第13話

 変な時間に寝たせいで、中途半端な時間に目覚めてしまった。

 窓の向こうは真っ暗だった。

(喉、かわいた……)

 旬果は寝台から下りると、部屋を出た。

(水、水……ちょっと。ここ、水甕の一つもないの?)

 水を求めてうろうろしていると、

「旬果様?」

「っ!?」

 突然声をかけられ、旬果は心臓が止まるほど驚いて振り返った。

 泰風だった。

「何をされているんですか?」

「あ、起こしちゃった?」

「いえ。寝ずの番をしておりましたので」

「喉が渇いちゃって」

「では、これを」

 泰風は両手で抱えられるくらいの壺から水を注ぎ、器を渡してくれる。

「あー、それ、女官が半泣きになって持って来てくれた……」

 泰風は苦笑する。

「そうです」

「ありがと」

 ぐっと一気飲みすると、乾いた身体が潤った。

「さすがは湧き水ね。美味しい。変な噂が流れるのは嫌だけど、この水は菜鈴に感謝ね」

 泰風は微笑した。

「おかわりはいかがですか?」

「ちょうだい」

 そしてもう一杯水を飲むと、ようやく人心地がついた。

「泰風。いつも寝ずの番をしてくれてたのね。ありがと」

「これが私の務めですので」

 旬果は伸びをすると立ち上がった。

 泰風も倣う。

「どちらへ?」

「外の空気が吸いたくって」

「ではお供します」

「別に良いのに」

「私がお側についていたいので……」

「そう」

 旬果は外に出る。春の夜風は冷えるが、心地よい。空には満点の星が輝く。

 しかし村にいた頃より、月や星が遠く感じる。

 周りに目を向けると、ここが故郷とは違うのだと改めて思う。

 張り巡らされた、絶壁のような城壁が息苦しい。

 辺りには篝火が立てられ、兵士たちによって厳重に守られていた。しかし見方を変えれば、逃げぬよう監視をされているようにも感じた。

(これじゃあ、まるで籠の鳥ね)

 そんなうんざりした心の中を読んだかのように、泰風が言う。

「――もっと月に近づきましょうか」

「え?」

「外に出れば丘があります。そこからであれば、もっと月を近くに見られます」

 泰風を振り仰いだ旬果は、肩をすくめた。

「もしそれが出来るんだったら嬉しいけど……無理でしょう? 兵士がはいそうですかって通してくれると思う?」

 しかし泰風は言う。

「もし旬果様が、本気で望むと仰られるのならば……」

 旬果はちょっと冗談めかして言う。

「そうね。もし本当にそれが出来るんだったら……」

 すると、旬果は「ご無礼を」と言うや、旬果の背と膝裏に手を差し入れるや、横抱きにした。

「ひゃっ!?」

「しっかりと捕まっていて下さい!」

 旬果は、言われた通りに泰風の首に腕を回して、しがみついた。衣服ごしに彼の引き締まった体躯と、温もりを感じるや否や、泰風は跳躍していた。

 ぐんぐん旬果の視界が開け、雲が月が星が手を伸ばせば掴めてしまいそうなくらい近づく。まるで仙術でも使ったかのような跳躍で、城壁を軽々と越えたかと思うや、たちまち城外に出られた。

 草原を駆ける、泰風の陰が長く尾を引く。

 そして旬果の髪を吹き散らしていた風が、不意にやんだ。

 旬果が辺りを窺えば、そこは丘だった。

「失礼いたしました」

 泰風はそっと、旬果を下ろした。

「嘘、みたい……」

 遙か向こうに、ついさっきまでいたはずの華京陽天府が見えた。

「今のって、魁夷の力?」

「はい」

「やっぱり魁夷は凄いのね」

 旬果は空を見る。泰風の言う通り、さっきよりもずっと月が近くに見えた。

 何より城壁に遮られることなく、どこまでも草原が広がっている光景が見られて、気持ち良い。

 風が吹けば、まるで草原が波打つかのように、サァァァ……と音をたてて靡く。

 しばらくそれに見入っていた旬果は、泰風を見る。

「無理させちゃって、ごめんね」

「旬果様が喜んで下されば本望です。たとえ後でこのことが問題になったとしても、責任は私にあります。旬果様は何も悩まれることは……」

 旬果は首を小さく振った。

「そうじゃなくって、ここまで私に尽くしてくれるのは、それだけ私と泰風が近しい関係にあったからなんでしょ? 私のことを遠巻きにしていただけって言ってたけど……。ごめんね。何も覚えてなくって……」

「いいえ。旬果様が思い煩う必要は、ないのです。記憶がなくとも、私がお仕えするのは旬果様、ただお一人であると心に決めているのですから……」

 と、旬果はそこで、寒さで身震いしてしまう。

 泰風は「帰りましょう」と促すが、旬果は首を横に振った。

「もう少しだけ、いさせて」

 旬果は、街の灯を記憶に留めようと、じっと見つめた。

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