第9話 危機回々Ⅳ

 見渡せば、明るい狂騒の中に居た。

 鏡の向こうの世界は、狂った魔人達の狂ったお茶会。

 顔だけ兎の兎人間が黒のタキシードに身を包み、時計を見ながら茶を飲む。

 ティーポットが独りでに動き、ガチャガチャと音を立てては、紅茶の溢れたティーカップに延々と茶を注いでいる。

 異種族や異物達がわいわいと踊り狂う狂気の空間。

 みんなケタケタケタケタケタと頭がおかしくなりそうな騒音で茶会を

「--やられた」

 涼子は天を仰いだ。

 手足にはマッドハッターに付けられた操り糸。

 マッドハッターの望む配役通りの演技をさせられる。

 涼子の自由はない。茶を飲み、頭がおかしくなりそうな狂った芸を見させられ、時には泥からスコーンを作らされ、それを食べさせられる。

 もう何時間こうしているのだろう。

 傍に置かれた懐中時計は、ずっと午後六時を指している。

 --成る程、と涼子はこの魔術を推測した。

 幸い、思考までは操られていない。では、脱出する為に足掻くのは当然の事である。

〈狂ってしまった帽子屋〉は、童話をモチーフにした固有魔術の一種。擬似世界を形成し、ある特定の条件--今回であれば、午後六時という時刻--で発動出来る形成位階イェツィラーの魔術。

 その効果は、使用者の解除または魔力切れを起こすまで永遠に午後六時から時間が進まない擬似世界において、狂った茶会に強制参加させられる魔術である。

 つまりは、時間の停止した牢獄の中である。それに加え、マッドハッターによる演出には、逆らえない。今の涼子は、ただの配役の一人に過ぎず、監督であり演出家であるマッドハッターの言いなりである。

「……時間稼ぎには、持って来いの魔術って訳ね」

 キキキキキキキキ、と先程から耳元でマッドハッターが嗤う声がする。それは嘲笑であり、侮蔑の嗤い声。

『--ようこそ、お嬢さん。お茶会は楽しんでくれているかな?』

 甲高く、気色の悪いマッドハッターの声がする。

「趣味が悪いわね。流石夜歌の使い魔」

『キキ、まぁまぁそう言わずに。お茶会と言ったら、会話をしないと成立しない。これ、ボクの美学さ』

「確かに。それで私の配役はお客様という訳ね」

『ご名答。君は永遠にボクの話し相手になってもらわなくてはならない。同じ話題でも嫌な事でも、永遠にボクと会話を続けなくてはならない』

「分かったわ。どうせ私に拒否権はないし」

『キキ、よく状況を分かってらっしゃる。流石はヨルカ様の弟子』

「その弟子への仕打ちがコレって、ちゃっと愛が足りないんじゃないの?」

『……随分と余裕があるじゃないか』

「余裕なんてないわよ。追い詰められているのは私の方なんだから」

『その強情さが、君の強みという訳か。では、本当の茶会へご招待するとしよう』

 パチン、とマッドハッターが指を鳴らす。

 途端、空間が歪み、先程の茶会の情景は変貌を遂げていく。

 プツンと意識が途切れる感覚を覚えた。

 瞬間、涼子の視界は微睡み、瞼が重くなっていく。

 やがて、涼子はマッドハッターと共に自らの夢の世界へと沈んでいった。




 ※




 世界がくるりと回転する。

 視点がガラリと変わっていく。

 この世界は、夢の世界。

 ここは、赤川涼子の深層心理。

『ここの君を殺せば、君は壊れてしまうよ』

 マッドハッターが嘲笑う。

 私はそれを無視して、心を落ち着かせる。

 絶対に覗かれてはいけないモノが、此処にはあると感じたからだ。

「昔から、自分とは別にもう一人自分が居るみたいだった」

 ふと無意識に呟いていた。

 世界は見渡す限り、黒い世界。その黒い世界には、まるでラクガキの様に赤い線が描かれている。形もない、これといった物もない。空っぽの世界。

 コレが私の深層心理の情景。

 成る程、と納得した。

 中学卒業前ならば、もう少し彩りに満ちていただろうか。今となっては無意味な議論である。

 今まであった全てを捨ててから、心が時々空虚になるのを感じていた。いや、正確には、必要性を感じなくなっていた。

『何もない。ただ暗いだけの世界。ココが君の世界か。意外につまらない精神だな』

 ケタケタとマッドハッターが嗤う。

 暗いだけだと?

 この魔人には、あの赤い線が見えないのか。

「壊す物がなくてガッカリした?」

『魔術師とは、存外俗物であり、欲望の権化であるのだが、君にはそういったモノが無いのか?』

 キリッとマッドハッターの操り糸が強く絞まる。どうやら、茶会のルールはまだ続いているらしい。

「あったけど、全部捨てたわ」

 我ながら、何て冷たい人間なのだろう。一般人としてではなく、魔術師となってからそれまでの財産は全て捨てられるのだから。この風景を目の当たりにした所、魔術師になって、私が得られたモノなど何もなかったようだ。

『キキキ、変なやつだなぁ。さて、ボクと一緒に君の精神核を探そうか。案内してくれ』

 マッドハッターが涼子を促す。

 意思とは、反対に身体は歩を進めていく。

 私の核--人格の形成されている元となったモノ。

 私が魔術師となった時に一抹の原点。

 誰もが持ち、誰もがそれを知らずに生涯を終える。

 人は自分が思っているより自分を良く知らない。

 ゆらり。

 暗闇で誰かの気配がする。

 アレは--。

『ん? どうした?』

 マッドハッターが突然動きを止めた私を訝しむ。どうやら、コイツには何も見えていないらしい。

「そう、あなたにはアレが見えないのか」

 表情の見えない赤い影。

 私も知らない、私に取り憑いた亡霊。

【------】

 言葉にならない言葉を紡ぐ謎の物体X。

 私の心理の筈なのに、私でさえも理解出来ない。

「壊せと言うのね」

 それを当然の様に考える。

 "自分を縛るモノを壊せ"。

 "自分が持っているモノを壊せ"。

 "自他全てを破壊し尽くせ"。

 それがにおける当然の真理なのだ。

『何をしている?』

 赤い線が脈動する。まるで生きている動物の様だ。ドクン、と心臓の鼓動が跳ねる様に世界が、空間が唸る様に動く。

『何……だ?』

 マッドハッターには、何が起こっているのか分からない。

 しかし、目の前の私の変化だけは理解出来たのだろう。

 魔力が膨れ上がる。

 魔術でも何でもない。

 ただの魔力の暴流。

 マッドハッターはただ私の精神を壊せれば良かったのだろう。

 だが、それをコイツは許さなかった。

【-------】

 アイツが嘲笑う。

 私を壊そうとする。

 そして、それは、隣で私を操るマッドハッターも例外ではない。

 簡単な勝負の話だ。

 私とマッドハッターは、アレより弱かった。

 普通ならば、マッドハッターは、精神の核を壊し、私を廃人にする筈だった。

 けど、アレは、こんな場所赤川涼子の精神世界まで出張して来て、破壊を尽くす。

 まるで、侵入者は私を含めて強制排除だ、と言わんばかりだ。

『キキキ、キ、キキ、君は何なんだ!?』

「残念だけど、アンタに答える義理はないわ」

 魔力の奔流で全身に力が漲る。しかし、その力は私の物ではない。

 気がつけば、アイツがマッドハッターの糸に触れていた。

 私の腰程の背丈しかないソレは、糸を一本一本丁寧に摘んでいる。どれだけ抵抗しても千切れなかった強固な筈の糸がいとも簡単に千切れていく。

 その様子に驚愕したのは、マッドハッターだった。

『な、何をしたー!』

 そんなの私だって分からない。今、この状況なんて全く理解出来ていないのだから。

 マッドハッターが私から怯える様に距離を取る。何度も何度も糸を放つが、悉くが消え去り、虚空に消えていく。

 今まで好き勝手されていたのを思い出し、ジリジリとマッドハッターに近づく事にする。

『くるな』と怯える様は、大変心地が良い。

 嗜虐心を煽られる。

 よし、少し虐めてあげましょう。

「早く此処から出さないと、この糸みたいにアンタを壊すわよ」

 出来る限り、ドスの効いた低い声でマッドハッターを脅す。どうやら生徒会長として、演技力だけは鍛えられたらしい。

『キキキキキキキキキィ、わ、わかった! わかったから、これ以上近寄らないでくれ!』

 これで少しスッキリした。

 マッドハッターは、慌ててパンパンと柏手を打つ。

 瞬間、空間が弾けて、私の大嫌いな世界が遠のいていく。

 ハッと気がつけば、そこは元の狂ったお茶会の席であった。

「オイ、帽子屋」

『ななな、なんでしょう?』

 勝ったな、とマッドハッターの態度を見て確信する。棚から牡丹餅であったが、この結果を招いたのは、マッドハッターだ。私は何もしていない。

 完全に戦意を喪失し、へりくだる態度のマッドハッター。その様子は、茶会の主催者とお客様の様相であるものの、立場の逆転は明白だった。

「もう一度、あの世界に行きたくなかったら、お客様の言う通りになさい」

 配役はこの世界では変えられない。それが夜歌の魔術だからだ。

 しかし、立場は変えられる。

 こうして、マッドハッターとの戦いに対して、勝利の確信を私は得たのであった。




 ※




 タン、と影を移動する。

 使い魔との影を繋いでいれば、この程度は造作もない。魔力と霊脈を繋ぎ、アーサーと繋がっていたパスを通って夜歌は瞬時にアーサーの影から姿を現す。

「アーサー、何を手こずっているのかしら」

 それは従僕への叱咤であり、夜歌の苛立ちでもあった。本当ならば、魔眼の方はもう手に入れているはずなのに、アーサーがいつまで経っても戻って来ない事に業を煮やした夜歌は自ら様子を見に来たのだ。

「申し訳ございません、ヨルカ様。アリマの奴が存外厄介でして」

「アリマ……ね。随分と気に入ってしまったみたいだけど、遊んでいるわけではないわね?」

 この騎士は、気に入った人間を固有名詞で呼ぶクセがある。それは、生前のクセなのか。

 夜歌は、少し逡巡し、件の有馬蒼介という人物の話をアーサーから聞く。

「……成る程。信じ難いけれど、貴方が言うなら間違いないわね」

 魔眼の力は夜歌だって分かっていた。しかし、ただ見えるだけの人間にアーサーが遅れをとる訳がないのだ。

 奇妙な歩法による回避に加えて、小太刀による受け流し。いよいよ普通の一般人ではないのだろう、という考えが夜歌の思考によぎる。

「さて、隠れていても無駄なのだけど」

「どうするのですか?」

「隠れた鼠を探し出すのは、この子の仕事よ」


 --〈What road do I take? Well where are you going? I don't know. Then it doesn't matter. If you don't know where you are going, any road will get you there.〉


「--来なさい〈猫のない嘲笑チェシャ猫〉」

 夜歌の影が揺らいでいく。

 ポコンと影が弾けて、形あるモノが出来上がった。それは、不気味に嗤う猫の姿。特徴的な三日月形の口、夜目のように瞳孔が開いた顔。少し霞んだ灰色をした毛並みの猫である。

『お呼びですかい? マスター』

「ええ、探し物は得意でしょう?」

『ニャニャニャ、お任せあれ』

 チェシャ猫が特徴的に笑って、トンと胸を叩く。

『どちらに行ってもという結果は変わらないのにゃ。だから、吾輩が行く道が近道にゃ』

 そう自信満々に言うと、チェシャ猫は二足歩行で歩き出す。

 --そうやって歩くのか……、とアーサーは内心突っ込んだ。

『おい、そこの鉄野郎。テメェ今吾輩を笑ったにゃ?』

「てつ--っ!? 貴様、猫の分際でオレに喧嘩売る気か?」

『ちょびーっとマスターに気に入られているからって調子に乗るにゃよ。吾輩の方がマスターのお役に立てるのにゃ』

 チェシャ猫の嘲笑にアーサーを纏う魔力が逆立つ。怒っているのだろう。

 見かねた夜歌は、はぁと大きく溜息をつき、パンと手を叩く。

「喧嘩はやめなさい。チェシャ猫、アナタは仕事を果たしなさい」

「も、申し訳ございません」

『吾輩、悪くないにゃ』

 アーサーはバッと頭を垂れ、チェシャ猫は罰が悪そうにペロペロとざらついた舌で毛繕いをする。

 夜歌の使い魔達は、基本忠実なのだが、力が強過ぎるせいで強い自我を持って生まれてしまっている。

「チェシャ猫、早くなさい」

 夜歌の催促に、チェシャ猫は、『わかりました』としおらしく一歩を踏み出す。

『--〈何処に行けば良いかって? そんな事はどうでも良い。吾輩が吾輩の導く結末。吾輩が知る近道。ほら、見てごらん。カツン、カツン--〉』

 魔力の膨張。

 チェシャ猫という使い魔による魔術行使が実行される。

 チェシャ猫の一歩一歩が魔力の波紋を生み出して、辺り一面が波打っている。

『〈--カツン、カツン--〉ほぅら、見つけたにゃ』

 夜歌はニヤリと微笑う。

「良くやったわね、チェシャ猫」

 魔術の結果。

 チェシャ猫が居た場所にそこに居ないはずの有馬蒼介が居る。

 存在の入れ替え。

 チェシャ猫という使い魔は、探し物や道案内に最適な猫である。その効果は【結果だけを引き寄せる】というモノがベースとなっている。探し物であれば、その対象をチェシャ猫の居場所に引き寄せ、道案内であれば、目的へ引き寄せる。そこに過程は関係ない。

「……何がどうなっているんだ?」

 状況が全く掴めないまま、蒼介は、チェシャ猫の能力により、夜歌とアーサーの元に呼び出された。

 状況は把握出来ないながらも事態の把握は、何となく出来た。

「これは不味いのでは?」

 蒼介の顔が強張る。

「その通りね」

 夜歌はニコリと微笑する。

「さらばだ、アリマよ」

 アーサーは大剣を振り翳す。

 勝負はここに決した。

 避けようも逃げようもない距離。完全に追い詰められている。将棋なら詰み、チェスならチェックメイト。

 有馬蒼介は月城夜歌に完全敗北した。



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