第15話

 さんざめく笑い声が、後宮に響く。

 旬果は再び、劉麗から誘われて後宮に来ていた。

 でここと、劉麗が言う。

「そうだ。旬果様。今朝は皇帝陛下に会われたんですよね。陛下のご機嫌は、いかがですか?」

「とても宜しいようでした……」

「あら、それは素晴らしいです! 陛下はとても素晴らしいお方でいらっしゃって、教養豊かで……ねぇ、慧星様」

「全くその通りですわっ」

 この間の腹黒さなど微塵も見せず、旬果に笑顔を向けるのはちびっ子こと、康慧星。

 助言をしてくれた洪周はm今日もひっそりと目立たない。

 劉麗がお菓子を進める。

「陛下には何とお声をかけられたんですか?」

「暮らしのことを聞かれました。不足はないかと仰せになりますので、満ち足りておりますとお答え致しました」

 でこは笑顔で平然と嫌味を言う。心配する振りをしつつ、これなのだから陰険さが際立つ。

 慧星が言う。

「そうですわよね。村出身ですもの。むしろ物が溢れすぎて、困っているんでなくて?」

「……そうですね」

 と、劉麗が手を叩く。

「そうだわ。実はね、旬果への贈り物があるのよ」

 劉麗が合図をすれば、女官が恭しく何かを運んでくる。

 旬果はそれを見た。

「服、ですか?」

「そうよ。あなたに似合うと良いんだけれど……。お近づきの印よ」

「そ、そんな……。物を戴くなんて……」

「良いの。是非、受け取って」

「で、でも」

 すると、ちびっ子が言う。

「あら、劉麗様のお気持ちを、無下になさるんですの?」

「いえっ……。では、ありがたく頂きます」

 それは牡丹の花のように鮮やかな色をした、深衣である。

 旬果はその時ばかりは、本心から喜んだ。

「とても素敵ですね!」

 劉麗が言う。

「旬果様。是非、袖を通して見せて下さいませ。あなたの綺麗な御髪おぐしによく似合うはずだわ」

「いえ、そんな」

「お願い。見せて。さ、私が着るのを手伝うから」

「……わ、分かりました」

 劉麗に手伝ってもらい、右腕は難なく入った。そして左袖に腕を通そうとするのだが。

(あれ?)

 右袖の時にはするりと入ったはずなのに、左袖が全然入ってくれない。

 劉麗が心配そうに言う。

「どうなさったの。そこに腕を入れて」

「わ、分かってるんですが……」

(あれ? あれ?)

 劉麗の手前、早く着なければと気ばかりが急いて、少し乱暴に腕を動かしたその時。

 ビリリッ……と思いっきり袖が破れてしまう。

 劉麗が声を上げる。

「まあ!」

 それを見ていたちびっ子まで、両手で口を押さえ唖然とする。

 見事に左袖が破れ、左腕が空めがけ突きだしてしまっていた。

「あ!」

 ちびっ子が言う。

「旬果様! あなた、何ということをなさりますの! 折角の劉麗様からのご厚意を……!」

 旬果は頭が混乱し、ただただ平謝りする他ない。

「劉麗様、ごめんなさい! 私、こんなことをするつもりでは……」

 ちびっ子は憤る。

「これだから田舎娘は、嫌なんですの。服も満足に着られないなんて……」

「ご、ごめんなさい。弁償を……」

「あなたのような方が弁償できる金額と、お思いなのですか!?」

「……そ、それは」

 旬果は言葉に詰まる。

 劉麗はゆっくりと首を横に振った。

「慧星様。もう良いんですの……」

「で、ですが、劉麗様!」

「……大丈夫。服などすぐに繕えばどうにでもなりますもの。……ごめんなさい、旬果様。私、今日の所は失礼致しますね」

 ちびっ子が、劉麗に寄り添う。

「劉麗様、お気を確かに!」

「あ、あの……」

 旬果も傍に寄ろうとするのだが、思いっきり慧星に威嚇されてしまう。

「衣服もまともに着られない方が、どんな介抱が出来ますのっ!?」

 そこまで言われては、諦めるしかない。

 旬果は、今にも消えてしまいたい気持ちを抱きながら見送った。

(あああ! 何てことをしちゃったんだろ。いくら相手が陰険だからって、せっかくの頂き物にあんなことをしてしまうなんて!)

 旬果が頭を抱えてうんうん唸っていると、洪周が平然と言う。

「思い悩む必要はないわ」

「え……?」

「あの服の左腕を通す袖は、元々小さめに作ってあるの。だから誰が着ようとしても、ああなるの。そして服を破った相手に、無駄な罪悪感を植え付ける……。本当に陰険よね」

「……洪周もされたの?」

「私はそこまでされるほど警戒されてないもの。でも他の人が同じ事をされてるのは、見たことはあるわ」

「そ、その人はどうなったの?」

「皇后候補を辞退したわ。もちろん服のこと以外にも、散々嫌がらせをされてたんだけどね」

「……でもどうして、私に? だって私は貴族でもないのに……」

「今日初めて陛下がお会いされたのが、あなただからじゃないかしら?」

 旬果は唖然としてしまう。

「そ、そんなことで!?」

 洪周は表情を曇らせる。

「だから早く村に帰りなさいと言ったのに……。ここに良識はないの。目を付けられたわよ、あなた」

 旬果は顔を顰め、劉麗たちが去って行った方を見る。

「……あいつら、やっぱり屑ね」

 旬果が思わず毒づけば、ぷっと洪周は小さく吹き出した。

 旬果は洪周と向き直る。

「私、今変なこと言った?」

 これまで表情に乏しかった洪周が、頬を緩めている。

 その姿は、可憐という言葉が相応しかった。

 洪周は言う。

「……いいえ。むしろ、その通りだと思ったの。屑、ね。さすがは庶民の方……。あ、今のは馬鹿にしたんじゃないのよ。言葉が伸び伸びしてて良いわ」

「そうかな」

「私はそう思う」

「私は洪周の笑顔見られて、良かった」

「そう?」

「だって初めて会った時から、ずっと黙りこくってたから……」

「それはそうよ。喋りすぎたら、目をつけられるでしょう?」

「頭良いわね。あーあ……。私も洪周みたいに、最初から大人しく振る舞っておくんだった」

「違うわ。うちは貴族と言っても大したことないから、そもそも眼中にないのよ」

「ふうん……。ね、私たち友達になれそうじゃない?」

 洪周は肩をすくめた。

「どうかしら」

「貴族と庶民じゃ、駄目?」

 洪周は苦笑する。

「そうじゃない。私と一緒にいても、あなたには何の得もないわよ? うちには大きな後ろ盾もないし」

「友達にはなりたいから、なるんでしょ。損得とか関係無いから。貴族では得がある人としか繋がらないの?」

「……まあね」

「そんなの窮屈すぎるよ。友達になろう。利害無しで」

 洪周は微笑んだ。

「良いわ」

「決まりっ!」

 旬果が微笑めば、洪周も口元を緩めた。


 旬果が後宮から白鹿伝に戻ると、玄白が主人顔をして席にふんぞり返り、茶を飲んでいた。

 その姿を泰風と、菜鈴が呆れ顔で見ていた。

 旬果は眉を顰めた。

「随分と偉そうなお客様ね」

 泰風が言う。

「申し訳ありません」

「良いのよ」

 菜鈴が、玄白を睨む。

「あの不貞不貞しい奴を陛下にどうにかするよう、言上して下さいませっ」

 初めて会った時には惚れ惚れと玄白を見ていたくせに、お茶くみ扱いされたのがよっぽど腹に据えかねたらしい。

 玄白がじろりと見てくる。

「ったく。人を待たせやがって……」

 旬果は言う。

「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。後宮で友達と話してたんだから」

 玄白が鼻で笑う。

「友達だと? ふざけやがって。そんな物、魑魅魍魎の後宮で出来る訳ないだろっ」

 泰風が見かねて言う。

「いい加減にしろ。公主様を前にしているんだぞ」

 泰風は剣の鞘で玄白を無理矢理押し出して、椅子から立ち上がらせる。

 旬果は言う。

「それが出来たのよ」

 泰風は尋ねる。

「どんな方ですか?」

「洪周っていうの。最初無口だったんだけど、今日、私が嫌がらせをされたのがきっかけで意気投合して……」

 すると、泰風の顔色が変わった。

「誰に何をされたのですかっ!」

「お、落ち着いてよ。そんな怒ることじゃ……」

「旬果様こそ、どうしてそのように落ち着かれているんですか。すぐに陛下に言上し、その者の処罰を……」

「無理よ。相手は皇太后陛下の姪御なのよ?」

「……左様ですか」

 泰風は言うや、出て行こうとする。旬果は慌てて回り込み、行く手を塞いだ。

「どこ行くのっ!」

「ご安心を。旬果様にご迷惑はおかけしません。女如き、少し脅しつければ……」

「安心出来ないから! 何もしなくても大丈夫だからっ!」

「何故ですかっ!」

「相手は子どもみたいな馬鹿なことをして、得意がってるだけだから。いちいち仕返しなんてしたら切りが無いわっ」

 泰風は怖い顔をするが、旬果も負けじとその目を見返す。

 しばし睨み合えば、折れたのは泰風だった。

「……旬果様は、お優しすぎます……」

 旬果は、泰風の腕を優しく叩く。

「……泰風が私の為に怒ってくれただけで十分だから。ね?」

「取り乱して申し訳ございません」

「良いの」

 良かったと胸を撫で下ろすと、「おい」と玄白が声をかけてきた。

「聞きたいことがある」

「何?」

「知り合った奴、洪周と言ったか?」

「そうだけど……知り合い?」

「同年代に、洪仁傑こうじんけつという者がいる」

「洪と言っても、他にもいるでしょう」

「いや。皇后候補として後宮に上がるくらいだから、相応しい家でなければならないだろう。洪仁傑の家は高祖に仕えた累代の功臣の家系……。家柄は十分だ」

 旬果は納得する。玄白が言うからには間違いはないだろう。

「でも本人はすごい遠慮しがちだったけど? 自分の家のことも大したことがないって……。謙遜?」

「いいや、本音だろう。かつての功臣といえども、あそこは名ばかりで没落寸前だからな……」

 泰風が口を開く。

「仁傑殿は私も知っております。錦衣衛きんいえいの将軍です」

 錦衣衛は皇帝の直轄――禁軍だ。

 玄白が言う。

「将軍と言っても,家柄だけで選ばれただけの名ばかりさ。だからこそここいらで、妹を皇后にして一発逆転を狙っているんだろう……」

 話を聞き、旬果は貴族世界の苦労に思いを馳せる。

「大変なのね」

 玄白はククク……と、嫌みったらしい笑みを漏らした。

「全くだな。お前みたいに庶民ぶっている、公主に騙されるくらいだから」

「人聞きの悪いこと言わないで。隠したくって隠してるんじゃないんだからっ」

「それより戻って来たんだったら、授業を始めるぞ。待たせられた分、厳しくするから覚悟しろ」

「はいはい」

 旬果は小さく溜息をついて、肩をすくめた。

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