Ep.3-4 The Blue Phantom
リディアは目を瞬いた。
驚きはない、なんとなく無理を言われると予想をしていたからだ。金品じゃなくてよかったと思う。
「驚かないのですね、姫」
「驚いていますが、理由がわかりません」
彼は目を見開いて意外だという顔を作る。何をしてもさまになる顔だ。
「理由? そんなの聞かれるまでもない、あなたが欲しいからだ」
「しょ……処女にこだわる理由がわかりません。そもそもそれって――」
そこでリディアは口を閉ざす、前菜が運ばれてきたからだ。
「当然でしょう? 誰も踏み荒らしていない新雪に足を踏み入れるのと、踏み荒らされた雪道に足を踏み入れるのと、人はどちらを好みますか」
「……経験のある女性は、踏み荒らされた雪ですか?」
彼は片眉をあげた。微笑みは優雅だ。
「物のたとえです」
リディアは首を傾げる。
「私がもしそうだとしても、初めての私がそれほどいいとは思いません。何もできませんし、それなら経験豊かな女性のほうがいいかと思います」
彼は笑う。
「面白いことを言う」
「それに、処女がいいなら――その場限りの関係がいいということですよね」
「勿論、あなたが望むならそれ以降、いくらでも」
リディアは首を振る。
「だったらなおさら、初めてにこだわる理由がわかりません」
「初めてだから、こそです。初めてのまだ良さを誰も気づいていないもの、花やお菓子やおもちゃ。見慣れぬものがあれば、一番最初に手を出したいのです」
リディアは言い様を変える。
彼は言葉遊びをしているように思える、あまりリディアに取っては楽しくないけれど。
「私は、自分の望まない相手と――好きじゃない方としたいとは思いません」
「行為に幻想を抱いているのでは? 一度試してみなさい、それほど大げさに捉えるものじゃない」
リディアは眉を潜めた。その“初めて”にこだわるあなたがそれを言う?
「僕に身を任せてみなさい。そうすればわかりますよ」
リディアは首を振る。
危険だ。言葉遊びをしていないのに、相手のペースになる。
視界が揺れた。気がつけばテーブルには、青い花が飾られている。リディアの家に送られてきたのと同じ花。瑞々しい香りが鼻を突く。
「――本当は私、あまり回収にこだわっていません」
ディアン先輩が聞いたら怒るだろうけれど。確かに自分の写真を他人が持っているのは少し気持ちが悪いが、それだけだ。
「自分の写真でも、自分の手から離れたらもう自分のものじゃないと思うんです」
「どんな目にあっても? ネットオークションで売りさばかれたり、悪評が立っても」
リディアは首を振る。
「自分の知らないところでは、気にしません。ただ――私は教師をしていますが、もし生徒がそういう目にあっていたら心配だし、なんとしても取り返そうと思います。だからディアン・マクウェル団長が部下だった私を気にかけるのもわかります。私が同じ立場なら、やっぱり見過ごせない」
彼は微笑みを浮かべているが、目が笑っていない。
「自分のことは気にかけない、他人のことだと気になる。自分をおざなりにする」
彼は口を開く。
「君は大事にされなかった子だね」
リディアは返答しない、おそらく表情も変わっていない。だが、彼の口調が変わった。
“あなた”から、“君”に変わった。その意味は?
「師団が、家代わりだったのだろう? けれどここは家じゃない。自分が大事にされなかった。だから自分を大事にできない」
揺さぶりをかけられている。リディアは自覚をしてただ見つめ返す。防御壁を作り直す。
いいや、すこし柔らかくする。壁は柔軟な方がいい。
「私の家は、男子が何よりも優先されました。娘の私は、兄の二の次でしたから」
「お兄さんが何かあったときには身を挺して庇え。それが君の心にも身にも染み込んでいる。君は、今後もそうするだろうね」
リディアは答えない。
「可哀想な子だ、けれど――興味深い。ますます欲しい」
彼はリディアのテーブルに手を閃かす。
「食べなさい。先程から少しも減っていない」
まだ前菜なのに、全く食欲がわかない。
「ソードの団長がほっておけないわけだ」
「たぶん――後に引けなくなっているだけじゃないでしょうか」
リディアがそういうと、目の前の君はワインを口に含んだままきょとんと目を瞬いて、それから肩を震わせて笑い出した。
「いいね。その考え方。そうだよ、彼はそうだ」
リディアは前菜の鶏レバーのムースと黒スグリのソースを合わせて口に運ぶ。
「君たちは、まだそんな関係だ」
彼は楽しそうだ。
「まだ、もこの先もありません。私は師団を辞めたので」
「君は、第一師団には戻りたくない。足手まといになりたくない、彼の弱みになりたくない」
リディアは、フォークを置いた。
水を口に含む。アルコールは入っていないのに、少し目眩がする。精神に入ってこられているのかもしれない。
「僕のところに来なさい。僕は、君を大事にはしない」
青い花が揺れている。大丈夫、まだ精神に入り込まれていない。これは魔法じゃない。言葉で揺さぶりかけられているだけ。
彼がウェイターを呼ぶ。皿を下げさせる。リディアが何かを言う前に、新しい飲み物が置かれる。
「私は……」
「ライチベースだよ。次の白身魚にはよく合う」
白身魚のフライは、冷えたビネガーソースがかかっている。冷製いんげんとバジルソース絡めて口に入れる。
「いざという時、彼は君を守ろうとする。君はそれが怖いんだ」
「マクウェル団長は強い人です。私が心配することなどありません」
ディアン・マクウェル。わざと彼の名を、距離をおいて告げる。
どうして、あの人の話になるの?
「そう。なのに君は弱い。あの場にいるのはおかしいだろう。君はいざという時庇われたくない、見捨てて欲しい。なのに彼は見捨てないだろう」
彼が白ワインを飲み干す。キレイな飲み方だ。ソムリエが何かを訪ねて、すぐに新しいグラスを持ってきて、今度は赤を注ぐ。
「君と彼は、うまくいかないよ」
リディアは、息をしなかった。ただまっすぐに見つめ返す。
「知っています」
「僕は君を大事にしない。見捨てる。君を駒として扱う。君は望んでいるんだ」
今も大学で駒として扱われています、リディアは頭の片隅で考える。エルガー教授からの粗雑な扱いは、望んでいない。
「君は、罰を与えて欲しいんだ」
フォークを握る手が震えた。
「大事にされなかった、可愛そうな子。愛されなかったのは自分のせいだと思っている。だから常に罰が欲しい。大事にされると困る。大事にされると逃げたくなる」
「私は――」
「僕のところは、君にとって居心地がいいはずだ」
リディアは、水を飲み干す。
「そのような関係を強要していますか?」
「そのような、とは?」
質問で返された。リディアは顔を赤らめそうになりながら平静を務める。
「そういう男女の、肉体関係です」
「従属関係だよ。君はもう悩まなくていい。僕に従ってしまえば楽になる」
リディアは、フォークとナイフから手を離す。
「上司とそのような関係になることは望んでいません」
まだメインは来ていないが、これ以上の話はやめたほうがいい。固く強張ったリディアの顔を見て、彼は甘く優しく笑う。
「君のことはゆっくり時間をかけることにした」
「結構です」
「君は、必ず僕のところにくるよ。傷ついて、どうしようもなくなったときにね」
「帰らせて頂いてもいいですか?」
「――その水、何も入っていないと思ったのかな?」
リディアは顔に出さない。内心の動揺を隠して彼を見据える。
「味に変化はありませんでした。何も入っていないですよね」
そうだよ、と彼は笑う。
ただ机の上に置いてある左手の甲に熱を感じた。リディアは、左手を見下ろす。やはりなにもない、なのに握られているかのよう。
今度は、太ももを撫でられる感触にリディアは顔をこわばらせて彼を見つめ返す。スカートの下、触れるものは何もない。
「僕の能力を聞いているかな?」
「記憶を操作する、と」
表向きはね、と彼は微笑む。
美しく、ほとんどの女性が見とれてしまうほどの顔立ちだ。ただ、太ももに触れる熱にリディアは顔を赤くして睨みつけた。
「これは、あなたの仕業ですか?」
「そうだよ。僕はね、感覚を操作することができるんだ」
「……」
「ただし、戦闘では使わない。気に入った子にだけ」
変態だ。
「君は虐めがいがあるよ」
背筋をなで上げる感触に、ゾクリとした。本当ならば嫌な言葉だ。気に入らないと嫌悪感を覚えるはず。なのに、リディアは赤らむ顔を我慢して、深呼吸をして気を落ち着かせ、伝わる感触を遮断する。精神の防御を強くする。
「嫌な言葉と同時に快楽を与える。一度快楽の回路を作ると、人は忘れられない」
「やめてください」
「痛みとともに快楽中枢を刺激する。麻薬と同じだ。癖になるね」
「私はそういう趣味はありません」
リディアは思う。精神防御壁ができるならば、脳の感覚中枢への侵入を遮断する方法はないのだろうか。
「問題のものは、全部返してあげるよ」
「……ありがとうございます」
釈然としない。本当にそう約束してくれるのか、結局交換条件はなにか。
リディアは警戒の眼差しを緩めない。
「本物のほうが、何百倍もいい」
返してもらわないほうがいいのかも、そう思う。
「防御壁を強くしなさい。食事が終わるまで我慢できたら返してあげよう」
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