二ノ巻 異世界、初体験(二)
「あなた、旅人さん? キョートピア名物『アップル』『ジョード』、いらんかね?」
「いりません。放っておいてください」
気がつくと米河逸花は、見知らぬ街に1人佇んでいた。
乾いた暑さと、しつこく話しかけてくる入れ墨の男にうんざりしながら、逸花は左右に視線をさまよわせる。
「今、何時なんだろう……?」
スマホの時計は午前1時を示していたが、頭上に広がる青空には太陽が輝いている。
ちなみに、通話はおろかネットにも繋がらない。
「ていうか、ここ、どこ……?」
何十メートルもある高い壁に囲まれたビル街。
ほとんどのビルはせいぜい2、3階までの高さしかない。
その代わりだろうか、地下へと続く階段が至る所に見受けられた。
看板の文字は漢字に酷似しているものの、これまで見たこともないものばかりだった。
大通りを行き交うのは、自動車ではなく牛車。
それも牛とは思えない速度で風のように歩み去って行く。
その脇を行き来する人々の身なりは、まるで時代劇を思わせた。
男は
いずれも大昔の――平安時代頃の衣装だ。
平安時代と違うのは、老若男女問わずほぼ全員が、イアリングやネックレスなど、琥珀のアクセサリを身につけていることだ。
気になるのはその表情だ。
全員が貼り付けたようなアルカイック・スマイルを浮かべている。
楽しそうという印象は欠片も受けなかった。
これほど白々しい笑顔を逸花は見たことがない。
笑顔を浮かべていない者もいる。
道端に座り込み、ピクリとも動かないその人々は、魂の抜けたような顔をしていた。
「あなた、元気よくないね。そんなことじゃ
まともなのは、さっきからまとわりついてくる麻薬の売人めいたこの男くらいだ。
乾いた暑さはまだ耐えられなくもないが、落ち着いて考えることを妨害するキャッチセールスは逸花の忍耐力を越えた。
「ほっといてください!」
突き飛ばすようにして突破。
だが少し歩いたところで、後ろから強い力で引っ張られた。
振り向いた逸花は、偽りの笑顔を脱ぎ捨てた男の凶相に息を呑んだ。
「この野郎、優しくしてりゃつけあがりやがって!」
「…………!」
助けを求めて逸花は周囲に目を走らせる。
だが、誰も逸花に目もくれない。
ニコニコした顔で通り過ぎていく。
「――そこまでだ」
美しい旋律のような声が場を支配した。
入れ墨の男は声のした方を振り返り、逸花の目もそれを追いかける。
若い男がそこにいた。
すらりとした長身。
柔和な、しかし確かな精悍さも持ち合わせる秀麗な紅顔。
イケメンじゃん、と逸花は無意識に呟く。
青年もまた、古い時代の服装に身を包んでいた。
それも平安貴族のものだ。
入れ墨の男は、ぱっと手を離すと跳ねるように引き下がり、その場に平伏した。
どうやらコスプレではなく、本当に貴族らしい。
貴族の青年は、逸花の目の前まで歩み寄ってきた。
右耳にぶら下がった琥珀のイアリングが揺れる。
「イチカ・ヨネカワ殿とお見受けしましたが、
「…………?」
青年の声がする。けれど彼の口は動いていない。
まるで人形を忘れたのに気づいていない腹話術師のようだ。
そういえば、さっきの売人も歯を剥きこそすれ、口は動かしていなかった気がする。
「……もしかして、人違いでありましたか?」
「い、いいえ、あたしは逸花ですけど……」
よかった、と青年は破顔。
つられて逸花の頬も自然と緩む。
「それがしはヨリミツ・ノ・ミナモトと申す者」
「えっ……」
平安時代にいた武士の名前ではないか。偽名か?
「そなたを探しておりもうした。どうぞこちらへ」
「で、でも……」
「ご心配なく。ユウヒ・アルタも
「裕飛が!?」
少女の瞳に力が戻るのを見て、ヨリミツは微苦笑した。
「大事に想われておられるのですね」
「え? いや、そういうんじゃなくてですね? あいつ、バカだし、中二病だし、あー、まだあいつの面倒みなきゃいけないのか。いやだなあって」
「ふむ。チュウニビョウというのは寡聞にして存じませぬが、確かに短慮にして軽率な男でありましたな。少々礼儀に欠ける……」
「……え、あ、でも、いいところもあるんですよ。あいつ、いっつも厄介事に首突っ込みますけど、それ、いつだって誰かを助けるためで、それで」
「存じておりますとも」
そこでようやく逸花はヨリミツにからかわれたと気づいた。
耳まで朱に染まる。
「続きは向こうについてから、というのは?」
「あ、はい……あっ」
安心して気が抜けたからだろうか、逸花の脚から力が抜けた。
尻餅を覚悟したが、そうなる前にふわりと受け止められる。
「あ……」
ヨリミツが逸花を抱きかかえていた。
それも、お姫様抱っこというやつだ。
さらに赤くなった逸花を牛車に運び込むと、ヨリミツは琥珀のタブレットに指を這わせる。
音もなくドアが閉まり、誰に引かれるでも鞭打たれるでもなく、牛が走り出す。
スピード感も乗り心地も、自動車となんら変わりなかった。
冷房の効いた車内。全身の汗が引いていく。
窓の外を流れる景色に逸花は目をやった。
薄灰色をした舗装路。瓦屋根の屋敷をぐるりと覆い隠す白壁。
まるで平安京のようだ。
だが反対側を見れば、そこは近代的なビル街がある。
(もしかして、イセカイってやつ……?)
いつか行くんだと、裕飛がいつも言っていたファンタジー世界。
まさか自分まで巻き込まれるとは思っていなかった。
(うわぁ……。笑えねえ……)
どっと疲れが押し寄せてくる。
「イチカ殿は……、おや、イチカ殿?」
いつの間にか、逸花は寝息を立ててしまっていた。
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