していったり、片付けをしないままだったりと、整然としている部屋とはいいがたい。


 長机二つにMPマジカルプレートが並び、その下のコード類はホコリが絡み合っている。壁に備え付けのミニ冷蔵庫は古さから異音を立て、その横の水道の蛇口は締りが悪くたまにポタリと水滴音を垂らしている。


 ここの主になっているものもいれば、最小限に現れる学生もいる。だが昼間はそれなりに、まばらに人があつまり自分の研究に没頭して人の気配が耐えない部屋の中で、真夜中に残っているという状況は、それなりに気持ちが落ちる。


 煌々と魔法灯がついているのは、リディアがまだ残っているからだ。


「――リディア、落ち着いてください」


 ほんの先ほど、ドアを当たり前の様にあけたキーファに、こんな時間なのに、と驚きを見せたが、どうしたのかと聞く余裕もなく、顔をわずかにあげて「あ、キーファ」と声をかけたリディア。


 今後どうしたらいいのかと展望を見いだせず、ただ真っ白になっていたリディアはキーファの諭す声に、ようやく彼を見た。


「でも、でも……」


 リディアは、真横に立つ彼を見上げる。普段彼は、威圧感を相手にもたせない。でもいまは、強く言い聞かせる声。


 少し腰を落として、彼は眼鏡越しに真っ直ぐにリディアの心を覗き込むかのように見つめてくる。


 近い距離に普通ならば緊張しそうなものだが、そんな余裕さえもなかった。


 キーファから避けるようにリディアは目を自分のMPに向ける。自分の書いたものを、見てほしいようで、見てほしくない。


 MPは、主に文章を書く道具として使っている。


 大きな魔法術式の演算や実験は、各領域の演習室や実験室で行うから、ここは院生達が論文を書いたり、印刷をしたり、雑務をする場所だ。


「ダーリング教授から、もう一度計画を見直すように言われたの。最初から考え直さなきゃ」


 明日は、研究の進捗状況の発表会。けれど先程、自分の指導教官であるダーリング教授からもう一度、整理して見直す様に言われたのだ。


「もう一回研究計画を見直して、書き直して。教授にOKもらわなきゃ、でももう夜遅いし、発表用の原稿もリュミナス古語に直さなきゃいけないし」


 博士課程の研究の発表会は大学院の教授陣も院生全員も参加する。もう発表の順番プログラムも決まっている。


 公開発表するには、それでいいという指導教官である教授の許可が必要。けれどもう夜の十一時だ。教授に見てもらうのも非常識といえる時間だろう。


 おまけに魔法はリュミナス古語を使用するので、研究発表のスライドでさえもリュミナス古語で書かなければいけない。


「ここで発表しないと、来月の魔法審査会も通せないし」


 魔法は、好き勝手に使っていいものではない。新しい魔法の開発に関しては人類、生態系を脅かすものではないか、倫理的に問題がないか、審査を通さないといけない。


 その魔法審査会が来月にあるのだが、その前段階である、研究の目的、意義、方法、方向性が適切であり、研究が価値のあるものであるか、大学の教授や生徒の前で示し、意見をもらう発表を行わないと、その審査会に出せないのだ。


 審査には時間がかかる。来月に出さないと、研究が開始できず大幅にスケジュールが遅れてしまう。とにかく、全然間に合わないのだ。


「――リディア」


 名前を呼ばれて、強く両肩を押さえられてリディアは彼を再度見上げた。肩にかかる重みに、ようやくキーファの存在を感じた気がした。


 一人じゃない。混乱している自分の力になってくれようとしている。それに気づく。


「まずは落ち着きましょう。焦っても、もう遅いのは変わりません」

「……」

「立って深呼吸を」


 言われて渋々立ち上がり、目を閉じて深呼吸。そうすると、少しだけ肩の力が抜けた気がする。


「一度ここを離れて。そちらに座って」


 キーファが示すのは壁側の長椅子だった。彼の気迫は絶対にMPの前には座らせないというもので、疲れ果てていたリディアは先導にしたがって、備え付けの茶色い合皮の長椅子に座り込む。


「ずっと食べてないでしょう」


 キーファが手にしていた茶色い紙袋から出してきたのは、卵サンドだった。中身の水滴のせいか、紙袋は端が濡れ、濃く変色していた。


「ありがたいけど……」

「食べたほうが頭は回ります」


 キーファはそう言って、わざわざサンドイッチの包装を破いて、ビニールがついた下側を持って手渡そうとする。


 そこまでされて、リディアはようやく息をついて気が乗らないまま受け取る。


「ありがとう」


 肩を落としながら三角の端を口にすると、リディアは時計を見上げた。もう真夜中の零時。

 これから直しても、それを見てもらうのは不可能な時間帯だ。


「お茶も飲んで下さい」


 キーファは紙袋から冷えたブリックパックのお茶を出して、ストローを差し、力なく落としたリディアのもう片方の手に握らせてくれる。


 その甲斐甲斐しさにリディアは笑った。


 他の院生はもう帰ったあと。


 キーファは修士課程だ。言い換えると博士前期課程にあり、博士後期課程であるリディアの後輩にあたる。


 当然明日の発表会には関係ない。なのに前触れもなく現れ、途方にくれていたリディアにさらりと差し入れをし、励ましてくれる。


「ありがとうね」


 礼を言いつつも、どこかリディアはうわの空だった。まだ焦る気持ちは変わっていない。


「食べたら少し横になってください」

「今からやって、六時頃に教授に直しを送らなきゃ」


 それならば朝九時の発表会に、間に合うかもしれない。


「――リディア」


 キーファの声音は叱るようだった。叱責されると思っていたが、弱っていたリディアは、少し泣きそうになって、瞳を見開いてキーファを見つめ返す。


 唇を引き結んで、まばたきをしないように気をつける。


 眼鏡越しの瞳は、まっすぐにみつめてくる。濃い茶色の睫毛は長く、瞳は透き通る水色。その組み合わせがきれいだなと思いながら、潤む視界にとうとう目を反らした。


 絶対に泣きたくない。そんな同情を引くようなずるさは見せたくない。


 ダーリング教授の厳しい声を思い出して、リディアは高ぶる感情を鎮めるために、胸に空気を吸い込む。


 でも瞳に一度溜まった涙は戻ってはくれず、リディアはなんでもないように彼とは反対側に顔を背けて、ポケットに入っているはずのハンカチを探る。


 その目の前にキーファが青い大ぶりのハンカチを差し出してくる。シワひとつなく、丁寧に端が揃い畳まれたそれに、キーファの性格を思う。


 着ているシャツも、シワもよれもない。彼の体型に沿い、しかも似合っている。

 身なりを常に整え、几帳面。でも神経質ではない、他人の視線を気にするわけではなく、自分がそれをしたいからする。


 それができるのは余裕があるからだ。


 きれいなハンカチを受け取ることができず、リディアは自分のものを探す。すぐに出てこないのは、自分がハンカチを入れる定位置を決めていないから。


「大…丈夫。ごめ」


 情けない、その一言でしかない。ハンカチを受け取らずにお茶をソファの不安定な座面においたまま、ポケットを探すが、それ自体さえも見つからない。


「リディア」


 キーファが横を向いたままのリディアの目に、ハンカチを当てて押さえるように拭ってくるから、ようやくリディアは彼の方を向いて、手をのばす。


 呆れているはず、と思うのに。


 キーファの瞳は呆れも、同情もない。ただ落ち着いた眼差しで、視線をそらさずに一心にリディアを見ていた。


 彼のハンカチを手にして、目を押さえるリディアの行為をずっと見ている。さり気なく両目を押さえて、使ったそれをそのまま返すわけにもいかずに、ハンカチをぎゅっと左手に握ったままリディアは、目線を膝に落とした。


 一連の動作を終えても口を開けないリディアに、キーファは淡々と言い聞かせる。それは厳しくもなく、ただこの二人の空間に染み入るようだった。


「あなたは、任務から帰ったばかりで、ここ数日寝ていない。眠っていない頭で考えてもいいアイディアは浮かびませんよ」

「……でも」

「計画に穴があったら教授は認めないし、あなた自身も納得いくものができないでしょう?」


 キーファとリディアは同じ教授に指導を受けているのだ。キーファも教授の厳しさはよく知っている。


 ダーリング教授は尊敬できる人物だが、研究に関しては妥協しない。学生の出すものでもそうだ。まだ初期の計画段階だが、研究はその最初が大事なのだ。


 そこが曖昧だと、必ずあとでつまずく。リディアもわかっているのだ。自分が立てた計画の甘さ、不十分さを。まだ研究を始めるのにあたっての検証が足りていない。


 院生の中には、緩くて許可を出してしまう指導教官に教わっているものもいるが、ダーリング教授は甘くない。


「二時間寝たら起こします。それから二人で考えましょう」

「キーファ。……ここまででいいから」

「明日は発表を聞くだけです。俺も自分の課題をしているから」


 彼は絶対に帰る気はなさそうだ。


 いつも思う、彼は落ち着いているなと。多分、無駄がないのだろう。物事をよく考えて、計画通りに物事を進める、動きに無駄がないから、余裕を持って進めることができる。そして余った時間で他人を助ける。


 リディアは自分の余裕のなさを情けなく思いながら、まだ未練がましくMPを見つめる。


「……わかった、少し休む。でもキーファは本当に帰って」

「俺が研究のテーマで悩んだ時、一緒に考えてくれたでしょう? 俺も助けられてるから」

「あれは、私、何もしていないような……」


 相談と言われたけれど、殆どキーファは自分で考えていたし、本当に話を聞いただけなのだ。なのに、キーファは柔らかく目を細めて笑った。


「とにかく、俺は。今晩は、付き合うので」

「……ありがとう」


 間に合わなくて追い詰められていたのに、彼がいると言うだけで力が抜けていくようだった。


 口に入れる卵サンドは、せっかくだが味がしなかった。口に張り付くようでお茶で流し込む。

 キーファの見つめる視線に、リディアは重い口を開きかけて、また閉じる。


「……キーファも、いまは一番課題が多いときでしょ? 修士って地獄だもの」


 修士課程は多くの教授や准教授たちが「人生でこんなに辛いことがあるのかと思った」と語る。


 課題は、気が遠くなるほど多い。泣けばいいのか笑うしかないのか、死にそうになるほど。そして自分の研究に終りが見えなくて、修了するための修士論文提出直前までの二年間、寝ても覚めても焦る日々を送る。


「そうですね。でも俺は、働いてないので」

「働いてなくても、みんな全然終わらないみたいよ」


 働きながら大学院にいる学生も多い、だが大変なのはみんな同じ。そして、キーファは師団や魔法省、教授のアルバイトも受けている。むしろ他の学生よりも忙しいのではないか。


 ――ダーリング教授は、博士課程の学生しか取らない。修士課程のキーファを取ったのは異例のこと。それは、彼が優秀だからだ。


 リディアは内心の弱音を押し隠しながら、卵サンドを食べ終えた。


 隣に座ったキーファとの間に沈黙が落ちる。

 何かを話さなきゃいけないという気まずさはない。それは彼との付き合いによるものだろう。だいぶ気安い関係になった。


 リディアが横を向くと、彼はじっとリディアを見つめていて、つい目をそらす。


「リディア。研究以外で、何を悩んでいるんですか?」

「……何も」

「話したほうが、楽になりますよ」


 夜中というのは人を不安にさせる。ネガティブな感情がこみ上げてくる。自分の未熟さが身にしみる。


「……リュミナス古語、もっと読めたらいいのに、て」


 それは情けない吐露だった。

 キーファは訝しげにも、見下さすような思いも見せず、ただリディアを見ていた。ちらりと見えたその眼鏡のフレームに書かれたロゴに、どこのメーカーだろうとぼんやり頭の端で思った。

 ロゴが掘られた銀色のメタルのフレームは上半分だけレンズを包んでいる。ハーフリムというデザインだっただろうか。彼によく似合っている。


「リディアは請願詞をよどみなく詠唱しているし、リュミナス古語も話せますよね」

「……少しはね。でも話せるよりも、読めるほうが大事だなって。論文を探すのに、検索かけたら五百とか千とか出てくるでしょ。キーワードに大量に引っかかる論文のアブストラクト抄録が瞬時に読めて、必要な論文を探せるには、リュミナス古語の読解能力が全然足りない」 


 普通はリュミナス古語を話せる魔法師は少ない。自分の場合はそのもととなるグロワールがわかる、というだけで、少し有利なのだ。


 ただ、リュミナス古語は話せるよりも読めるほうが大事だというのは、大学院に行ってから痛感している。


 以前、キーファを指導していて感じたのは、彼は本当に能力が高いということ。魔法を教えたのは自分だが、魔法学に関しては自分より彼のほうが、基礎ができている。


 教師だったというのもあるが、先輩としてもそれ以上の弱音が吐けなくて、リディアは黙り込んだ。食べ終えた卵サンドのビニールを手にしていると、彼は当然のようにそれをリディアの手から引き取り、スッと立ち上がりゴミ箱に捨てた。


「三時になったら起こします」

「そんなに眠ったら……」

「教授には七時に送りましょう。六時は早すぎです」

「……うん」


 リディアは疲れてきて、素直に頷いた。


 真夜中で隣に男性がいる、ということに今更ながらに気がついたが、すぐにそんな考えを浮かべたことをリディアは内心恥じた。彼は心配してきてくれたのだ。


 それに、任務帰りで寝不足で髪も肌も乱れて、ひどい外見をしている自分を襲うような男性はいないだろうとも思う。


 何より彼は女性に乱暴をするような人柄ではないし、疑うのはキーファに失礼だ。


 わずかによぎった不安は、きっと疲れているせい。彼自身はそんな意図は微塵ももってないのに。


 気にしていないことを証明するように、リディアはソファの端によって「少しだけ眠るね」と言って、そのまま目を閉じようとする。


 彼が見届けるように頷いたところで、内線電話が鳴った。


 キーファのほうが速かった。素早く立ち上がり受話器を取ると、不安げに見上げていたリディアの視線をそのままに、受話器を置いてしまう。


 そしてリディアに告げた。


「ダーリング教授からです。今から研究室に来るように、と」


 壁掛け時計の針が指すのは十二と六。


 零時半になっていた。

 かなりの遅い時間だが、教授が残っていてもおかしくはない。それぐらい忙しい人なのだ。


 リディアは青ざめた顔で立ち上がる、もう覚悟はきまっていた。

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