八ノ巻  野次馬、尾行中(四)


 男は、疲れていた。

 それは精神面だけの話だったはずだが、今でははっきりと言い切れない。

 手も足も鉛のように重く感じる。

 気のせいなのか、それとも本当に身体も疲れているのか。


 憑鉧神が現れるようになってすぐ、キョートピア政府はある法律を制定した。

 国民総幸福保健法。

 要約すると、キョートピア国民はいついかなる時も幸福であらねばならない、というものだ。


 憑鉧神というのは、長い年月を経て変質したことで式神同様の性質を得た古代の遺物が、人々の無意識下の破壊衝動を受けて暴れ出した『人災』――とされている。


 なぜ人々が破壊衝動を抱くか。それは日々のストレスが原因である。

 「ああ起きたら会社潰れてねえかな」「あのクソ教師死ねばいいのに」「あいつキモい」そんな想いが積もり積もって憑鉧神を暴れさせるのだ。

 それが人情というもの、仕方ない――というには、あまりにも被害が大きかった。


 古代の遺物ははるか地中、無数に眠っている。

 今更キョートピア中を掘り返し、すべての遺物を取り除くなど不可能だ。


 もはや嫌も応もなかった。国民には常に明るくポジティブで、心安らかでいてもらわねばならない。

 いつも笑顔を、周囲に感謝を。不満を抱くな。仲良くしろ。


 キョートピアにも地球でいうところのSNSに似たものはある。

 国民総幸福保健法の施行と同時に、それは政府の監視下に置かれた。

 評価、いわゆる「いいね」をどれだけつけるか、どれだけポジティブな書き込みを行っているかが査定の対象となった。それが乏しい場合は懲罰にかけられる。


 SNSをまったくやらないのも、やはり糾弾された。

 他者に対する心の壁は、集団に対する敵意を育むとされるからだ。

 なにを考えているかわからない人間は周囲の警戒心を煽り、不和の元となる害悪である。


 今では国民のほぼ全員が複数のSNSに加入し、活発に書き込みを続けていた。

 男も例外ではない。

 目につく投稿に片っ端から高評価をつけ、肯定的なメッセージを送る。


 おかげで憑鉧神の出現頻度は減った――のは一時的だった。

 最近は再び上昇の兆しを見せている。


 検閲はより厳しくなった。

 機械的に「いいね」を押しているようでは駄目なのだ。

 対象をちゃんと吟味した上で高評価しているか。

 コメントは心のこもった文章になっているか。

 ただ片っ端から高評価ボタンを押したり、同じ文面を連続投稿しているようなものも処罰の対象となった。


 今、書店には『心から「いいね」を押せる考え方とは』『機械的にならないコメントを書くには』といった内容の啓発本が溢れている。

 だがそれも使われすぎるとマニュアル化し、やはり本心ではないと見なされた。

 1ヶ月くらいのスパンで新しい方法論が現れ、そして消えていく。


 現実の生活においては、人は常に笑顔を要求された。

 日常のなんでもないこと――春の曙光に山際が白く照らされるさまなどに感動するよう強要される。


 街を歩けば、人々はみな笑顔だ。

 男が周囲にそうするように、周囲は彼に対して挨拶し、微笑みかけ、賞賛し、応援してくれる。


 美しき、優しい世界。


 ――くそくらえだ。


 男は知っているのだ。いや、みんな知っている。

 賞賛と笑顔と激励の1枚裏には、冷めた無関心が隠れていることを。

 人々がかけてくれるあたたかい言葉は、あたたかい言葉を言うためのあたたかい言葉であって、男のためではない。自分が政府に睨まれないためだ。


 ただの――芝居。


 くだらない。うんざりだ。吐き気がする。

 そうは思っても、口には出せない。

 自分の素直な感情を吐き出すことで、誰かが命や家を失うとすれば――従うしかないではないか。

 キョートピアを出て、砂漠の苛酷な環境や異種族の襲撃に怯えて暮らすのもまっぴらだ。


 そうしている間に、男の感情はゆっくりと死んでいった。

 心が死ねば、身体も死ぬ。


 もはやどこかもわからぬその場所で、男は腰を下ろしたまま、立ち上がれなくなってしまっていた。

 それからいったいどれだけの時間が流れただろう。

 服は風雨にさらされてボロボロになり、空腹で腹が鳴り続けていたが、男はもう、その意味を理解することはできなかった。

 そもそも、自分がどこの誰で、なにをしていたのかさえ、思い出せない。


 だから、黒縁眼鏡をかけた少年がうっかり自分を蹴り飛ばしても、それは男の心になんの変化ももたらさなかった。


「すみません、ぼーっとしてて! お怪我、ありませんか?」


 将吾郎は、頭を下げる。

 曲がり角に隠れるようにして、人が座っているとは思わなかった。


「…………」


 相手はなにも答えない。将吾郎のほうに目もくれない。

 蹴飛ばしたときだって呻き声1つ上げなかった。

 将吾郎は相手の目の前で手をヒラヒラさせてみた。

 やはり無反応。視線は虚ろだ。


 ――ひょっとしてこの人、具合が悪いんじゃないのか。


 誰かに助けを求めようとして、そこで自分がこの世界の人間と会話できないことを思い出した。


 ウロウロと周囲を見回して、将吾郎は気づく。

 目の前の男だけではない。老若男女問わず、少なからぬ人間が街のあちこちに座り込んで、置物のように固まっていた。

 そんな彼らを、笑顔を浮かべた通行人たちは完全に無視している。


 なんなんだ、この街は――。


「ショウゴロウ!」


 ポンテとカルネロが来てくれた。


「いいところに。この人、様子が変なんだ」

「ああ――野良ソクシンブツね」

「即身仏?」


 地球におけるそれは、僧侶が地中で瞑想したまま餓死し、ミイラになったものだ。

 だがキョートピアでは――。


「キョートピアの一般国民は、憑鉧神を生まないために、常に明るく楽しい気分で生きるよう強制されてる。でもねショウゴロウ――人は、光の中だけでは生きられないものよ」

「誰も助けようとか、病院に運ぼうとか、思わないのか……?」

薬師くすし様なんて、貴族じゃあるまいし」

「…………」

「みんな、それぞれ大変だからね。助けたところで、自分にとってプラスにならない。そんな相手に関わっている時間が惜しい。人生の無駄だ――くらいに思ってる」

「……ミチナガは、知ってるのか」

「知らないと思った? ここの社会を作っているのはフジワラ社よ。専務様ともあろう者が、把握してないはずがない」


 将吾郎は拳を握りしめる。

 ぐずぐずしている場合ではなかった。

 やはり裕飛には、真実を伝えなければならない。

 たとえ奈々江の幸せを粉々にしてしまうことに繋がるとしても。



 そんな彼のはるか頭上を、黒い影が旋回していた。

 地上を這う人間たちにとってそれは、どこにでもいるような鳥としか見えなかっただろう。

 けれどもし、それを近くで見ることができたなら。


 将吾郎にじっと視線を向けるそれは、式神殿でハルアキラが使っていたのと同じ、鴉天狗の形をしていた。


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