第一章 四月十一日 -4
先輩にも感謝を伝えようかと思ったが、想像通り新聞部のドアは結界が張られ、開けることができない状態だった。ポストに小田桐さんから貰った原稿を入れ、先輩にその旨をメールする。
校門を出ると、空では雲の隙間で星々が煌めいていた。膨らんだ月を眺めていると脳内麻薬が出てくるのを感じるが、妹のことや連続通り魔のことを考えると、そうそう高揚した気分にもなれない。
学校の周りに植えられた桜のつぼみは、遅れてくる北国の春に備えて膨らみつつあるようだった。鷹岡城の桜も、おそらく似たような状態だろう。例年通り、今月末からの桜祭りに合わせて開花するとは思うが、このまま市内で殺人事件が続くようなら、観光客の数も落ち込んでしまうだろう。
母さんの働く店は城から少し離れた学生街だから、どちらにしろあまり影響は無いかもしれないが……自分の住む街で人が殺されている、というのは、やはりあまり気持ちのいいものではない。先輩もたいぶストレスが溜まっているようだし、さっさと収束してくれるに越したことはなかった。
わざわざバスを待つような気分でもなかったから、普段通りに夜風に当たりながら歩いて帰ることにした。私鉄の線路沿いに通りを北上し、街を東西に貫く大通りを目指す。
昼間は日が差していたのだが、歩いていると次第に雲の量が多くなってきた。今夜は雨の降らない予報だったはずだが、家に帰ったらさっさと洗濯物を取り込んだ方がよさそうだった。
県立の高校の前を過ぎ、国立大のキャンパス近くまで差しかかったたが、すれ違う生徒の姿は少ない。普段はこの時間帯でも部活帰りの学生や私服の大学生達が歩いているものなのだが、やはりどこの学校でも生徒には出来る限り早く帰るように促しているらしい。城東の繁華街まで出ればさすがに活気があるはずだが、わざわざこの時間にそちらまで出て買い物をする理由も無かった。
ふと。左手から、美咲の匂いを感じ取った。残り香かと思ったが、他の匂いと混ざっている様子もない。その匂いの強さは、美咲が通りすぎてからさほど時間が経っていないことを示していた。
新入生で、まだ特定の部活にも入っていない。とっくの昔に、家に帰っているはずだった。疑問を抱きながら、俺は美咲らしき痕跡を辿り、大通りの手前、より人気の少ない裏路地へと入っていった。
美咲の匂いは次第に強くなり、それが俺の勘違いではないことを確信させた。姿を確かめようと早歩きで道を進むと、やがて約五十メートル先、奥まったところに二人分の人影が見えた。いったん立ち止まり、目を凝らす。
月は雲に隠れ、街灯も遠いからぼんやりとしか見えない。だが俺には、そこに立っている二人のうち一人が美咲であると、はっきりと知覚できた。もう片方の姿は、美咲の陰になっているからか判別ができない。
こんな時間にこんな所で……まさか、男か? いや、少なくともあいつを夜遅くに連れ回すようなクズ野郎は、俺が知りうる限り美咲の知り合いには存在しないはずだ。ならナンパか? 俺の目の前で妹に迫るとはいい度胸だ。
どちらにせよ、相手の顔を見て文句の一つでも言ってやらなきゃならない。
そう思い、俺が二人に近づこうと足を早めたのと。
美咲が一歩退き、相手から距離を取ろうとしたのと。
相手が長物を手に妹に襲いかかったのは、ほぼ同時だった。
「てめぇ……!」
踏み込んだ地面が、沈む感覚。美咲までの距離を刹那で駆け、二人の間に割って入ると、
「うちの妹に、何しようとしてやがる!」
クソ野郎の横っ面を、力任せにぶん殴った。
「兄さん……!?」
暴漢はそのまま吹き飛び、落下するとともに何度かアスファルトの上を転がった。
「美咲、無事か?」
暴漢を警戒しながら、突然現れた俺に困惑しているらしい美咲に近づき腕を握る。今朝と同じく、美咲の体はひんやりと冷たかった。
なぜ美咲が、この時間にこんな場所にいるのか。問いただして説教してやりたいところだったが、目の前で蠢く暴漢がそれを許してくれそうになかった。
……頭に血が昇った俺の、全速力での一撃。常人には回避不可能、首の骨が折れるはずのそれを……奴は反応し、防御しようとしていた。
――人間ではない。もしかすると、一連の通り魔殺人の犯人。
美咲と奴の間に立ち、様子を窺いながら少しずつ距離を置く。
うずくまっていた暴漢は、ゆっくりと立ち上がる。
暗がりで顔が見えないのかと思ったが、そうではなかった。全身が黒で塗りつぶされたようになっていて、顔も黒いのっぺらぼうのように何もない状態だった。細身の体で髪もなく、男なのか女なのかもはっきりしない。
右手には、こちらも同様に鍔も刃も真っ黒な刀が握られている。
何もない顔で俺を見て値踏みしたらしい怪人は、左足を一歩踏み出した。俺の懐に飛び込む突き……スピードもそれほど早くない分かりやすい攻撃だが、あの黒い刃は避けきれるなら避けるべきだと判断した。
紙一重で刃の軌道から体をずらし、そのまま遠心力を使って怪人の顔に裏拳を叩き込む。吹き飛ぶ相手の右手首を蹴りあげたが、怪人は刀を落とさずにそのまま路地を転がっていった。どうやら刀は握っているのではなく、腕と一体化していると考えていいようだ。
「……っ……ぃ……」
口のない顔で奴は何かをぼそぼそと呟いたようだったが、か細い声は俺でも聞き取ることはできなかった。あるいは、単なるうめき声だったのかもしれない。
相手はなおも立ち上がる。どの攻撃も当たってる感触はあるから、実体がないということはないはずなのだが、どうにも有効なダメージを与えられていないようだった。追撃をしようにも、下手に相手が狙っている美咲から離れて深追いするわけにもいかないのが歯がゆい。
「美咲、そこ動くなよ」
こちらに突進してくる怪人との間にある、空気を蹴り飛ばす。路地裏に風が吹きこみ、圧縮された空気が怪人を襲った。動きを止めた相手に、道端に落ちていた小石を掴んで力任せに放り投げる。脚に命中すると、怪人は前のめりになり膝から崩れ落ちた。
当たった小石がそのまま奴の足元に落ちるところを見るに、やはり実体はある存在らしいが……怪人は刀を支えにして、よろよろと立ち上がった。
よっぽど耐久力があるか、物理攻撃が効きづらい相手なのか……あるいは、俺の身体能力が低下しているのか。このままでも負けることはないだろうが、追い払うことも難しそうだった。
ならば、美咲を連れて全力で逃げるべきか。
ちらり、と美咲の位置を横目で確認する。怪人と殴り合いを始めた俺の姿に当惑している様子だったが、ここから見た限りでは特にケガは無さそうだった。
俺をどうにか潜り抜けて美咲を狙おうとする相手から、美咲が見えないように立ち塞がる。小石をさらに二、三個、手元に握りしめた。
牽制も兼ね、怪人に向け親指で小石を弾き飛ばしたが、奴も目が慣れてきたらしく簡単に刀で弾かれてしまった。乱射していれば距離を詰められることはないはずだが、それでは千日手になりかねない。そのうち警察辺りが騒ぎに気づくかもしれないが、美咲が補導されてしまうのもそれはそれで問題だった。
どう動くべきか考えていると、怪人は俺との距離を保ったまま、刀を構える。俺も対応して身構えると……やがて怪人は、足元から「溶けて」いった。顔の無い頭もアスファルトに消えて無くなり、一切の痕跡も残さずその存在は消滅した。
路地裏に訪れる静寂。
数秒前までそこにいたはずの怪人は、音もなく、夜の闇の中に消えてしまった。
「なんなんだ、一体……」
「……兄さん」
美咲の声に、俺は安堵した。
とりあえずの危険が去ったことは確かだった。美咲に駆け寄り、その腕を掴む。
「美咲、お前なんで……いや、とりあえず帰るぞ」
いろいろ美咲に言いたいことはあったが、二人でこのままこの場にいるのは危険だと、本能が告げていた。
「離してください、私は……」
するり、と美咲の腕が俺の手から抜け落ちる。慌てて振り返り美咲を捕まえなおし、とにかく無理やりにでも家に連れ帰ろうとした、俺の視線の先。
――黒い刃を上段に構える、さっきの怪人がいた。
「美咲っ!」
手を引き、胸の中に美咲を抱く。
怪人の刃が、俺の背中を袈裟斬りの形で通っていく感触があった。闇雲に反撃するが、姿を確認しないまま繰り出した俺の脚はそのまま宙を蹴った。バックステップをしたのか、両足で着地する音がした。
「っ……!」
なおも背後には殺気。再び消える気配はない。俺に初撃が当たったのを見て、このまま二人まとめて始末する算段らしい。
「兄さん、なにしてるんですか……! 早く離れてください!」
美咲の声には動揺が見られる。あまり心配はかけられない……次の一撃に反撃して体勢を整えても、また姿を消して奇襲をしかけてくるのだろう。対処できないなら、このまま逃げてしまうのが最善だった。
「舌噛むぞ、口開くなよ」
「なっ」
非難の声を出される前に、美咲の脚と肩を抱きかかえる。そのまま力任せに飛び跳ねると、刃が風を切る音が下方から聞こえた。
電柱の上に着地し、踏み切り台にして水平方向に更に跳ぶ。振り返ると、怪人が立ちつくしているのが見えた。その顔は黒で塗りつぶされ感情は読み取れなかったが、こちらを見上げ睨みつけているように俺には思えた。
奴がどれほどのスピードで動けるのかは未知数だが、とにかく、追撃されないように距離を置きたかった。
電柱や屋根伝いに、夜の空を跳ぶ。俺の言いつけを守っているのか、美咲は何も言わなかった。綺麗な黒の長髪が、風で俺の背後に流れていく。
人の多い繁華街に出れば奴も襲ってくることは無いはずだが、人目につく場所に空から着地するのはさすがに躊躇われた。
次善の案として、さっきの路地から十分離れ、この時間は人も少ない寺社街……その外れにある鍋山神社の境内に、俺は着地した。背骨まで刀が届いていたのか、ずきりと傷が痛む。相手の能力を深く考えずに油断して攻撃を受けたと知られたら、また先輩に怒られてしまいそうだ。
無事を確認しそっと地面に下ろすと、美咲は呆けたような顔をしていたが、そのうちはっとしたような表情になると、俺の背後に回り込んだ。
「兄さん、傷は……」
「大丈夫だ、心配するな。あのくらいなら多分、一晩寝れば治る」
「そんなわけ……刀で斬られたんですよ!」
俺の制服を肌着ごと捲り上げたらしい。斬られた部分が外気に触れ、ヒリヒリした。やはり、回復力はここ数日かなり落ちているようだ。
「傷が塞がってる……痕も消えかけて……どうして……」
俺の背中を見て固まった美咲の手を取り、いい加減肌寒いので制服を戻す。
しかし、どうして……か。ああ、そういえば。
「美咲には、教えてないんだったな……蒸発した俺達のクソ親父な。実はあいつ、狼男らしいんだ」
「狼、男……人狼」
多少驚いてはいるようだったが、美咲はあまりその表情を変えなかった。
「それじゃあ、兄さんは」
「半分人間、半分狼男……だからまあ、四分の一狼、か。夜の間は人狼側の血が活性化して、再生力やら身体能力やらが跳ね上がるんだとさ
活性化しすぎた妖怪としての血が暴走しすぎないように、先輩は俺に魔力を抑える魔術式を施した。将来魔術式が無くても魔力を制御できるように、先輩は四年前から俺に魔力の使い方を指導してくれている。
先輩のことは昔美咲に紹介したような記憶があるのだが、どうにも曖昧で先輩も覚えていない様子だったので、先輩に関する話は伏せた。
「……初めて聞きました」
「あんまり言いふらすようなことでもないしな。美咲を怖がらせたくもなかったし……母さんも、知っても知らなくても何も変わらないって言ってたし」
「そう、なんですか」
お前も、身体の調子がおかしかったら相談しろよ……とは、言い出せなかった。代わりに頭を撫でるが、美咲は普段とは違い俺の手を嫌がることもなく、されるがままになっていた。
さっきの奴は何者なのか。あの場所で何をしようとしていたのか。美咲の身体が冷たくなったのと関係あるのか。
聞きたいことは山ほどあったが、俺はそれを全て飲み込んだ。今はお互い困惑している、明日以降のことは明日考えればいい。
今はただ、美咲が無事であるなら、それで。
「まあとにかく、今日はもう帰ろう。母さんもきっと、心配してるしさ。最近物騒なんだから、一人で夜道歩くなんて、もうするんじゃないぞ」
「……はい。すみません、兄さん」
そのまま会話も無く、ただ先ほどの怪人の姿を警戒しながら境内を出る。
俺の忠告に美咲はおとなしく頷いたが、素直に俺の言うことを聞くつもりは無いのだろうと、俺は直感していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます