第四章 四月十四日 -3
剣先を杖代わりによろよろと立ち上がりながら、奴は笑った。余裕のある時に見せたある種傲慢な笑みとは違う、引きつったような狂気の見える笑み。
「許すわけにはいかない……私を舐めたこと……後悔させてやる……」
「まさかあの男……まずい文也、すぐにそいつから刀を奪え!」
先輩の焦った声が、耳元で騒ぐ。
「そんなこと、急に言われたって……!」
奴の体と刀は一体化している。とっさに雷王を叩きつけ左腕をへし折ったが、再生にそう時間はかからないだろう。
「遅い……!」
奴はそのまま飛び退き……桜燐の下へと着地した。
「間抜けめ、私の勝ちだ耳神……! 我らの呪いを受け続けろおおおおお!」
絶叫と共に、奴の黒い刃が奴の喉元を貫いた。
二つに分かれた刃は穴を広げ、奴の胴と頭を切り離す。
奴の首から吹き出した黒い血が、大地へと……桜の幹へと降り注いだ。
「自殺、した……?」
「気を抜くんじゃないぞ、文也! 血を吸う桜の下で、自らの首をかっ裂いたってことは……!」
大地が震える。風もないのに、桜鱗の枝が蠢いていた。
まるで……喜びに打ち震えているかのように。
「……こっからが正念場だ」
影鬼の死体はドロドロの影になって溶け、桜鱗の根元へと染みこんでいく。完全に封印が終わっていない状態で、人間以上の生命力を持つ奴の命を、全て注ぎ込んだなら……変質し、活性化しても不思議ではない……!
「危険な状態です……耳神様、結界は」
「案ずるな、枝だろうと花びらだろうと、あたしの結界からは絶対に出さん……お前は自分のなすべきことに集中しろ、結界内の奴の動きまでは止められん」
「先輩、俺は……」
「言わんでもわかってるよ。お前が一番やりたいことをしろ、それが多分正解だ」
この場で俺がやりたいことなんて、そんなこと、ここに来た時から決まっていた。
「美咲。お前がアレを止めたいって思ってるなら……俺にもそれを手伝わせてくれ」
「……私が嫌だって言っても、兄さんはここを離れないでしょう?」
「なんだ、わかってるじゃないか」
進み出た美咲と並び立つ。俺達の意志を察知したのか、大地の震えが一旦収まった。
それもつかの間、桜の幹から湧き出る尋常ではない殺気に、思わず気圧されそうになる。
「奴の魔力を吸いきったな……文也、腹に力入れておけ」
枯れた桜についたつぼみが、急速に開花を始めた。影鬼の魔力を喰ったためか、その花の色は淡く、暗い。
一つ、また一つと殺意を帯びた花が咲き、咲き誇る桜から、意思を持っているかのように花びらが浮かび上がる。
常人ならばおそらく、見ただけで死に至るであろう、呪われた光景だった。
「美咲、大丈夫か?」
「心配ありません。あの桜に対する耐性なら、兄さんよりもずっと強いですから」
美咲が、着物の帯から丸く磨かれた綺麗な緑色の石を取り出した。翡翠……だろうか。
「それは?」
「母の……私の生みの親である、雪女の形見です。魔力を注ぎ込み、アレを封印するための媒体……」
握る手に力を込める美咲に反応して、手の中の翡翠はぼんやりを光を帯びていた。
「今の桜鱗は、封印されかけたものを、鬼の怨念で無理やり動かし、こじ開けようと暴走している状態です。更に血を吸って活性化する前に、呪いの核を覆っている影を取り除き……いえ、影ごとだろうと、私の魔力を全て注いだこの石を、直接核に叩き込めば封印は完了し、暴走も止まるはずです」
「……その、核の場所ってのは」
美咲は黙って桜鱗を見据える。その視線の先に……朽ちかけた桜の幹の奥に、影のすき間から赤黒い光が一瞬見えるのを確認した。
「なるほどな……なら、お前がアレに近づけるように守るのが、俺のするべきことってわけだ」
「正気ですか? 無茶ですよ、花の数が多すぎます。いくら兄さんの回復能力が優れているとはいえ……」
「だったらどうする。お前一人で突っ込んで、無事で済むってわけでもないんだろ? 妹の前でくらい、かっこつけさせてくれ」
「ですが……私だって、ずっとあなたの妹だったんです。兄さんが……私をかばって死ぬ姿なんて、見たくはありません」
議論は平行線だった。俺達の命を奪おうと、黒い花びらが周囲を取り巻く。あまり、時間は無いようだった。
「なんだ、人手が必要か?」
声とともに、透明な手のひらが空中で花びらを薙ぎ払う。手のひらの付け根は、地面に転がったペットボトルにつながっていた。
「霧島……」
人払いはしているはずだが、先輩が結界内に入れたのだろう。三日前と同様、霧島は魔法使いの正装に身を包んでいた。
「借りは返さないと気がすまないタチでな。嫌だって言われても、混ざらせてもらうぜ」
「……邪魔はするなよ。美咲に手を出したら、先にお前から殺すからな」
「心配すんなよブンヤ、アレを対処すれば事件を止められるなら、なんとかするのが俺の仕事だ。この期に及んで、わざわざ民間人を見捨てて耳神と敵対してまで、野良妖怪をどうこうする気はねえよ」
相変わらず好きにはなれない笑い方だったが、今はそれが妙に心強かった。
「あんたも異存はないな、お嬢ちゃん?」
「……即席のチームですが……時間もありませんし、やるしかありませんね」
一瞬諦めたような顔でため息をついた後、美咲は覚悟を決めた顔でそう言った。
「心配するな、美咲。俺は死なない」
そっと、美咲の頭を撫でた。
「それとな、妹だった、なんて言うな。お前は今も、これからもずっと、俺の妹だ」
「兄さん……ええ、そうでしたね」
「まったく、お似合いの真性シスコンバカにブラコン女だよ、お前らは……何か出てくるぜ、いちゃつくのはその辺にしときな」
地中から、黒い「根」が突き出してきた……のだと、思う。
黒い大地から伸びる、鋭利な触手のようなそれらは……しばらく不規則に蠢いていたが、やがて養分を見つけたかのように鎌首をもたげ、結界内にいる俺達にそれぞれの先端を向けた。
「来ます」
「見りゃ分かるっつーの……!」
思っていたよりも、動きが早い。動きそのものは直線的で読みやすいが、いかんせん数が多いのが問題だった。
「襲え、水装っ!」
先端を斬ったところで、影鬼の力を吸収したらしい根はすぐに再生してしまう。触手を避けて飛び退いた先には花びらが待ち構えているかのように滞空しており、俺たちの生命力を吸い取ろうと襲いかかる。
「連中、まるで集団で狩りでもしてるみたいだぜ……全ての個体が同一の存在ってのも、厄介だな」
「感心してる場合か……!」
「うっせえ、軽口でも叩かなきゃやってられっかよ」
こちらを狙ってくる触手と、結界全域に舞い狂う赤黒い花びら。下手にダメージを受けると魔力を吸い取られ、それがそのまま奴のエネルギーを回復させてしまう。
「キリがない……」
「先輩、中に入れませんか!?」
肩に乗ったまま毛を逆立てている先輩の式神に、思わず声を荒げる。
「言うだけなら簡単だがな……地中に回した結界を突き破ろうと、さっきから飢えた根っこ連中がしつこい。あたし本体が中に入ると、外から結界の補強ができなくなる」
「だからって……このままじゃ埒があきませんよ。短期決戦……遅くても、夜明けまでにはケリをつけないと……!」
「師匠の話は最後まで聞け。あたしの魔力を多めに注ぎ込んだ式神を中に入れる。時間が無いから七分の一程度、細かい操作はできないが、囮か足止めぐらいにはなるはずだ。四分……三分待て」
この状況で三分待て、か。
「簡単に言ってくれますね、先輩」
「それぐらいできないなら、美咲の兄なんて名乗らないことだな。根性見せろ」
そう言って、俺の肩に乗っていた猫は火の玉になり、近くの花びらを巻き込んで消滅していった。
「……言われなくても、美咲を守るぐらいはやってのけますよ」
「独り言は終わったのか、ブンヤ?」
肩の猫が消えたのに気づいた霧島が、ビニール傘で根を切り払いながら叫ぶ。
「三分後、先輩が結界内に式神を投入する。それを囮に、美咲を守りながら一気にアレの懐に突っ込む」
「……つまり、あと三分アレと遊んでろってことか?」
「嫌なら帰っていいぞ? 俺と美咲だけでなんとかする」
「冗談……どうせ、帰ろうったってタダじゃ帰してくれねえだろ、こいつらはよ!」
悪態をつきながら、霧島はペットボトルを放り投げる。詠唱と共に破裂した水の弾丸が、花びらを撃ち落としていった。
美咲は周囲の地面を凍らせていたが、黒い根は構わずに地面を突き破り生え続ける。やはり、大元をなんとかしなければならないらしい。
「護法印、退魔陣!」
右手に張った光の膜も、触手の襲撃を二度ほど防ぐと突破されてしまった。魔力を探知して襲撃しているのであろうことを考えると、煙幕もおそらく無意味だろう。
「くそ、あとどのぐらいだ?」
「知るかよ、こっちだって時計見る余裕なんかないんだ!」
ジリ貧だが、美咲の前で弱音を吐くわけにはいかない。自然と、死角をフォローするために三人で背中を合わせる形になる。これから桜燐本体に突っ込む予定なのに、ここで魔力を消耗しすぎるわけにいかないが……そう悠長なことを言っていられる状況でもなかった。
「おいお嬢ちゃん、大丈夫か?」
「あなたに心配されるほど弱いつもりはありません。ですが……」
言葉を濁した美咲だったが、何かに気づいた様子で顔を上げた。その理由に俺も、そしておそらく霧島もすぐに気づいた。
「……来る」
急速に膨れ上がる魔力。それは一箇所に収束し、目の前の空間が燃え上がる。
花びらや根を焼く赤い炎は勢いを増し、やがて一定の姿形と質量を持ちながら空を駆け、俺達とは逆方向に着地した。
鋭利な牙と鉤爪。二つの尾を持った、全長五メートルほどの巨大な化け猫だった。
俺達以上の巨大な魔力と、口から吐き出される炎を本能的に警戒したのか、花びらの半分以上は化け猫に殺到していく。
「すげえ、まるで怪獣だな……アレが耳神の実力の片鱗かよ……」
燃え散る花びらの中、触手に貫かれながらも勢力を維持しそれを引きちぎる燃えさかる化け猫。見る人が見れば、特撮モノのクライマックスのワンシーンに見えないこともないかもしれない。が、その光景に見入ってるわけにもいかなかった。
「眺めてたって仕方ない、さっさと行くぞ霧島」
「いちいち命令すんなよ、ブンヤ! 行くぜお嬢ちゃん、援護射撃してやるから遅れるんじゃねえぞ!」
目配せをする。頷いた美咲を後ろに、俺は桜燐本体へと向かってまっすぐに駆け出した。美咲と離れすぎないよう速度を調整しながら、俺を先頭に美咲を挟み、霧島が背後を守って突き進む。
「護法印、二重退魔陣……美咲は封印のために魔力を温存しろ! 核までの道の障害物は俺がどうにかして切り開く!」
「分かっています……気をつけてください、兄さん」
走りながら、美咲は翡翠に魔力を込め続ける。その輝きは、次第に勢いを増していく。
「それじゃ、道は俺が作ってやるよ……拓け、二式・水奏回廊……!」
背後から、二本の水の矢が一直線に進んでいく。幹まで辿り着いたらしい矢の痕跡から水が滝のように噴き出し、水の壁で遮られた道が作られた。
「これで二重の壁だ、側面からの攻撃にはある程度耐えられる……前だけ見てろブンヤ、上は俺がなんとかする」
半数は式神の対応に向かったとはいえ、美咲の存在が警戒するべき敵であると本能で察知したのか、近づくにつれ触手の攻撃は勢いを増していた。空から降り注ぐ花びらの撃ち落としは霧島に任せ、前方を塞ぐ根の切り崩しに専念する。
「護法印……疾風迅雷!」
護符の残り枚数も心もとなかったが、出し惜しみをする状況でもない。進む足を止めないよう、雷王を握る腕を振り回す。
「ブンヤ、左だ!」
「ぐっ……!?」
桜燐も必死なのだろう、切り払った触手の先端が蠢き、矢のように飛び込んできた。肩をかすめた一撃に続けて、同様の黒い刃が迫る。護符を囮にし迎撃する中、撃ち漏らした一部が凍りつき、地面へと落ちていくのが見えた。
「温存しろとは言われましたが、戦うなとは言ってませんよね? どうせ兄さんが倒れたら進むのは難しくなるんです、文句は聞きませんよ」
「いや……すまん、助かった」
振り返らずに触手の対応をしたままそう言うと、背後からはため息の音が聞こえた。
「……そういうのは、終わった後にしてください。恥ずかしいので」
美咲の言う「終わり」は、着実に見えてきていた。すぐ目の前には呪いの核である赤い光が見えるが、その前には最後の抵抗とばかりに激しさを増す根や花びらの姿がある。再生力も高く、これ以上無傷で前に進むのは難しそうだった。
覚悟を決めなければならない。体内を巡る魔力を、総動員する。
「美咲、俺がありったけの魔力で風穴を開ける。飛び込めるか?」
「できなくはありませんが……でも、それでは兄さんが」
「お前が桜燐を封印すれば、こいつらの動きも止まるんだろ? そのぐらいの短時間なら、なんとかするさ……!」
先輩の式神も魔力が減っているのが分かる。霧島が作った水の壁も、そう長い間はもたないだろう。このタイミングを、逃すわけにはいかなかった。
「……無事でいてください、兄さん」
「任せろ。護法印……天空断!」
回転させた雷王を前方に突き出し、全てを削り抉る竜巻を生み出す。回転を続けることで竜巻の外側を維持し、美咲が飛び込めるだけの穴を作り上げる。
「行って来い、美咲!」
頷いた美咲が穴の中に飛び込む。その右腕……手の中に包まれた翡翠は、目の眩むような緑の光を放っていた。
霧島の援護射撃をくぐり抜けた触手が数本、俺の体に突き刺さる。魔力を吸い取られていくのを感じるが、風穴を維持することだけに全力を傾けた。美咲が無事に戻ってこれるなら、それでいい。最後のエサだ、俺の魔力ぐらい多少はくれてやる……!
「終わりです、桜燐……!」
美咲の声。薄れかける意識の中、ひんやりとした緑の光が膨れ上がり、周囲を包むのを俺は感じていた。
根が体から抜け落ちていく感覚。
光が収まる。うようよと蠢いていた、黒い触手たちの姿は消えていた。
見上げると、そこには真っ白な花で満開になった桜の姿があった。薄暗い殺意を帯びていた黒い花びらは、全て凍りつき、浄化され白く見えているらしかった。
「終わった……のか……」
思わず、地面にへたり込んだ。
先輩の式神も、触手も、影鬼の痕跡も消え失せた。先輩がまだ人払いの結界を維持しているのか、音もない、静かな時間が広場には流れていた。
桜燐の根元に佇む、美咲と目が合った。お互い、思わず笑みがこぼれる。
「無事でよかった……」
「お互いに、な。お疲れ様、美咲」
「ええ……ありがとうございます。おやすみなさい、兄さん」
そう言って俺に笑顔を向けたまま、美咲の姿は次第におぼろげになっていく。
やがてその存在は景色に溶けてなくなり、美咲が居た場所にはなごり雪のように、白い花びらが舞い、降り積もっていた。
「季節外れの氷の桜、か……へっ、なかなか風流なんじゃねえか?」
「ああ、そうだな……きれいな景色だ」
一仕事終え、水を飲みながら近づき話しかける霧島にあいまいに答えながら、俺はぼんやりと、美咲の残した夜桜を眺めていた。
月の初めから続く連続通り魔殺人事件は、舞い散る氷の花と共に終わりを迎えた。
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