二ノ巻  異世界、初体験(一)


 姉の奈々江がこの世界から消えたのは、有田裕飛が11歳の時だ。


 その数日前から姉はおかしかった。

 突然誰かに呼ばれたようにキョロキョロしたり、何者かと話しているかのようなクオリティの高い独り言を吐いたり。


「奈々江さん、好きな男ができたんじゃないの」


 将吾郎はそう言ったが、それはないと裕飛は笑い飛ばした。

 家の外でもジャージでうろつき、化粧もロクにしない、男みたいな姉が、レンアイ? ありえない!


 だが、現実はもっとありえない方向に転がった。



 ある日突然、山の中に分け入っていった姉。

 将吾郎とこっそり追いかけていくと、そこには見上げんばかりに巨大な影があって。

 それは5本の角を持った鬼に見えた。


 ――ごめんな、ユウ。ちょっと世界を救いに行ってくるわ。


 鬼の前で自分たちを振り返った姉は、困ったような、悲しんでいるような顔を浮かべ。

 次の瞬間、黒板の文字が消されるように、姉と鬼はこの世界から姿を消した。


 将吾郎は泣いていた。

 いつも仏頂面の友人が剥き出しの感情を見せるのは珍しい。

 人間1人消えたのが、よっぽど怖かったのだろうと裕飛は思った。


 一方、裕飛はといえば、ちっとも怖くなかった。

 むしろ、感動していた。


 きっと、姉はどこか遠い世界に旅立ったに違いない。

 つまり――童話の中にあるような異世界は、実在するということだ。


 きっと自分もいつか行ける。だってあの姉の弟なんだし。

 そうとも、異世界に消えた姉がいるなんて、いかにもそういう話の主人公の設定ではないか。

 そう考えれば、物心ついてすぐ両親が死んだのだって説明がつく。


 ――オレの抱えた不幸は、オレが壮大な物語の主人公となる運命を示すものだった。


 強引すぎるこじつけだ。

 だがそれは幼い裕飛にとって、自身の抱えたコンプレックスを解消するに充分なものだった。


 そうと決まれば今から備えておかなければなるまい、と彼は考えた。

 どうせファンタジーの主人公になるのなら、正統派がいい。

 それも王道英雄譚、できればハッピーエンドの。


 そういうわけでその日から、裕飛は物語の主人公のように振舞った。


「お婆ちゃん、荷物持ってあげようか」


「道、わからない? OK、案内しますよ!」


「おおっと、そこまでだ! カツアゲなんて許さねえぜ!」


 その行動の数々は、味方以上に敵を増やし、彼を孤立させた。

 助けられないこともあれば、助けた相手から罵倒されることもあった。

 なにせ、異世界の勇者に選ばれるためだなどという戯言を、隠しもしなかったので。


 別にかまいはしない。

 目の前の彼らのためにやっているのではないのだし。

 どうせ異世界にはこの世界の人間関係など持ち込めないのだから。


 そして――。


 そろそろ進学か就職か、真面目に現実の人生と向き合わざるをえなくなった頃。

 ようやく、裕飛の願いは叶った。


 彼は今、念願の異世界にいる。

 ただし空の上だが。


 比喩でもなければ、なにかに乗っているわけでもない。

 身1つで、空中に浮かんでいた。

 バタバタと、気流が服をはためかせる。


「……は?」


 状況を把握する前に、重力が彼を捕まえた。

 真っ逆さまに落ちる小さな身体。


「あれええええ!?」


 彼にとって幸運だったのは、落ちた先が水の上だったことだ。

 地面の上だったら無事では済まなかっただろう。


(がぼぼぼっ!?)


 熱を持った水が鼻孔に流れ込んでくる。

 溺死という単語が脳裏を走った。

 振り回した手がなにかにぶつかる。

 嫌も応もない。裕飛はそれにしがみつき、自らの身体を水上へ押し上げた。


「ぶはっ!」

「ひっ!?」


 すぐ目の前から人の声。

 急いで目を開ける。

 そして――せっかく水中から脱出した彼は、呼吸を忘れた。


 見上げればすぐそこに、彼と同じか、少し年上に見える少女の顔があった。

 艶めかしく上気した薄桃色の肌。

 光り輝くような白金の髪。

 芸術品のように整った顔立ち。

 切れ長の瞼の中、ルビーのような赤い瞳が怯えを滲ませて彼を見返している。


 美しいその少女は、なにも身につけていなかった。

 そこで裕飛は今自分が浸かっている暖かい液体が露天風呂の湯で、自分が少女の腰にしがみついていること、さらに右手は少女の小ぶりな胸を鷲掴みにしているという事実を認識した。


 けれど。

 少女の美貌や体温、手から伝わってくる柔らかさ以上に、彼の心を掴んで離さないものがあった。


 それは、耳だ。

 彼女の耳は、真横に向かって――正確には若干斜め後ろに向かって――細く伸びていた。


「すげえ……!」


 裕飛の目が輝く。

 

「え、マジ? すごくない? エルフじゃん!」


 混乱の極みにあった少女は、今度こそ悲鳴をあげた。

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