第三章 四月十三日 -2

 俺には、美咲の発言の意図が掴めなかった。そんな俺と目が合うと、美咲は俺から目をそらして俯いた。


「兄さんは、家に帰ってください。あの人の相手は、私がします」


 美咲が手をかざすと、道を塞いでいた水のバリケードが龍と同様に凍りつき、砕けていった。

 理解のできない光景。

 いや……受け入れがたかっただけで、頭では何が起きたのかは理解していた。


「美咲……お前……」


 さっきの水の龍も水のバリケードも、美咲が自らの手で凍結させた。おそらく、昨日見た桜の下のあさみちゃんも。


「舐めるなよ、雪女。水を凍らせることができるぐらいで、俺を止められるなんて思ってんじゃねえぞ」

「……まさか、私が水を凍らせることしかできない、とでも思っているんですか? 私にはやらないといけない役目があるんです、あなたのような魔法使いに、構っている暇はありません」


 美咲が手をかざす。氷の弓が現れ、番えられた氷の矢が霧島を狙っていた。


「空気中の水蒸気だって、俺が管理してるはずだ……そんなもん、どうやって……召喚術か?」

「魔法体系に縛られなければ超常の力を行使できない、あなた方とは一緒にしないでください。あなたが言ったんですよ、私は化け物だと。それともまさか、雪女が雪を操るのにいちいち呪文を唱えるとでも思っていたんですか?」


 無感情に美咲はまくしたて、霧島へ向け矢を放つ。その光景を、俺はただ見ていることしかできなかった。


「クソが……覆え、水層!」


 霧島は美咲のことを化け物と呼び。美咲は自分自身のことを雪女と名乗った。

 俺の親父は狼男で、母さんは普通の人間。俺自身、生きてきて雪女の血が目覚めたということもない。

 ……ならば。

 霧島の言っていることが、全て正しいとでもいうのか。美咲は殺人鬼で、妖怪で、俺の記憶を操り妹だと偽っていた? あの日襲われていたのは美咲の使い魔か何かで、俺を、母さんを、ずっと騙していたとでもいうつもりなのか。


「魔法使いを見くびりやがって……こっちだって、氷魔法相手の対応ぐらい訓練してんだよ! 刺し貫け……水槍、連弾!」


 連続で発射された水の銃弾は、美咲まで届かぬまま、空中で固まり地面に落ちていった。手をかざすなどの動作をするわけでもなく、さっきの龍を凍らせた力を、美咲は睨んだだけである程度扱うことができるようだった。


「チッ……襲え水装、穿て水爪!」


 霧島はマントからビニール傘を取り出す。水の散弾を壁に懐に潜り込んだ霧島が、美咲の胸を傘で貫いた。


「なっ……美咲っ!」


 まとまらぬ感情のまま、思わず叫ぶ。

 何も言わない美咲の体を貫通した傘は、美咲と接した部分から凍っていった。霧島が傘から手を離す頃には美咲だった体は氷でできた像となり、やがて砕け散った。


「ふざけやがって、今度は変わり身か!?」


 凍った傘を霧島が叩きつけると、空中が割れた。氷でスクリーンが張られていたらしく、その向こうでは美咲が冷たい表情で霧島を見つめていた。


「……満足ですか?」

「調子に乗るなよ……! 砕け、水……!?」


 ペットボトルを美咲に向け、呪文を唱えようとしたはずの霧島は。途中で顔面が蒼白になると、呪文の代わりに口元から血を吐いた。倒れて咳き込んだ霧島の左手が、赤く染まる。


「て……め……ゴホッ……」

「言ったはずです。あなたには私をどうすることもできない、と」

「ゲホッ、カハッ……!」

「何かする度に詠唱が必要なあなたたち魔法使いと、純粋な妖怪である私の力が同レベルだとでも思っていたんですか? 特定の空間の空気だけを凍らせれば、あなたのお喋りな喉は言葉を紡げなくなる……脆いものですね、人間は」


 どうやら美咲は、奴の肺の中にある空気を凍らせたらしかった。


「引き下がってください。あなたが姿を消すまで、私は何度でも肺を凍らせますよ」

「化け物、が……」


 寒さに震えながら、乱れた声で霧島は毒づいた。


「……いくら魔法使い相手とはいえ、兄さんの目の前で人を殺すつもりは私にはありません。ここまで力の差を見せてまだ死にたいなら、私が一人でいる時を狙ってきてください」


 美咲は冷たい声で言い放つ。

 その表情には感情が見えなかったが、俺にはそれが、意図的に感情を隠しているように見えた。普段の美咲はもっと、こう……言動こそそっけないが、はっきりと自分の感情を示していたはずだ。


「く……っそ……」


 殺す気はないという言葉に嘘は無いのだろう、肺の凍結が解除されたらしい霧島はふらふらと立ち上がった。奴は口元の血を腕で拭い、美咲を睨む。マントが揺れると、ペットボトルが数本こぼれ落ち、地面に音を立ててぶつかった。

 戦意を失わない霧島の姿に、美咲は一瞬、眉をひそめたように見えた。


「まだ続ける気ですか。分からない人ですね、あなたも」


 霧島は笑った。いつもの鬱陶しい笑みではなく……先輩が獲物を見つけた時に見せるような、そんな笑みを。


「魔法使いに……水使いの俺に血を吐かせたこと。後悔させてやるよ……」


 まずい。俺は直感していた。


「この場で死ね、化け物!」


 霧島が再び血を吐く。

 その下のマントがどす黒い光を帯び、美咲の凍らせた透明な龍とは違う、一対の翼を持つ赤い竜が像を結んだ。

 竜は美咲に向かいまっすぐに飛んで行く。美咲は無表情に手をかざし、それまでの繰り返しのように、竜は美咲の少し手前で止まり、凍りついた。


「逃げろ、美咲っ!」

「え……」


 体が勝手に動いていた。俺が駆け寄ろうと歩を進める視界の端で、霧島の口元が歪むのが見えた。

 凍った竜の内側に溜まった霧島の血液。竜の体全体に広がったそれは、急速に膨張を始める。内側からの圧力に耐え切れなくなった竜の氷像は、水と氷の刃をまき散らす爆弾と化し、美咲に襲いかかった。

 目を見開く美咲に手を伸ばす。届かない……間に合わないのか。

 いや。まだだ。

 必死の思いでもう一歩を踏み出す。力を込めた右足の下で、アスファルトにヒビの入る音が聞こえた。

 遅れて、吹き飛んだ氷の塊が地面に、塀に、ビルの壁に炸裂する音。

 辺りに立ち込めた土煙が消える。驚いているらしい、霧島の姿が現れる。

 上空で体勢を変え、霧島の前方に着地する。その中で俺は確かに、自身の胸に美咲の体温を抱いていた。


「美咲、ケガはないか?」

「……兄、さん……」


 沈みかけた夕日の反対側。

 東の空には、雲の晴れた空に月が登っていた。


「今の速度……かすかに妖怪の臭いがするのは寄生されてるからだと思っていたが、ブンヤ、お前は……!」

「そんな顔するなよ、霧島。雪女の兄貴なんだ、狼男の血ぐらいは混じってたって文句はないだろう?」


 いつか神社でそうしたように、俺はゆっくりと美咲を地面に下ろした。あの日の記憶も操作されたものなのかもしれないが、仮にそうだったとしても、今の俺にはどうでもよかった。


「美咲、ちょっと離れてろ」

「兄さん……?」


 おそらくは表情に出さないだけで、それなりに無茶をしていたのだろう。美咲の顔を見て、俺はそう感じていた。霧島を見据え、肩を回しながらまっすぐ突き進む。


「クソ、種族すら違うってのに似たもの同士かよテメェら……!」

「褒め言葉か、それ?」


 俺の質問に答えず、霧島は後退しながらペットボトルを投げ捨てた。


「踊れ、水巣!」


 霧島の詠唱に反応し、ペットボトルが破裂する。中に満たされていた水が手榴弾のように炸裂し、真下から俺に襲いかかる。

 どうせ、無傷でぶん殴れるとは思っていなかった。事前に奴の攻撃を見ていたこともあり、俺は特に意に介さずそのまま霧島に突っ込む。水の雫に抉られていった傷は、痛みを感じる前に癒えていった。

 目が合った霧島の顔からは、焦りの色が見て取れた。俺に新しいボトルを向けて何事か叫んだようだったが、何を叫んだのかは分からなかった。続けざまに飛び出してきた水流の散弾を、腕を振るった風圧でまとめて吹き飛ばす。

 そのまま霧島本人にも一撃加えるつもりだったが、奴は風圧と水流の勢いを利用してうまく距離をとったようだった。路上に点々と、奴の口元からこぼれた血が滴り落ちていた。


「驚異的な再生能力と、人外特有の身体能力……まさかとは思うがお前、指の間から爪が生えてきたりしねえだろうな?」


 何を言っているのか分からない。確かなことは、奴が妹を傷つけようとする俺の敵で、俺を挑発しようとしている、ということ……!


「前にお前には言ったよな……俺の大事な妹のことで何か言ったり近づいたりしたら、容赦なく張り倒すって。美咲に死ね化け物、とまで言ったんだ、二、三本骨折れるぐらいは覚悟しとけ」


 俺がそう宣言すると、霧島は驚いたのか目を見開いた。


「バカ野郎! 偽の記憶を植え付けられて、利用されてもまだ家族ごっこを続けるつもりか!?」

「うるせえバカ。俺はバカでいいさ、目の前で妹が殺されるのを黙って見ているくらいなら、俺は……大バカ野郎でいい」

「何言ってやがるんだよ! アレはお前の妹でもなんでもないって、ここまで説明してまだ分からねえのか?」

「分かってるよ」

「は……?」


 霧島は間抜けな顔を見せる。兄貴が妹を守るのが、そんなに気に食わないのか。


「雪女と半分人狼じゃ血の繋がりは無いし、よくよく考えればクソ親父が失踪したのは俺が生まれてすぐの話だったはずだ」

「なら!」

「でも、妹なんだよ。偽りの記憶だったとしても、利用されただけだったんだとしても……今の俺にとっては、たった一人の妹なんだよ。それが偽物だからって、家族が傷つくなんて……俺は、許せない」

「なんで、そこまで……」


 今度は、背後の美咲が困惑の声をあげた。なんてことだ、俺なりにそこそこかっこつけたのに、肝心の妹にはその意図が伝わっていないなんて。


「俺の妹のフリをしてたのに、気づいてなかったのか?」


 美咲とは話したいことが山ほどあったが、まずは目の前の霧島をなんとかするのが先だった。美咲を安心させるため、俺は美咲に背中を向けて霧島と対峙した。


「俺はシスコンなんだよ」

「……妖怪妄執シスコン野郎が」


 霧島は吐き捨てるが、今の俺にとってその呼称は褒め言葉のようなものだった。


「お前ももう限界だろ、霧島。この辺で切り上げて、俺は家に帰りたいんだが」

「引き下がれるか、バカ野郎……妖怪が何の理由も無く、第三者の記憶なんか弄るかよ! 人間に害をなす妖怪を、魔法使いとして止めないわけにはいかねえ!」


 美咲は何も言わない。なぜ俺の妹に、母さんの娘になろうとしたのかは分からないが、美咲は人間を害する妖怪ではないことははっきりしていた。


「霧島は知らないだろうが、俺の母さんは喫茶店で働いててな。店の看板メニューのオムライスも母さんが作ってるんだが、これが贔屓目抜きでも最高にうまいんだよ。何かあった時は家の晩飯にオムライスが出てきて、美咲もそれをおいしそうに食べて。それを見てる母さんの笑顔が最高に幸せそうで……今日も帰ったら母さんに、作ってもらうつもりなんだ。だから、どいてくれ」

「……ここまでやり合っておいて、いまさら泣き落としのつもりか?」


 霧島が、両手にペットボトルを持ちそれを俺に向けた。退いてくれるつもりは、向こうには無いらしい。家の場所は割れているだろうし、このまま美咲を連れて逃げる、というわけにもいかなかった。


「貫け、水槍」


 先に動いたのは霧島だった。バックステップを繰り返しながら水による砲撃が繰り返される。

 美咲と違い、俺は飛んでくる水流を凍らせて無力化するなんて芸当はできない。代わりに握り拳に魔力を込め、水流に直接ぶつけて叩き落とした。


「お前も大概化け物だな……砕け、水掃」


 後退する時に落としていったのだろう、俺の背後から水の腕が迫る。跳躍と同時に空中で回し蹴りを放つと、水の拳は掻き消えて雫が辺りに散った。


「ちっ、次……穿て、水爪!」


 散った雫がそのまま刃になって俺に襲いかかる。が、俺もいつまでも霧島と鬼ごっこを続けるつもりもなかった。水の散弾を受けながら飛び込み、奴の鳩尾を狙い拳を振るう。霧島はとっさに自分と俺の間にペットボトルを挟んだらしく、右フックのダメージはある程度は軽減されているようだった。

 美咲から受けたダメージもまだ回復していないのだろう、霧島は地面を転がりながらまた血を吐いた。

 見た限り、奴のマントの内側にはもうペットボトルが残っていないらしかった。竜を二体作り出した時点で、かなりの水を消費していたのだろう。


「手詰まり、か?」

「チッ……バカ言えよ、ブンヤ」


 口元は腕を血で染めながら、霧島はなおも笑っていた。


「俺だって別に、考えなしにお前と戦ってたわけじゃないんだぜ? お嬢ちゃんは勘違いしているようだが、詠唱しなくったって、魔法を行使する手段はいくらでもある……」


 霧島は、自らの血で魔法陣を描くとその上に足を乗せた。地面の震える音が、周囲に響いた。魔法陣の起動……おそらくは、水に働きかけるもの。

 地面の下にある水……まさか、水道管……!?


「ふざけた妖怪どもが……二人まとめて流れて砕けろ、ブンヤァ!」


 俺は身構えた。今から霧島を止めても、中途半端な状態で術者を失った魔法は暴走し発動してしまうだろう。魔法の規模が分からない以上、美咲を抱えて跳んでもまとめて飲み込まれる可能性がある。なら、美咲に術が到達するまえに、今度こそ俺がこの手で全ての魔法を受け止めきるしか……


「くっ、そ……!」


 至近距離まで突っ込む。霧島と目が合った次の瞬間、俺は吹き飛ばされていた。

 いや……俺だけではなく、霧島も。


「はい、そこまで」


 不意にそんな声がすると、辺りの地響きは収まった。

 気がつけば、倒れた俺と霧島の間に腕を組んだ少女が立ち、魔法陣を上書きしていた。

 うちの学校の制服。小柄な身長にツインテール。そして、頭頂部の獣の耳。


「先輩……」

「お前……耳神、か……?」

「縄張りの中にお粗末な結界ができていたから、様子を見に来てみれば……半分ぐらいは想像通りとはいえ、なんだか複雑なことになってるじゃないか」

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