第四章 四月十四日 -1
起きた時に美咲を覚えていないのが怖くて、結局夜明け前まで眠りにつくことができなかった。
ぼんやりとベッドに倒れ、浅い眠りから覚める頃には太陽が頂点を通り過ぎていたが、家族がいなくなった喪失感はしっかりと残っていた。
「なんとなく、そんな気はしてたのよね……あの人が姿を消したの、文也を産んですぐのことだったから」
リビングでアルバムを整理しながら、母さんはそう言って笑った。俺は何も言えなかった。冷蔵庫の中には、ラップがされたオムライスが一皿入っている。
美咲の失踪に気づいていないのか術の準備がまだなのか、先輩は俺の記憶も母さんの記憶も、そのままにしてくれているようだった。
土曜日で学校は休みだったが、家で母さんと二人でいると、美咲の不在が強調されているようで辛かった。
惰性で制服に着替え逃げるように外に出たが、どこか行くあてがあるわけでもなかった。JRの駅ビルまで向かい本屋やゲーセン、CDショップ辺りを適当に回ったが、時間の進みは遅く、さして楽しいとも思えなかった。
結局一時間も経たずに駅ビルを出て、繁華街をうろつく。自分でも無意識のうちに、視線は妹を探していた。
俺は、こんなに弱い人間だったのか。
こんなことならいっそ、先輩に美咲の記憶を消してもらった方がよかったのかもしれない。思わず、そんな弱音が口から漏れそうになる。
気がつくと、足はいつもの通学路へと向かっていた。そのまま高校へと辿り着き、部室棟に入って階段を登る。
新聞部の部室に入ると、甘い匂いが俺を包んだ。
「あら、長峰くん。こんにちは」
室内では、小田桐さんが椅子に腰掛け、ハードカバーの小説を読んでいた。
「小田桐さん……どうも」
室内を見回す。猫が描かれた栞を小説に挟み机に置くと、小田桐さんはカバンから紙コップを二つ取り出した。
「あの、先輩は」
「残念だけど、今日は来ないみたいよ。通り魔をなんとかするために、結界とかの用意をしてくるって言ってたから」
「……そうですか」
水筒から琥珀色の液体が注がれ、片方の紙コップを手渡される。回らぬ頭で小田桐さんに礼を言い、温かいレモンティーに口をつけた。
「奈緒ちゃんがね。長峰くんが多分死にそうな顔してここを訪ねてくるから、自分の代わりに面倒見てやってくれって」
先輩は何もかも、お見通しらしかった。
「……俺、そんな顔してますか」
「入ってきた時はひどかったかな。世界の終わりを見てきた人みたいだったもの」
世界の終わり……近いものはあるかもしれない。
「詳しい話は、聞かされていないけど……私でよければ、相談に乗るよ?」
「長くなりますよ、たぶん」
「あら、長い話ならなおさら歓迎よ。私、オカルト研究会の会長なんだから」
紅茶で喉を潤しながら、俺は順を追ってゆっくりと話し始めた。
霧島という魔法使いに襲われたこと。
美咲の正体が雪女だったこと。
呪われた妖怪桜・桜鱗のこと。
美咲が俺の本当の妹ではなかったこと。
先輩が俺と母さんの記憶を操作していたこと。
美咲の体が冷たかった理由が、通り魔による負傷だったこと。
美咲が、昨日家からいなくなったこと。
俺自身に言い聞かせるための独り言のように、俺は話し続けた。
何もかも先輩の作った幻なのかもしれない、とも一瞬考えたが、俺の心に空いたこの喪失感は、確かに美咲はいたのだと証明していた。
俺が話し終えるまで、小田桐さんは何も言わずに、じっと話を聞いてくれた。
「……大変だったね」
「いえ……俺はなにもしてませんから。美咲や先輩の方が、俺よりもずっと大変なはずなんです」
「それで……長峰くんは、どうしたいの?」
「俺は……」
答えに詰まる。
美咲が妖怪だった。そのことに関しては、別に拒否反応はないのだ。俺自身も半分は妖怪だし、そもそも妖怪と一緒に過ごすのが嫌なら、今まで先輩と修行なんて続けていない。
桜鱗や自分の正体について隠していたことも、何も言ってくれなかったことに対する不満が無いわけではなかったが、先輩と美咲にも事情があったのは理解しているし、俺や母さんに迷惑をかけたくなかった、なんて言われてしまったら、あまり強く言うこともできない。
俺から魔力を横流ししていたことだって、美咲が通り魔に襲われるまでは俺もその事実にまったく気づかなかったのだし、大したことではない。
だから、俺は。
きっと、自分の記憶がどこまで本物なのか分からないのが、怖いのだ。
「……長峰くん、携帯震えてない?」
小田桐さんに言われて、ポケットから携帯を取り出す。電話番号は、先輩のものだった。
「もしもし?」
「文也……今部室か?」
「そうですけど……」
電話の先で、先輩はため息をついたようだった。
「梓から、姿が消えたんだがこっちに来てないかって電話があったぞ。家を出る時は、梓に一声かけてからにするんだな」
「……すみません。ご迷惑おかけしました」
母さんに、余計な心配をかけてしまったらしかった。俺に直接連絡をしてこないのは、母さんに気を使われているのだろう。不甲斐ない。
そして、母さんが先輩に電話をしたということは。美咲が姿を消したことが、確実に先輩の耳に入ったということだった。
「まあ、部室にいるならそれでいいんだ、お前の方からちゃんと梓に連絡しておくようにな。あたしは忙しいから切るぞ、何かあれば……」
「先輩、その前に一つだけ確認させてください」
「うん?」
深呼吸をする。
腹は括った。どんな答えが返ってこようと、俺は。
「俺と母さんの記憶……いつ、どこまで操作しましたか?」
少し、沈黙が流れた。
「三年前に、お前の一つ年下の妹が存在している……という点だけだよ。細部まで精神を操作すると、廃人になりかねないからね」
「……分かりました。ありがとうございます」
電話を切る。
少なくとも、三年間は美咲と生活していたのは事実だった。
なら、それでいい。
「俺、妹を守りたいんすよ」
俺が、どうしたいのか。
俺と先輩の通話を横から見ていた小田桐さんに、今度は胸を張って答えた。
「……自分に寄生して、体力を奪われ続けていた上に、家族としての記憶も改ざんされていたのに?」
小田桐さんの問いかけに、たぶん俺は笑ったのだと思う。
「あいつ、正体がバレてからも、俺のこと兄さんって呼んでくれたんです」
雪女であることも、血が繋がっていないことも告げ。
もう俺の妹を演じる必要なんてどこにもないはずなのに、美咲は俺を兄さんと呼び、兄さんへ、と書かれた書き置きを残して姿を消した。
「兄貴が妹を守る理由なんて、そんなもんでしょ」
「なんで、そこまで……」
「……四年前の満月の夜、俺は突然目覚めた人狼としての力を制御できず暴走させてしまい……母さんを、殺しかけたんです」
今母さんが生きていて、俺がまともに学生生活を送れているのは、先輩のおかげだった。俺は命の恩人である先輩に師事し、血の制御方法を学んだ。
「俺はもう、家族が傷つくのを守れないのは……嫌なんですよ。家族を守れない奴に、何が守れるっていうんですか」
「……かっこいいね、長峰くんは。妹さん、ちょっとうらやましいかな」
小田桐さんにそんなことを言われるのは、なんだか気恥ずかしかった。
「シスコンでマザコンなだけですよ、俺は」
自慢の妹と、自慢の母。俺が何かをしたわけじゃない。
それでもこれから、俺は二人の幸せのために。
「話、いろいろ聞いてくれてありがとうございました。俺、行かなきゃいけない場所があるんです」
「そっか。頑張ってね、長峰くん」
小田桐さんに深く礼をし、部室を出る。
俺は決意を固めて、母さんへと電話をかけた。
「……文也?」
「ごめん、心配かけた。今学校にいるんだ」
「そう……よかった。なんだか、あんたまで消えちゃいそうで……」
母さんの声は、穏やかだった。
「後で詳しく説明するって七尾さんからは言われたけど、だいたいの事情は、なんとなく分かったよ。美咲のこととか、ね」
「……あのさ」
「あんたさ。厄介ごとに私を巻き込みたくない、とか思ってる?」
息を飲む。図星だった。
「なんで……」
「何年あんたの親やってると思ってんのよ。私の心配する元気があるなら、自分のやりたいようにやりなさい。覚えてないだろうけど、私は狼男と愛し合ってあんたを産んだ女なの。あんたが思ってるよりずっと、母さんは強いんだから……いまさらあんたたちがちょっと何かしたぐらいじゃ、どうってことないわよ。あんたにとっての美咲も、そうなんでしょ」
かなわないな、と思った。
俺はきっと、一生この人には頭が上がらないんだろう。
「いってきます、母さん。ちょっと、遅くなると思う」
「ん、いってらっしゃい。晩ごはん作って待ってるよ」
電話を切り、昇降口を出る。
空が赤く染まり始める中、俺は西に向かって走りだした。美咲に会うのに、わざわざ街を探す必要なんてなかったのだ。
桜鱗。美咲がいるとしたら、あの桜の下のはずだった。
東西を貫く大通りに出て、歩道を走る。そのまま道なりにまっすぐ進めば、桜鱗がある開けた空き地に辿り着く。
「すいません、そこのキミぃ」
道の半ばで、間延びした若い女の声に呼び止められる。
何事もなければ無視して走り抜けるところだったが、その声色に、俺は急ぐ足を止め立ち止まった。
今、この場にいるはずのない人間。
熊澤あさみ……一昨日通り魔に殺され、二次災害を防ぐために美咲が氷像にした、俺のクラスの担任。
「少し、道を訪ねたいんですがねえ?」
こちらに近づき、触れようと手を伸ばしてきたあさみちゃんの顔と声をした「何か」を、俺は力任せにぶん殴った。「何か」はアスファルトを転がるが、人を殴った、という手応えは伝わってこない。
まるで……そう、まるであの夜、美咲を襲った怪人のような……
「ひどいですねぇ……いきなり女性を殴るだなんて……」
「何か」はよろよろと立ち上がる。その顔の歪みが笑顔を表現しているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「……俺は幽霊を信じてない。死んだ知り合いが声をかけてきたなら、それは幻覚魔法か、悪意を持った誰かが化けているかのどちらかだ」
「おやぁ? この顔のお知り合いでしたか……いやはや、世界は狭いですねえ、妖怪さん」
妖怪。目の前の男は、俺を見てそう呼んだ。反射的に飛び退き、距離をとる。
……人間のにおいではない。
「あんた、誰だ?」
「誰だとはずいぶんですねえ。人の顔をいきなり殴っておいて……」
あさみちゃんの顔が、ずるりと剥がれ落ちる。
その下には、あの顔のない黒い頭があった。
「通り魔……!」
連続殺人の犯人。俺の妹を二回も襲い、傷を負わせた男。おそらくは、美咲の本当の親をも襲い、殺した男。
それが今この場にいる、ということは。こいつも桜鱗の下へ向かい、今度こそ美咲を殺すつもりだ、ということ……!
「護法印、飛雷針!」
光の刃を奴に投げ、奴対応している間に飛び上がり、逆方向に回りこむ。
「いきなり刃物とは、物騒ですねえ。野蛮な獣そのものです、さすが耳神が牛耳る街の子どもですねえ」
西日を背に、振り向いた奴の前に立った。先日の遭遇時と同様、奴に大したダメージは与えられていないようだった。
「うるせえ……あいつには指一本触れさせねえ!」
「ふむ……あの女から事情でも聞いて泣きつかれましたかねえ」
黒い球体だった奴の頭が、ゆっくりと輪郭を形取り始める。二本の角が伸びる、悪魔の様な顔だった。おそらくは、奴の正体。
「自己紹介がまだでしたあ。わたくし、影鬼の不知火と申します」
間延びした奴の言葉に、付き合うつもりはなかった。視線を逸らさず、制服のポケットに手を入れ護符を握りしめる。
「急がなくてはなりません……どういうわけか、十分に傷めつけたはずのあの女が、一昨日もわたくしの邪魔をしたようでしてねえ……二度も逃したとはいえ、半年はまともに身動きできないはずだったのですが。せっかくですし、今度こそトドメを刺して桜鱗の養分にしてさしあげましょうかねえ」
挑発か、それとも単なる宣言か。いずれにせよ、奴が桜燐の復活を狙っているのは確かだった。
「あいつには、指一本触れさせねえって言っただろ……!」
「おやおや、ずいぶんとご執心なさっているようですねえ……ふふ、雪女に貞操でも捧げられましたかあ?」
怒りに任せて突っ込もうとする体を、なんとかこらえて抑えつける。俺の目的は、こいつを倒すことじゃない。美咲を守ることだ。大きく、深呼吸をした。逆光で俺の表情が奴に見えづらくなっているのは、都合が良かった。
「だったらどうした。お前はここで俺が止める、あの場所には行かせない」
「それは困りますねえ、わたくしがせっかく人の生き血を吸わせ続けて、弱りかけたあの化け物桜に養分を与えたというのに……わたくしの許可無く、アレを封印されてしまっては」
「お前の事情なんて知るかよ。俺の住んでる街で、人殺しなんかしやがって」
奴の両手が変化し、一対の黒い刀が両腕から伸びる。あの黒い体は、ある程度自由に変形ができると思っていいようだった。
「残念ながら、わたくしは最初の一人を斬っただけで、殺しなんてしていないんですよねえ。もっとも、斬った時に影を飲んだ相手はわたくしの意図するままに桜鱗に根こそぎ生命力を吸われて……お人形さんになったらその後は、次の桜鱗の餌を探して斬りに向かうんですがねえ?」
「ふざけやがって……!」
……待て。奴は今なんと言った?
斬った相手を操り、次の被害者を襲わせる。そこは先輩が推理していた通りだった。だが、その方法……影を、飲む? 奴は確か、自らを影鬼と……
「……っ! 護法印、」
「遅いですねえ」
奴が足元の地面を刀で突く。
金縛りにあったように、体全体が硬直した。西日を浴びた俺の長く伸びた影が、奴の足元まで伸びていた。
「思ったよりも頭の回転は速いようですが、それでもしょせん獣は獣ですねえ。別に直接斬らなくったって動きを止めるぐらいは造作も無いのに、そんなに影を剥き出しにして、どうやってわたくしを止める気だったんですかねえ」
奴がゆっくりと俺へと近づく。俺の意思に反して、体はどうやってもいうことを聞いてくれなかった。
「人質にするのも考えましたが、下手に操って、いいところで耳神に邪魔をされても面倒です。ことが終わるまでここで寝ていなさい、妖怪さん」
腹に刃が突き刺さる。背中まで貫通した刀が引き抜かれると、空いた穴からこぽこぽと血が溢れだした。
「今のは先日のお礼です、遠慮なく受け取ってください。それでは」
笑いながら、男は電柱の影の中に溶けていった。あの能力……俺の背中を斬った時と同じものか。おそらく、物体の影の中を自由に行き来できるのだろう。
どさり、と音がして、それが俺の体が崩れ落ちた音だと気づくまで少し時間がかかった。
奴の刀も姿を消し、体の自由が利くようになったのはいいが、奴に追いつけるかどうかが問題だった。
握ったままだった護符を使って傷口を塞ぎ、どうにか立ち上がって時計を確認する。
日没まであと僅か。痛む体をなんとかしながら、人としての全速力で桜鱗の場所を目指すしかなかった。
「くっ、そ……!」
先輩謹製の護符とはいえ、夜間に自力で回復するのに比べると傷の治りが遅い。自分の意志で魔力を出し入れできず、夜の間しか体に流れる狼男の力を行使できない自分が情けない。
次第に、ゆっくりと体内を巡る勢いを増す魔力を感じながら、俺は美咲の無事を神様に祈っていた。
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