堅忍不抜。
五月三十日
結局のところ私は自分の感情がなんなのかを考える事自体諦めてしまった。
いや、実際はなんとなく解ってはいるのだ。
しかし、これが一時の気の迷いであるという可能性を捨てきれない。
だから私は自らそれをはっきり確信できるまでは様子をみようと思う。
六月二日
矢島薫やじま かおる。
今まで遠目に見ていただけだったのだが、授業で班分けをした時から少しずつ話すようになった。
薫ちゃんは誰にでも優しく、こんな私にでも分け隔てなく話しかけてくれた。
だから、きっと私は舞い上がってしまって勘違いをしてしまったのだと思う。
…おじいちゃん、自分に言い訳ばっかりしてる。
きっとその薫ちゃんって子を好きになっちゃってるのを認めたくないんだろう。
そういう気持ちはよく分からないけど、頭が固いっていうか真面目っていうか。
私は、おじいちゃんの恋の相手がおばあちゃんだったら素敵だなって思ってたけどそんな事はなかった。
おばあちゃんの名前は華代だし、華と薫でなんとなく方向性は一緒だけど…ってそんなの関係ないし。
六月三日
今日、突然薫ちゃんに話しかけられた。
驚いてしどろもどろになってしまったが不審に思われなかっただろうか。心配である。
要件は、授業で分からないところがあるらしく教えてほしいとの事だった。
なぜ私に?
疑問符で頭がいっぱいになるものの、断る理由も特にないので了承した。
六月四日
本日も放課後に薫ちゃんと二人きりで勉強をした。
薫ちゃんは成績こそ悪かったが、とても理解力があり教えた事はきちんと覚えてどんどん自分に吸収していった。
普段からもっと授業をちゃんと聞いていればそれだけで成績は上がるだろうと言うと、薫ちゃんは、あれはつまらない授業をする教師が悪いんだよ。源ちゃんに教えてもらうのは楽しいもん。
と言うのだ。
私は鼓動が高鳴るのを通り越して心臓が停止してしまうんじゃないかと思った。
薫ちゃんは今後もおねがい。と言うのでこれからも定期的に放課後に教える事になった。
薫ちゃん…恐ろしい子だ。
源ちゃんというのはうちの祖父の源一郎の事だが、薫ちゃんは自分に向けられている好意を知ってやってるのだろうか…。
もしなんとなく気付いてやってるなら薫ちゃんはとんだ悪女か、もしくは両想いかのどちらかだろう。
翌日、そこまでの事を先輩に報告してみる。
先輩は今日もカフェグラッセを頼んで上に浮いているアイスをスプーンで突いている。
先輩はアイスが溶ける前にほとんど食べてしまうのだが、それだとコーヒー部分が苦くないだろうか?
もともとコーヒーはブラック派なのかもしれない。
なるほどね、その薫ちゃんって子はなかなかのやり手だね。
男心を手玉に取るのが上手いよ。
もし純粋に勉強を教わってるだけだったら申し訳ないけれど、たぶんそんな事は無い気がするなぁ。
それが先輩の感想だった。
先輩としては割と好意を持っていると感じたらしい。
結局のところおじいちゃんの個人的で一方的な感想をしたためた物なので都合よく解釈されているような気もするんだけど。
先輩は、私もそんな風に誰かに夢中になるっていうのに憧れるなぁと遠い目をした。
確かに先輩の体質からして周りはただの信者集団だから自分から恋をする事っていうのは無いのかもしれない。
先輩は今までに好きになった人とかいないんですか?
と聞くと、うーん。幼稚園の頃保父さんが好きだったけど他の園児相手に不祥事をおこして警察沙汰になってからは恋心なんて感情は死滅しちゃったな。とさらに遠い目。
…これは触れちゃいけない話題のようだ。
だからもう私は一生恋愛とかはできないんじゃないかな。と先輩は寂しそうに呟いた。
確かに先輩の妙な特性は常軌を逸しているので、それに耐えうる男性を見つけるというのはそれこそ一生かかるかもしれない。
私は頑張ってくださいねなんて言葉しかかけられなかった。
六月十日
勝手に舞い上がっていた私に薫ちゃんは勉強しつついろいろな相談事を持ちかけるようになった。
どうやら好きな異性がいるのだそうだ。
胸が締め付けられる様に痛む。
しかし私はそれを決して悟られないように出来る限り平然と薫ちゃんの相談に応えていた。
薫ちゃんの恋の相手も、また皆の人気者だったのだ。
冷静に考えて、薫ちゃんの隣に居るべき人間として申し分ない。
美男美女というやつだろう。
私は自分の気持ちを押し殺し、薫ちゃんの応援をする事にした。
…おじいちゃんはこの時本当に辛かったのだろう。
この日は特に、筆跡が歪んで見えた。
筆圧もいつもより高いように思う。
私が同じ立場だったらどうするだろう?
好きで好きでたまらない相手が居たとして、その相手が恋の悩みを打ち明けてくる。
…気が狂いそうだ。
どうやっておじいちゃんは自分の気持ちに嘘をついて薫ちゃんを応援したのだろう。
どうしたらそんなふうにできるのだろう?
でも、すでに誰かの所へ気持ちが行ってしまっている相手を自分に振り向かせるというのはかなり大変だろうし、特におじいちゃんの場合は二人きりの時間を沢山持つことが出来ているのに、それでも他の誰かを選ばれてしまっているのだから勝ち目は無いのだろう。
だからと言って諦められるのか?
私はきっと無理にでも玉砕覚悟で告白してしまう気がする。
でもおじいちゃんはそうしない。
きっと二人の関係を壊したくなかったのだろう。
そうやって二人で勉強したり、自分の事を事を恋の悩みを相談するほど信頼してくれている事に満足していて、それ以上を望んではいけないと考えているみたいだった。
六月十五日
薫ちゃんは私のアドバイス通りに恋文をしたため、明日渡すつもりだと言った。
きっと薫ちゃんならばうまくいくだろう。
断る人などいない。
そのように思うのはひいき目が入っているからだろうか?
六月十六日
薫ちゃんは予定通り恋文を渡せたようだ。
その時はあまりの緊張で文を押し付けるように渡し、逃げてきてしまったとの事。
そんな恥ずかしがりやなところも愛おしい。
六月十七日
まだ相手からの返事は無いそうだ。
万が一薫ちゃんからの告白を断るような事があれば納得のいく理由を提示してもらわないと私の気がすまない。
六月二十日
薫ちゃんが、終始上機嫌だった。
今まで見た事の無い程の笑顔。
告白が上手くいったのだ。
相手も薫ちゃんの事をもともと好きだったらしいのだが、本当に自分が相応しいのかという事で悩んでいたのだという。
薫ちゃんの幸せを考えるからこそすぐに返事が出来なかったのだと。
素晴らしい事だ。
私も、それならば祝福せざるを得ない。
薫ちゃんには幸せになってもらいたいのだから。
…偉い。
おじいちゃんは偉いと思う。
好きな人なんて自分の物にしたくなるのが普通だし、そこに相手の幸せなんて考えられない。
まずは自分が幸せになるのが重要で、そこから二人で幸せになっていけばいいと私は思う。
でもおじいちゃんと薫ちゃんの恋の相手は最初から薫ちゃんの幸せを思っている。
時代的な問題なのか分からないが、私はそんなにできた人間を知らない。
みんな自分勝手で自分の事しか考えていない。
そう、私は他人を信じる事が出来ないのだ。
母親ですら、きっと全てを信じる事は出来ないし、本当の事をすべて打ち明ける事なんて無理だと思う。
仲のいい友達だって、所詮友達程度の存在で、身内でもなんでもない他人なのだから迂闊な事を言うとすぐ噂が広まって困る事になるだろうって思って接している。
最低だ。
きっと人間ってそれじゃダメなんだろう。
仮に裏切られる事になったとしても人を信じ、真摯に向き合っていかなきゃいけないんだろうって思う。
思いはするんだけど、私にはできそうにない。
…待って。
どうしてそこで頭に先輩の顔が浮かぶんだ。
先輩なら…。
そんな風に考えてしまった。
だったらどうしたっていうんだろう。
別にただ単に先輩だったらどうかなって考える事がおかしい事じゃない。
友達は信じられない。
親も信じられない。
じゃあ先輩は?
ってそこで、その順番で疑問に思う事が問題なのだ。
どうしてそこで、友達も親も信じられないんだから先輩だって無理。
ってならないんだろう。
不思議だ。
その日はずっとそんな事ばかり悩んでいた。
翌日、また先輩に時間を作ってもらって話をしていたのだが、何となくその疑問の正体というか、答えが分かった気がした。
私はこんな風に相手を思いやったり、信じて恋の悩みを打ち明けたりなんていうのは絶対に出来そうにないなぁ。
先輩がそう言ったのだ。
私と同じ。
先輩もきっと誰も信用していないのだ。
だからこそ私はそんな先輩の事を信じられるかもしれないと感じていた。
何故だか分からないけど。
そんな気がしたのだ。
しかし君のおじいさんはバカだね。
確かに相手の事を思いやる事はとても尊い感情だと思うし人間としては素晴らしいと思うよ。
だけどね、相手の幸せを思うあまり自分の気持ちを伝えられないなんて愚かだよ。
人間なんて結局自分が一番でいいと思うんだよね。
私からしたら、そんな事で我慢できるような感情だったんだ?って思っちゃうんだよ。
先輩はそう言って口を尖らせる。
おじいちゃんの態度が気に入らなかったらしい。
先輩はいつだって正直だ。
誰に対してもそうなのかは知らない。
でも少なくとも私が目にしている先輩はとても正直に自分の感情を表に出しているように思う。
先輩は、私に言えない事とかってありますか?
つい、気紛れでそんな事を聞いてしまった。
聞いてから、やめておけばよかったと激しく後悔する。
言えない事なんて誰にだってあるし、それが当然なのに。
それなのに、私は、あるよ。っていう言葉を聞きたくなかった。
きっと私の心がもやもやするから。
え?別にないけど?
先にアイス部分を全部食べてしまってただの苦いコーヒーと化したカフェグラッセを飲みながら先輩は軽い口調で言った。
んなアホな。
私は思った通りに口に出してしまった。
んなアホなって何?
先輩はコーヒーを吹き出しそうになりながら笑った。
別に嘘なんてついてないよ。
私にとってはこんな風に会話できるの君だけだし、大事にしたいとは思ってるよ?
だけど、この関係を大事にするあまり言いたい事も言えないのってちょっと違うと思う。
だから私の言う事がおかしいと思ったら反論してほしいし、どうしても理解できない、もう付き合いきれないと思ったらいつ離れてくれたって構わない。
先輩はずずずっとコーヒーを飲み切り、グラスの根元の部分をその綺麗な指でとんとんと叩きながら言った。
呼吸が苦しくなる。
動悸が激しい。
なんだか気持ち悪い。
私はバクバク言ってる心臓をごつっと右の拳で一発叩いておとなしくさせた。
そしてなんだか無性に腹が立ってきた。
関係を大事にしたいとか言いながらいつ離れてくれてもいいなんてふざけてる。
結局私なんていついなくなってもいい程度の存在という事だ。
そりゃこれだけ奇麗で可愛くて誰にでも愛されて尊敬されて崇拝されている先輩にとって私一人いなくなった所で何も変わらないのだろう。
暇つぶしが一つなくなる程度の事なんだ。
でもね、勘違いしてほしくないのは、君が離れたいというなら離れてくれていいけれど私は離れる気がないって事だね。
…はぁ?
飲み終わった後のストローをはしたなく口でがじがじやりながら唇の力だけでぴこぴこ上下させつつ先輩が言う。
私は訳が分からなかった。
どういう意味なのか尋ねると、
別に君が離れたって私は離れないよ。嫌がられたって君を手放す気にはならないから付きまとってやるさ。そのうち諦めてまた話を聞いてくれるようになるまでね。
テーブルに両肘をつき、頬を両手で挟むような姿勢でにこにこ笑う先輩が、ストローをぴこぴこさせつつ私をぶっ壊した。
私は馬鹿みたいに大口をあけっぱなしで次の言葉を吐き出せずに頭の中ブラックホールみたいになって何も考えられずに自分の頼んだカフェグラッセのアイスが溶けて完全にコーヒーに混ざってカフェオレみたいな色になっていくのを呆然と見つめていた。
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