第四章 緋色(ひいろ)の記憶
第22話
翌日、旬果は暗い気持ちで、皇城内の瑛景の私室を訪ねた。
私室に近づこうとすると、女官からやんわりと止められた。
「ただ今、陛下はお話中でございます」
「ああ、先客なのね……」
しばらく待っていると、私室から出て来たのは体格の良い男だった。
年齢は泰風とそれほど変わらないだろうか。
武官の袍姿で、腰に剣を佩いている、凛々しい眉の青年である。
旬果を一瞥することなく、去って行く。
そして腰に巻いた革帯には剣の他にも、将軍としての地位を示す宝珠を入れた小袋を下げている。それで男が将軍であると分かった。
男を見送った後、旬果は女官に聞く。
「今の方は?」
「錦衣衛の洪仁傑将軍でございます」
「そう……。ありがとう」
(……あれが、洪周のお兄さん)
深窓の令嬢然とした洪周とは、似ても似つかない。
洪周のことを考えると、胸の奥が切なく疼く。
旬果は女官に促され、部屋に入る。
寝椅子に腰掛けていた瑛景は、旬果を見るなり微笑んだ。
「姉上。ようこそいらっしゃいました」
「……昨日のことは知ってる?」
「後宮で大立ち回りを演じたとか……」
「まさか! 信じられない要求を断って、制止を振り切っただけよ」
「廊下で倒れられていた、というのは?」
旬果は肩をすくめた。
「……それは本当。でも大立ち回りだなんて言われる筋合いはないわ。嫌なことは嫌だって言っただけだし……」
「ふふ。後宮では十二分に、それだけでも大立ち回りと言われますよ」
旬果は今日ばかりはさすがに、瑛景に大して申し訳ない気持ちで一杯だった。
「瑛景、ごめん……。もっと後宮に馴染まなきゃいけないのに、皇太后陛下に嫌われたよね?」
瑛景は苦笑する。
「まあ、好かれはしませんね」
「ごめんっ!」
旬果は潔く謝った。
瑛景はきょとんとした。
「何を謝られているのですか?」
「私のせいで、迷惑かけちゃったでしょ?」
「問題が全くないと言えば嘘にはなりますが、それほど深刻に受け止めるようなことではありませんよ」
「ほ、本当に?」
「母上は大層ご立腹でしたが、そういうのも面白いですから、と宥めておきましたから」
「……それ、全然宥められてないと思うけど」
「そうですか?」
瑛景のあっけらかんとした態度を見ていると、眠りが浅くなるほど悩んでいたことが阿呆らしく思えてくる。
瑛景は笑み混じりに告げる。
「むしろ昨日のことは、姉上の悪女らしさを引き立てたと思いますよ。女官に無理難題を押しつけ叱責するだけじゃない、皇太后にもたてつく稀代の悪女、と……」
「全然嬉しくない!」
「しかし姉上にはそうなって頂くつもりなんですから、怪我の功名ですよ」
旬果は小さく溜息をつく。
「……まあ、問題がなかったのなら良かったわ」
「間違っても、悪びれないで下さいね。何が悪かったの、という態度が望ましいです」
旬果はうんざりしながら頷く。
「……努力する」
「お願いします」
旬果は話を変える。
「――ところで、さっきの人だけど……」
「さっき?」
「洪仁傑将軍」
瑛景は、「ああ」と相槌を打った。
「将軍とお知り合いですか?」
「お知り合いって……洪周のお兄さんでしょ?」
「そうだったのですか」
「……洪周は、あんたの皇后候補の一人なのよ?」
「どうでも良いことです。どうせ皇后は姉上に決まりなのですから」
と、旬果の微妙な表情に、瑛景が気付く。
「姉上。どうかされましたか?」
「私はどうして、都を離れることになったの?」
瑛景は、怪訝な表情をする。
「ご存じないのですか?」
「……実は、ここにいた時の記憶がほとんどないのよ」
瑛景は、首を小さく横に振った。
「申し訳ありません」
「教えてくれないの? 私はあんたの望みを精一杯、叶えようと奮闘してるっていうのに」
「そうではありません。教えないのではなく、知らないのです。姉上のことに関して、皆が触れないようにしているようで……。普段はおしゃべり雀な女官たちも、口を噤んでいるようでしたし」
「誰も知らないの?」
「宮女の入れ替えも激しく、当時を知る者はほとんど残っておりません」
「……そう」
旬果は弟の部屋を後にした。
皇城の外では、泰風が待っていてくれた。
「いかがでしたか?」
旬果は、瑛景との会話をかいつまんで話す。
「大きな問題はなさそう。その意気でって応援される始末だったし」
泰風は苦笑する。
「記憶のことについてはいかがでしたか?」
「駄目みたい。当時のことを知ってる女官も、いないみたいで……」
「……旬果様」
心配そうに見つめる泰風を心配させまいと、旬果は笑って見せる。
「行きましょう。今日は玄白を待たせられないから」
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