第10話

 泰風は、そそくさと歩き去ろうとする玄白の前を遮った。

「待て」

 玄白は小さく溜息をつく。

「お前が言っていた、慕う人があんな無学の女だったとは……。百年の恋も醒めたんじゃないか?」

 泰風はじっと玄白を見つめる。

「関係ない」

 玄白は鼻で笑った。

「あんな女のどこが良い?」

「旬果様は国の為に、これまでの安らかな暮らしをお捨てになられたんだぞ」

「で、お前への想いは? あの様子じゃ、お前のことなんて覚えていないだろ。だから無駄に期待などするなって言ったんだ。ああいう連中はその場限りの感情で、周りの人生を巻き込む。あの女も例外じゃ――」

「旬果様は記憶を無くしておられる」

 玄白は形の良い眉を顰めた。

「何だと? 確かか」

「八歳までの記憶がない、と」

 玄白は、泰風への愛おしさで思わず抱きしめてしまう。泰風は剣の腕前は見事だが、人を疑うことを知らない純真さを持っている。

「可愛い奴め。そんな嘘を信じたのか」

 泰風は眉間に皺を刻んだ。

「嘘だと言うのか?」

「面倒事を回避したかったんだろ。あいつらは軽薄で――」

 泰風は声を低くする。

「それ以上、旬果様を侮辱すれば、お前といえども許さないぞっ」

 泰風の怒りを燃やした眼差しが、脅しで言っているのではないと教えていた。

 玄白は表情を曇らせた。

「どうして、そこまであの女に尽くそうとするんだ」

「俺はあの時、旬果様に助けられていられなければ、今頃どうなっていたか……。今の俺があるのは全て、旬果様のお陰だ。理由はそれで十分だろう。」

「だからそれまでの地位を捨ててまで、あの女の元へ走ったのか?」

「そうだ」

 玄白は目の前の、愚直で後先を考えない親友への怒りを覚えた。

「……馬鹿め。魁夷でお前ほど恵まれた奴などいないんだぞっ」

 しかし泰風も負けてはいない。

「将来がありながら、それを捨ててふらふらしてる不良貴族に言われる筋合いはない。いいか。旬果様に無礼な真似はするな。旬果様が許しても、俺が許さない。話はそれだけだ」

 遠ざかる泰風の背を見ながら、全く、と玄白は独りごちた。


 夜が更けても、旬果の私室の蝋燭の火は消えない。

 泰風が蝋燭を替えに顔を出すと、旬果は熱心に本を繰っていた。

 玄白からふっかけられた課題に、ずっと取り組んでいる。

 分からない文字や言葉は菜鈴や泰風に聞きつつ、眩暈を覚えるほど夥しい文字の海に潜り続けていた。

 泰風は蝋燭を替え、お茶を出す。

「少し休まれてはいかがですか? 根を詰めすぎるとお体に障ります」

 旬果は本を捲る手を休め、微笑んだ。

「ありがと。これ、お茶よね。すごい! これだけでも嬉しい。いっつも白湯だったし」

 泰風は旬果の無垢な笑顔に、口元を緩めた。

「そうでしたか」

 旬果は器に口を付け、「良い香りね」と呟く。

「あ、菜鈴は? さっきまではあれこれと教えてくれてたんだけど……」

 さすがは才女と言うべきか。難しい漢字やものの言い回しや故事成語、さらに有職故実によく精通した。

 気付かぬ内に静かになったと思えば、その姿がどこにもない。

 泰風が言う。

「眠っておりましたので、隣の部屋へ移しました」

「そっか。ありがと」

「――旬果様。玄白は無理難題を押しつけて、楽しんでいるのです」

「良いのよ。玄白の言う通り、私はこの国のことを何も知らないんだから。ちゃんと知らなくちゃ、瑛景を助けられないじゃない」

「しかし」

「ふふ。実はね、裏技を見つけちゃったんだ」

「裏技、ですか?」

「見てみて」

 旬果は冊子を差し出してくる。受け取った泰風はそれを色々な方向から眺め、開いて見たりするが、旬果が何を言いたいのかは分からなかった。

「これが……どうされたのですか?」

「分からない? その本、何カ所かよれてない?」

 確かに言われてみれば、その通りだが。

「それが何か?」

「この本、たくさんの人が手に取ってるのよ。で、その人たちがよく開く部分はよれてたり、皺があったり、手垢で汚れてるのよ。そこをとりあえず拾い読みすれば、何度も読み返してる大切な場所が分かるでしょ。これをすれば、ひとまず重要な所は逃さないし、時間の短縮にもなるわ」

「なるほど。確かに仰る通りですね」

 でしょ、と旬果は屈託なく笑う。

 その笑みに、どうしようもなく泰風の心は、揺さぶられた。

 そんな考えを振り払い、泰風は言う。

「玄白は優秀な奴ですが、底意地が悪く……。しかし決して悪人ではありません」

「分かってる。泰風の親友なんでしょう。玄白も魁夷なの?」

「いいえ。あいつの出身の簫家は甲門で……」

「甲門……それ、さっき読んだ。待って。えっと……」旬果は本を繰り、「見つけた」と声を上げた。

「いわゆる権門って言われる高級貴族よね。門下省なんかに入るはずよね。何たって、国子監の首席だもん」

「色々あったようで、今は特に職には就いていないようです」

「なるほど。偉い人には偉い人の悩みがあるのね……」

「かもしれません」

 旬果は、本をぺらぺら捲る。

「瑛景によると、私って古今の書物に興味を示し、幼いながら感情豊かな詩を詠み上げたて父上が言ってたらしいわ。さすがに眉唾よね。あはは……」

 泰風の胸はかすかに痛んだ。

「いえ……。旬果様の英明さは、宮廷でも有名でございました。陛下は何度となく旬果様が男児であれば、瑛国の将来は安泰だと仰せあそばされたと聞いております」

「……照れくさいなぁ。褒めても何もしてあげられないわよ?」

 泰風は真摯な眼差しで言う。

「お側に置かせて頂くだけで、十分でございます」

「そう。じゃ、こき使うわよ? 私、悪女らしいから」

 泰風は大きく頷いた。

「もちろんでございます。軍のことであれば、私も多少はお助けできるかと存じます」

「うちの父……えっと、義理の父は禁軍の将軍だったらしいんだけど……知ってる?」

「存じております。王義史様は禁軍の将軍の中でも、人徳のあるお方でしたから」

「そうなんだ。私はあまり軍の話は、教えてもらえなかったから。そっかそっか。そんなにすごい人だったのかぁ」

 義父の話を聞けて、旬果は嬉しそうだった。

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