第9話
不満を胸に抱えた旬果は、かなりの疲労感を覚えながら白鹿殿に戻る。
付き従う泰風は言う。
「お茶を用意します」
すると、菜鈴が反駁する。
「旬果様のお世話は、私がするようにと言われています。あなたは退出を……」
「お前に従う謂われはない」
「あんたがいると、旬果様が気持ち良くお休みになられないのよっ!」
「お前がわめかなきゃ、問題ない」
「何ですって! 犬の分際で!」
「黙れ、小娘。お前に旬果様が守れるかっ!」
見かねた旬果は、二人の間に割って入った。
「それ以上、いがみ合うんだったら二人とも出て行きなさい!」
二人は旬果の剣幕に、はっとしてその場に傅く。
旬果は溜息をつく。
「……二人とも。そんなに畏まる必要はないから、立って。普通に話して」
二人はお互いに顔を見合わせつつ立ち上がったものの、気まずさは拭えないようで伏し目がちになる。
そんな二人を前に、旬果は腕を組んだ。
「菜鈴」
菜鈴の小さな身体がぴくんと動き、恐る恐る顔を上げた。
「……は、はい」
「この間も泰風のことを、犬って呼んでたわよね。どういう意味?」
泰風が何かを言おうとするが、旬果は手で制した。
「菜鈴に聞いてるから。――で、どうなの?」
菜鈴は観念して言う。
「この男は、犬の魁夷なのです!」
泰風がむっとする。
「犬じゃない。狼だ」
「ふん、一緒でしょ?」
「全然、違うっ」
「所詮は奴隷なんだから、一緒――」
「やめなさい!」
旬果の鋭い声に、菜鈴が口を噤んだ。
「菜鈴。これ以降、泰風を犬呼ばわりするのは駄目よ。もし今度、私がそれを耳にしたら、あなたを外すわ」
「お世話せよとは、陛下の命令で……」
「では瑛景に言うわ。瑛景のことだから、すぐに許可するでしょうね」
菜鈴は戸惑う。
「ど、どうしてそこまで、こんな奴を庇われるんですか。魁夷にお情けなどっ!」
「魁夷であるとか、そうでないとか、そんなことはどうでも良いの。私が育った村の近くで、何人もの魁夷を見たわ。魁夷だということだけで服従を強いられたり、謂われのない暴力を受けたり、疎外されたり……。そういうのが、私は嫌なの。それだけ」
これで泰風が、他の兵士から遠巻きにされていた理由が分かった。
「菜鈴。分かった?」
菜鈴は唇を尖らせた。
「……はい」
「じゃ、話は以上!」
「旬果様、ありがとうございます」
泰風は無邪気な笑顔を見せる。
その笑顔にドキッとして、旬果はどう反応して良いか分からなくなって、ついっと目を逸らしてしまう。
それを誤魔化すように咳払いをして、泰風たちに背を見せる。
「所で瑛景が言っていたんだけど、教育役が来るらしいわね。心当たりはある?」
その時、「邪魔するぞーっ!」という声がかかり、無遠慮に扉が開けられた。
旬果は思わず身構える。
「何!?」
長身痩躯の男が入って来た。背丈は泰風より頭半分ほど、低いだろうか。
黒い頭巾に、女性と見紛うばかりの長い白髪を腰まで垂らし、白地に衿が黒という深衣をまとう。
顔立ちは、はっとするような美形。しかし整いすぎてどこか冷たさを感じさせ、全体的に気怠いような崩れた印象がある。
人様の家に来たという畏まった素振りなどなく、我が物顔という印象がしっくりくるような佇まい。
そして無遠慮に旬果を見たと思うや、
「お前がねえ……」
と呟く。
(お前?)
さっき会った皇太后と同じように、馬鹿にした響きだ。
それに対して真っ先に声をあげたのは、泰風だった。
「玄白。無礼だぞっ」
玄白、と呼ばれた青年は満面の笑みを見せたかと思うと、泰風に抱きついた。
「泰風! 最近、付き合いが悪いと思ったら、こんな所にいたのかっ!」
旬果に対しての第一声とは打って変わって、猫撫で声である。
泰風は、玄白を押しのけようと悪戦苦闘する。
「おい、離れろ!」
「全く、つれない奴だなぁ」
玄白は笑い、離れた。
咳払いした泰風は、長髪の男を紹介する。
「お見苦しいところを……。旬果様。この者が教育係の
旬果は、泰風と玄白とを見比べつつ尋ねる。
「……知り合い、なのよね?」
ニコニコしている玄白と打って変わって、泰風は疲れた顔をする。
「腐れ縁という奴です。玄白は性格に難はありますが、学識においては抜きんでた物を持ち、国子監を首席で出ておりますから」
玄白は泰風に寄りかかり、流し目を送る。
「そんなに褒めるなよ。照れるだろぉ?」
しかし泰風は無言で、玄白を雑に押しのける。
旬果は小首を傾げた。
「国子監って?」
すると玄白は、溜息を思いっきり漏らす。
「そんなことも知らないのか」
泰風が言う。
「貴族の男子が通う学校です。ここを卒業した者たちが、官吏になるのです」
「そんなものがあるのね……。私の村には塾があって、勉強を教えてもらったけど……」
玄白がぽつりと言う。
「山猿か」
旬果は怒りをぐっと堪え、玄白に言う。
「この国のことを教えて欲しいの」
「どこまで出来るかは望み薄だがな」
「そう言わないで、お願い。教えて」
「お前次第だ」
「どういうこと……?」
玄白は鼻で笑うと、外に向かって「おい」と呼びかける。
すると、女官たちが次々と本を抱えてきた。
あっという間に旬果の目の前に、本の山が幾つも出来る。
旬果は唖然としてしまう。
「これを全部、やるの?」
「こんなものは基礎だ。史書に思想書、地理志に列伝……全てに目を通せ」
「これ、全部!?」
「当たり前だ」
「それを教えるのが、あなたの仕事なんじゃ?」
「甘えるな。馬鹿」
「ばっ……!?」
「覚えるだけなのに、教えるもくそもあるか。全部一字一句覚えるのが理想だが、ひとまず全部に目を通せ。話はそれからだ」
泰風が眉を顰めた。
「おい。玄白。それじゃ話が違うだろ。お前ならば任せられると思ったからこそ、陛下に推薦したのに……」
「泰風。お前が俺に一任すると言ったんだぞ。文句を言うな。――で、どうする? やる気がないんだったら、これまでだ」
旬果は本の山と玄白とを見比べ、頷く。
「分かったわ」
物言いたげな泰風を、旬果は目で制する。
「確かに私は、この国のことを何も知らない。玄白の言う通り、基礎的なことを覚えるのに、教え方も何もない。だから読むわ」
玄白が嫌みったらしい笑みを浮かべる。
「ほう。泰風に良い格好がしたいのか?」
旬果は表情を曇らせる。
「何を言ってるか分からないけど、とにかくやるわ。でも一つだけ教えて。そこにある本の全てが同じくらい重要って訳じゃないでしょう。とりあえず優先順位くらいは教えて」
一切怯まない旬果を面白そうに眺めた玄白は、十冊ほど抜いて、「これだけは絶対に覚えろ」と言った。
何十冊という本が十冊に搾られた。
とは言え、これまで読んで来た絵本の類いとは大違いだ。文字で埋め尽くされている。
しかしやるしかない。
「分かったわ」
「では読み終えたら泰風に言え。その時にまた来る」
玄白はくるりと踵を返して、出て行った。
「申し訳ありません。あいつに言って聞かせますので」
泰風は言い置いて、玄白の後を追いかけていく。
旬果は椅子に腰を落とし、目の前の本の山を前に、ふぅと小さく溜息をつく。
「分かった……って言ったは良いけど、思った以上に大変よねー。ね、菜鈴。……菜鈴?」
菜鈴は、玄白が去って行った方をうっとりと眺め、
「……厳しい方ですけど、すごく格好良い方ですねぇ」
そんなことを宣う。
「そう?」
旬果の素っ気ない様子に、菜鈴は信じられないという顔をする。
「えええ! あの方の美しさが、分からないんですか!?」
「……そう言われても」
菜鈴はつまらなさそうな顔をして、そっぽを向いてしまう。
(都ではああいう嫌みったらしい美形が人気なのかな。私は泰風の方が好きだけど……)
そんな風に泰風のことを考えると、少し胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
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