第一章 四月十一日 -3

 仕方なく、夕日の差し込む階段をオカ研の部室目指して降りていく。体験入部の季節だったが、事件の影響か吹奏楽部の楽器の音も、運動部の威勢のいい掛け声も聞こえてこなかった。一階まで降りて、渡り廊下と逆方向に進む。蛍光灯はついていたが、古い松の木々が日を遮り、三階よりも暗いように思えた。

 オカ研の部室の扉は幕がかけられ、中の様子は見えないようになっていた。ノックをすると、どうぞ、と少し低い女性の声が反応を返した。

 部屋に入った瞬間、落ち着くような甘い匂いが鼻をくすぐった。香水……いや、この匂いはお香だろうか。香りをばら撒くような霧島の香水と違い、そっと寄り添うような自然な香りだ。

部屋の中を見回したが、いくつかの本棚と、返事をくれたらしい読書中の女子生徒がいるだけで、怪しげな薬品も鹿の頭の剥製も見当たらなかった。


「ええと……どちら様?」


 本に栞を挟んだ女子生徒が、入ってきたまま何も言わなかった俺に話しかけた。座高だけみた限りでは、美咲より少し背が高いだろうか。整った顔立ちで、文学少女、という表現が似合う女性だった。


「あ……新聞部二年の長峰です。七尾部長から、依頼していた書類を回収するように頼まれたんですが」

「長峰……ああ、それじゃああなたが、奈緒ちゃんのかわいがってるっていう噂のお弟子さん?」


 かわいがられている……かどうかはともかく、先輩の弟子であることは事実なので黙って頷く。先輩はいったい、どこまでの内容を話しているのだろうか。


「はじめまして、オカルト研究会会長の小田桐夕花です。奈緒ちゃんとは、オカルトに関してよく語り合う仲なの」

「長峰文也です。その、まあ……先輩の下で、弟子としていろいろと勉強させてもらってます」


 内履きの靴紐は、彼女が三年であることを示していた。ウェーブのかかった黒い長髪と微笑む表情は、俺がオカルトという単語からイメージしていたものとは大きく異なるものだった。


「さっきから視線がいろいろ動いてたけど、何か探しもの?」

「あ、いえ。なんつーか、こう……てっきり、もっとなんかの内臓とか骨とか、そういうよく分からない儀式に使う道具が色々あるものかと……すみません」

「ふふ、気にしないで、オカルトをそんな風に思ってる人は結構多いし、そんな偏見を少しでも払拭したくて研究会を立ち上げたから」


 なるほど。残念ながら部室の雰囲気が近寄りづらくて、学内でも偏見は払拭できていない気がするが……会話してみると、少なくとも会長の小田桐さんは普通の人のようだった。他の会員の姿がないのは、事件の影響で活動を休止しているためらしい。


「それで、原稿っていうのは」

「ああ、ちょっと待ってて。ファイルに入れてあるから」


 原稿……ルーズリーフに綺麗な字で書かれたそれを受け取り、ペラペラとめくって中身を確認する。冒頭の数ページには、新聞に毎回載っている占いの、今月分の内容が書かれていた。今週の俺のラッキーアイテムは黒のボールペンらしい。整った文字は、ワープロソフトで打ち直す時によく見たものだった。


「ドクター・トワイライト」


 記憶にあったペンネームを呟くと、小田桐さんは照れたように笑った。


「その名前、恥ずかしいから私はあんまり好きじゃないんだけどね。校内新聞なんだから本名でいいって言ったんだけど、奈緒ちゃんったら勝手に決めちゃって」

「ああ……先輩の気まぐれと思いつきって、俺だけが被害を受けてるわけじゃなかったんですね……お疲れ様です」


 占いの内容の後には、「鷹岡市連続殺人事件に関するオカルト視点からの考察」と題されたレポートが続いていた。

 過去にあった連続殺人事件の情報や、それに関する都市伝説。退魔戦争に敗れて以来行方不明だという、全国各地の妖怪の名前もいくつか挙げられていた。


「退魔戦争の情報なんて、魔法使いたちの操作で巷にはほとんど残っていないって聞きましたけど」


 規模が大きかったこともあり、「何かよく分からないものが全国で暴れた」ぐらいの記憶、記録は残っているが、一般市民の不安を煽るとして、魔法使いたちは妖怪や魔法使いに関する情報を隠蔽しているらしい。実際、傷跡の風化と共に、妖怪の存在を信じない人も多くなっていると聞く。

 俺自身、先輩に出会うまでは妖怪がいるなんて思っていなかったし、当時の情報は先輩から断片的にしか教えられていなかった。学内で先輩の正体を吹聴して周っても、誰に取り合ってもらえぬまま、先輩に怒られるのがオチだろう。


「ネット上では、都市伝説として当時の話が半信半疑のまま語られているの。私にはその真偽は判断できないけれど、奈緒ちゃんが見たら何かの手がかりが掴めるかもと思って」

「都市伝説って……トイレの花子さんとかテケテケとか呪いのビデオとか、そういう類のアレですか?」

「結構バカにできないのよ? 私が奈緒ちゃんと出会ったのだって、この街の都市伝説を調べたのがきっかけだし」


 この街の……つまりは先輩に関する都市伝説、か。聞いたことはないが、留年し続けている女子高生がいる、とかだろうか。そこまで考えたところで冷静になり、本来の耳神様としての先輩に関する都市伝説なのだろうと思い直す。


「先輩のこと……あの人がなんなのか、知ってるって聞きましたけど」


 正直なところ、意外な話だった。あの人が本来の姿になったところなんて、俺も片手で数えるぐらいしか見たことがないのだ。本人も「こっちの方が楽だし都合がいいから」と、すっかり人の姿が基本形態となっているようだった。


「昔、パワースポットって言われてた小さな神社に、真夜中に行ったんだけどね。化け狐に襲われちゃって……その時に、奈緒ちゃんが助けてくれたの。たぶん黙って立ち去るつもりだったんだろうけど、私なんだか興奮しちゃって。奈緒ちゃんに抱きついて、質問攻めにしちゃったのよね」


 私も奈緒ちゃんも恥ずかしい話だから、あんまり言いふらさないでね、と小田桐さんは笑った。


「それで、うん、奈緒ちゃんも私のこと気に入ってくれたみたいで。たまに妖怪のこととか教えてもらったり、魔術の練習をさせてもらったりしてるの」


 ……マタタビのようなもの、か。彼女と話していると、先輩がそう形容した理由がなんとなく分かるような気がした。魔力に満ちているというわけでもないのだが、不思議と落ち着かせる雰囲気がある。


「それで、どう? 参考になりそうかな?」

「そうですね……俺の口からは、なんとも」


 この書類の価値を判断するのは先輩だから、俺が口出しできるものでもない。初見の専門用語も含まれたかなり密度の濃い文章で、門外漢な俺がこの場で内容を理解するのは難しそうだった。


「原稿、確かに受け取りました。俺が責任を持って、先輩まで届けます」

「奈緒ちゃん、まだ残ってるの?」

「部室にいますけど……また、ドアに結界張ってて入れないと思いますよ。今日はあの人、かなり機嫌悪そうでしたから。俺もたぶん、そのままポストに書類入れて帰ることになると思います」

「そう。じゃあ後でメールしておこうかな、長峰くんのこととか」

「……俺の、ですか?」

「奈緒ちゃんから、長峰くんの話はいろいろと聞かされてたんだけどね……女の子同士の話だから、私からは言えないかな。気になるだろうけど、がんばって本人の口から聞き出してみて」

「はあ……考えておきます」


 まあ、ボロクソに言われているような気はするので、俺から先輩に俺自身の評価を聞くことはおそらくないだろう。


「それで、奈緒ちゃんが言ってた話での長峰くんと、私が実際に会って長峰くんに抱いた感想とでちょっとズレがあるから、その辺りを奈緒ちゃんと話し合ってみたいなと思って。まずかったかな?」

「いや、俺は別に構いませんけど……」


 先輩はいったい、俺のことをどう吹聴していたのだろう。小田桐さんが俺にどんな感想を抱いたのかも気にならないではないが、面と向かってそんなことを聞くのは妙な気恥ずかしさがあった。

 さて。先輩のおつかいは終わったのだが、せっかくなので先輩の助言通り、小田桐さんに妹の体のことを聞いてみることにした。


「ええと……原稿の話とは別件で、小田桐さんに相談があるんですが」

「恋愛運でも占う? それとも、またうちの高校の七不思議でも調べる?」

「いえ、そうではなくて」


 また、ってなんだ。

 とにかく、妹の体温が異様に低くなっていること、先輩からその件で小田桐さんを紹介されたことを掻い摘んで説明した。


「先輩が、あの人よりも妖怪に詳しい人が小田桐さんだ、と言っていたので……何か、分かりませんか」

「うーん……ごめんなさい、私もそういう類の妖怪はちょっと知らないかな……」


 妖怪の名らしい単語をいくつか独り言のように挙げた後、小田桐さんは首を横に振り、力になれなくてごめんなさい、と言った。無駄足に終わったのは確かだが、小田桐さんが悪いわけでもないので俺も礼を言う。


「じゃあ、俺はこれで……」

「あ、少し待って」


 これ以上読書の邪魔をするのも悪いので立ち去ろうと思ったのだが、席を立つ前に小田桐さんに止められた。


「そういう妖怪については、心当たりは無いんだけどね。妹さんの問題には、妖怪以外のアプローチはどうかな。例えば、何らかの魔術……あるいは、幽霊の類に取り憑かれている、だとか」

「魔術はともかく……幽霊ですか?」

「そう、霊感のある人間が幽霊の多い場所に近づくと、寒気を感じるって話はよくあるし……ありえない話ではないでしょう?」


 そういう話は俺も聞いたことがある。が、あくまでも噂話や作り物として、だ。


「……人は死んだらそれまでですよ。幽霊なんて、いるわけないでしょう」


 訝しがる俺とは対照的に、小田桐さんは笑っていた。


「あら、あの子のお気に入りの割には夢がないのね、長峰くん。妖怪や魔法使いの存在だって、私達が生まれる少し前まで……それこそ退魔戦争が始まるまでは、本当にいるのかどうかハッキリしていなかったの。興味のない人の間では、今じゃ妖怪もオカルトな存在に戻りつつあるし……幽霊や宇宙人だっているかもしれないし、いた方が世界は面白いと思わない? 確かなものばかりに囲まれて生活していると、息苦しくてちょっと疲れちゃうもの」


 そういうものだろうか。三年間妖怪である先輩に振り回されてきたので、俺も感覚が多少麻痺しているのかもしれない。

 どちらにしろ、妖怪や魔法使いが原因ならどうにかして元を絶つつもりだったが、幽霊に取り憑かれているだとか、宇宙人に攫われて何かされてしまった、なんてことが原因となると俺には対処しようがなかった。先輩の神社で、家内安全の御札でも買えばいいのだろうか。


「幽霊の除霊方法に関しては、いろいろと情報があるから奈緒ちゃんの力を借りればなんとかできるかも。宇宙人なら……うーん、なんとかしてUFOを呼びこむしかないかな。どちらも私が実際に行うのは初めてになるから、人体実験みたいな形になっちゃうけど」


 申し訳無さそうな顔を浮かべる小田桐さん。この短時間で、表情がころころと変わる人だ。妹を実験体にされるのは気分のいいものではないが、それで元に戻るなら安いものだと俺は考えていた。先輩の紹介だからというわけではないが、目の前の女性は信頼のできる人物だと、俺は直感的に認識していた。


「奈緒ちゃんの紹介だし、せっかくオカルト研を頼ってもらったから、私の方でもちょっと症状について調べてみるね。奈緒ちゃんからはその手の才能が無いって言い切られてるから、原因が分かっても実際に対処するのは奈緒ちゃんか長峰くんになると思うけど……」

「いえ、十分です。俺の妹のことですし、俺の力でなんとかできるなら自分でどうにかしてやりたいので」

「そう……妹思いのいいお兄さんなのね」


 何もできないただのシスコンですよ、と俺は自嘲した。美咲本人に聞けば何か分かるかもしれないのに、突然の変化にうまく切り出すことができない臆病者。


「今日はありがとうございました。俺の方でももう少し、妹のことを観察してみようと思います」

「私は何もしてないけど、話すことで少しでも気が楽になったなら良かった、かな。月並みなことしか言えないけど……頑張ってね。妹さんも自分の体の変化に気づいているなら、悩んでいるかもしれないから」


 改めて礼を言い、部室を出た。何も進展はしていなかったが、俺一人頭の中で堂々巡りをするよりは意味があったはずだ。

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