1-2 幽霊の噂

 朝日が窓から差し込む。ベッドの上で布団の山がもそもそと動いた。しかしすぐにその動きは止まる。それから更に時間が経ってから、ようやくアイラの頭が布団の下から現れた。

 陽の眩しさとまだ残る眠気で目をしょぼつかせながら、アイラはベッドから起き上がった。顔を洗って服を着替え、口から首元にかけてスカーフを巻き、髪を手櫛で整えて頭に細くバンダナを巻く。

 身支度を整えたところで、欠伸を噛み殺しながら宿を出てバザールに行く。朝食としてライ麦パンを一切れと酸味のあるリムの実のジュースを買い、傍のテントで食べる。

眠気は消えているものの、食欲があるわけではない。ぱさぱさしたパンは、噛めば噛むほど口中の水分を奪っていく気がする。パンをジュースで流し込みながら、アイラは周囲で交わされる話を聞くともなく聞いていた。

 西の方で起きている少数民族同士の争いの話。レヴ皇国で猛威をふるっている病気の話。最近あちこちで盗賊が増えているという噂。若い女が難癖をつけてきた男をあっさり返り討ちにした話。どちらの名前も出なかったが、自分のことだとすぐに分かる。

「全く、早いこと」

 口の中で呟いて、アイラはテントを出た。バザールの中を歩き回り、携行食として干し肉と干した果物、氷砂糖、何種類かの木の実を混ぜて焼き固めた菓子などを買う。買ったものを防水布でできた袋に入れてもらい、他に何か買うものは無いかと他の店を見て回る。そして買ったのは防水布の袋、火口、小型ナイフ、革紐を一束。それから個人的に、金属製の細いリングを二つ買った。買ってすぐ、金と銀に塗られたそれらを手首に通す。服の袖で隠れるのが残念だ。

 ふと思い立って靴を脱ぎ、左の足首に通してみる。なかなか良い。歩き出すと、動きにあわせてリングが小さな音を立てた。

 昼にはまだ時間がある。アイラは宿の部屋に戻ると、荷物の整理に取り掛かった。携行食、所持金、その他の貴重品を均等になるように気をつけて、いくつかの袋に分ける。こうして分けておけば、万が一何かあっても、全財産を失くす恐れはかなり減る。

 一通り整理を終え、ベッドに腰掛ける。無意識の内に手がスカーフの上から首元に触れていた。舌打ちをして手を下ろす。

(やはり、隠したところで忘れられないか)

 アイラは軽く首を振り、荷物を開いてナイフと木切れを一つ取り出した。スカーフを一枚膝の上に広げ、木切れを削っていく。掌に収まるくらいの小さな木片だが、アイラの手つきは慣れたものだ。角が徐々に削られ、滑らかになっていく。

 真剣な目で木を削るアイラの手の中で、木切れが次第に形を変える。うずくまる何かの形になり、その何かが少しずつはっきりした形を取り始める。前足、後ろ足、頭、そして長い耳。ウサギだ。

 できたウサギを満足気に眺め、丁寧にしまう。ナイフを片付け、木くずの処分を終えてから、そろそろ昼食をとろうと財布を持って部屋から出る。

 外に出ると、太陽の光が肌を差した。熱気に包まれる。さすがにこの暑さの中、歩いている人影は少ない。ほとんどがテントの下や建物の影で、強い日差しを避けている。アイラも近くの屋台でアルの実を二つ買い、急いで適当な日陰に向かった。

 アルの実を一口かじる。とろりとした果肉と、たっぷりの果汁が喉をつたって落ちる。今年は気候が良く、アルの実の収穫は例年以上だったと聞いた。その上何か新しい方法で栽培した、とも。そのためか、このアルの実はアイラが知る物よりずっと甘い。

 アルの実を二つとも食べ終えたアイラは種を捨て、水飲み場へと向かった。何人かが周りで水を飲んだり、水袋や水筒に水を汲んだりしている。アイラも小さな水筒に水を詰めた。

 戻ろうかと横を見ると、少年が一人、水を汲もうと懸命に背伸びをし、手を伸ばしている。しかし後少しのところで届かない。

「汲もうか?」

 少年が頷いたのを見て、アイラは彼の手から水筒を受け取った。たっぷり水を入れ、蓋をして少年に返す。

「ありがとう!」

 少年が水筒を抱えて走って行く。その後ろ姿を、アイラは目を細めて見送った。

 宿に戻る途中、アイラはザールを見かけた気がした。彼らしき後ろ姿は、すぐに人の中に紛れて消える。

 昨日のことを思い返し、大した相手ではなかったと結論付ける。考えたことはそれだけで、すぐにアイラの頭の中は、明日からの仕事に切り替わった。方向を変え、冒険者の宿などがある一角へ足を向ける。

 出会った数人の顔見知りと挨拶をかわしながら歩いていると、不意にアイラの耳に声高に叫ぶ声が聞こえてきた。

「嘘なんか言ってねえったら! ほんとに見たんだよ、俺は!」

「お前寝ぼけてたんだろ。そんな話があるわけねえじゃねえか」

「ほんとに見たんだったら!」

 わっと笑いが起こる。

「何の騒ぎだい、ありゃ」

「ロットの奴がさ、幽霊を見たんだとさ」

「……幽霊? どこで?」

「アルメらしいぜ。 馬鹿馬鹿しいや」

「見たっつったら、ほんとに見たんだっ!」

 一際大声でロットが叫び、そのままきっと口を結んで黙り込んだ。周りにいた人は一人二人とその場を去って行く。やがてそこに残ったのは、アイラとロットだけになった。アイラは彼がそこにいることなど気にしないふうで水を飲み、ロットは興奮で頬を赤く染めてその場に立っていた。

「何だよ、何か言いたいことがあるんなら言えよ。どうせ俺を馬鹿にするんだろうけどな」

「そうして何でもかんでも一人合点するなら、私にわざわざ聞くことないだろうよ」

 アイラはちょっと言葉を切り、今度はゆっくりと、考えながら言葉を続けた。

「別に私は……私は幽霊を信じ込むような性質じゃないけれど……だからって見たと言ってるのを頭から馬鹿にするような……そんな嫌な性格じゃない」

 ロットが驚いたようにアイラを見る。アイラは肩をすくめてその場を立ち去った。

(幽霊……ねえ)

 ヤスノ峠を越えてオルラントに向かうなら、アルメは確実に通る。何も起こらなければいいのだが。

 それからいくつか冒険者の宿を回り、アイラは特にヤスノ峠についての情報を集めて回った。魔物が出るという話、盗賊がいるらしいという話。ヤスノ峠について聞けたのはそれくらいだ。むしろ話に上るのはアルメの方で、そのほとんどが幽霊話に関するものだった。

 日が傾き始めてから、アイラはゆっくりとした足取りで宿に戻った。その途中、屋台でチーズとパンを買う。

 宿の部屋で夕食をとる。そうはいっても食べるのはさっきのチーズとパン、それに水を飲むだけだ。

 食事を終えるともう一度荷物を点検し、湯浴みを済ませる。やるべきことは全て終えた。しかしアイラは眠ろうとはせず、部屋を出ると静かに宿の小さな裏庭へと向かった。

 夜ともなればさすがに気温は昼間より下がっている。涼しい風に触れ、小さく身震いしたアイラは一度深呼吸をした後、足を肩幅に開いて立った。

 目を閉じ、開くと同時に右手の拳を突き出す。それを引っ込めた後は舞うような動作で左の拳、左足での回し蹴り、軸足を変えて右足での蹴り。手は急所を庇うように構え、身体は決して同じ場所に留まらない。動き続けながら架空の敵に攻撃し、架空の敵からの攻撃を受ける。聞こえる音と言えば、アイラの呼吸音と衣擦れの音くらいだ。

 やがて拳は手刀に、足先での蹴りは膝蹴りへと変わり、その動きも速さを増していく。しばらくの間目まぐるしく動き回り、最後に右の手刀を振り下ろして息を吐く。

 再び静かに部屋に戻り、湿った布で身体を拭くと、アイラはベッドの上に胡坐をかいた。目を閉じ、静かに自分の呼吸音だけを聞く。思い描くのは、闇。何も見えず、何も聞こえない、そんな空間。

 徐々に自分の呼吸音を意識から締め出す。そしてそのまま、意識を落とした。

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