二ノ巻  異世界、初体験(三)


 将吾郎は寝起きがいいほうではない。


 だから目を覚ました時、そこが自室のベッドでもなければアシガリオンのコクピットでもない、鬱蒼と茂った森の中であったにもかかわらず、しばらくぼんやりとしていた。


 しかしそれも、フランスパンほどもある極彩色のイモムシが腕を横切るまでだ。


「ひゃあアアアあ」


 裏返った悲鳴に、4枚羽根の鳥が大急ぎで逃げていく。

 固い木の幹に背中がぶつかるまで後ずさる将吾郎。

 イモムシははね飛ばされたことを意にも介さぬ様子で、TiTiTiと鳴きながら悠然と通り過ぎていった。


 イモムシに触れられた部分に異変が見られないのを確かめ、ようやく心臓が落ち着きを取り戻す。


 アシガリオンで魔法陣に突っ込んだところまでは覚えている。

 そこからなにが起きて森の中に寝転ぶ流れになったのか、さっぱりわからない。

 裕飛はどこに行った。アシガリオンは。


「ここは、いったい、どこなんだ……?」


 親から分厚い昆虫図鑑を押しつけられたことはあったが、将吾郎が昆虫に興味を持つことはなかった。だが門外漢であっても、あんなに大きなイモムシ(しかも鳴く)が日本にいるとは思えない。


 耳を澄ませば、滝の音が聞こえた。

 とりあえずそれを目星に、将吾郎は歩き出す。


 周囲は見渡す限り緑で染められていた。

 好き放題に伸びた木々、苔に覆われた大地。

 生い茂った葉が青空を覆い、まるで緑色の牢獄に閉じ込められたようだ。

 息が詰まる。


「――あ」


 滝壺には先客がいた。

 人間だ。水浴びをしている。

 肩甲骨まで伸びた長い黒髪と体つきからして、女の子だろうか。

 細くしなやかな褐色の肌。くびれた腰から臀部に繋がる滑らかなラインに、将吾郎の目は釘付けになる。


(いや、いかんいかん)


 慌てて目を逸らす。

 もしバレたらただでは済まない。


(とりあえず助かった。少なくとも川の中にワニやピラニアなんかはいないってことだ。それに彼女とコミュニケーションが取れれば、食べ物だって――)


 食べ物。

 その言葉から想起されるイメージが脳を占拠した途端、腹の虫が鳴った。

 岸辺に上がりつつあった少女の足音が止まる。


タレカ!?」

「す、すみません――」


 両手を挙げて、将吾郎は姿を見せる。


「怪しい者じゃない、ただの通りすがり――で――え?」

「――見た!?」


 相手は肩を抱き、川の中に身を沈めた。


「見てません!」

「嘘よ……! 乙女の裸を覗き見るなんて、サイテー!」

「いや待って! あなた、乙女じゃないでしょ!?」


 見てしまった。

 少女の股間でぶらりと揺れたもの。

 将吾郎をはじめとする男性にとって馴染み深い、あの器官を。


 少女ではなかった。少年だった。


「やっぱ見たんじゃない! 殺すッ!」

「そこまで!?」


 ドン、という鈍い音。

 将吾郎の頭、そのすぐ横にある木の幹に、さっきまでなかった五寸釘が突き立っていた。

 投擲体勢の少年と釘を交互に見て、力ない笑いを浮かべた将吾郎は――回れ右。


「待ちやがれ!」

「ごめんなさい!」


 元来た道を戻りながら、将吾郎はぼんやりと考えた。

 裕飛やユカリも自分と同じく、どこか見知らぬ場所に1人でいるのではないか。

 だとしても――たぶん、自分が1番酷い目に遭っている、そんな気がした。


「――あれ?」


 追いかけてくる気配が、いつの間にか消えていた。

 こういうとき振り返ってはならない、というのは知っていたが、将吾郎は足踏みしつつ振り返る。

 あるのは静かな森の風景だけ。

 左右にも視線を巡らせたが、あの少年の姿はない。


 あきらめたか――。


 ほっと息をついた、その時だった。


 ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!


 風を切る音が連続した。

 細長い物体が将吾郎の足元に突き立つ。

 矢だ。


「森から出ていけ、不浄の民!」

「キョートピアのレッサーエルフ!」

「土の壁の中に帰れ!」


 いつの間にか、古代の狩猟民族のような衣装に身を包んだ人々が、樹上から将吾郎を包囲していた。

 白金の髪。雪のように白い肌。そして横に向かって鋭く伸びた耳――。


 裕飛ならこう呼んだだろう。

 『エルフ』と。


 彼らはみな弓を構えていた。

 鋭く尖ったやじりはすべて、将吾郎にピタリと向けられている。

 将吾郎は両手を挙げ、からからに乾いた舌を動かし、なんとかこう言った。


「あ、アイムソーリィ……」


 待てよ、さっき日本語で話しかけられたんじゃなかったか――と戸惑っているうちに、足元にまた矢が突き刺さった。

 どうやら森から追い出したいらしい。


「わかった、出ていきます。でも、どっちの方向にいけばいいのかわからなくて――」

「耳障りな鳴き声をあげるな! 黙って出ていけばいいんだ、わからないのか!」


 将吾郎を取り囲むように矢が突き立つ。

 一方向だけ矢がない。そちらに進めということらしかった。


 ――出て行くって言ってるのに。


「すみませんでした!」


 後退りで距離を取ってから、回れ右して一気に駆けだす。


 森は唐突に終わった。

 さっきの滝壺の下流だろう、大きめの河を挟んで小石の絨毯じゅうたんが広がっている。

 そこで、あの少年が将吾郎を待っていた。


 流石にもう服は着ている。ノースリーブの革シャツと、やはり革のミニスカート。そこからしなやかに伸びた細い足が艶めかしい。股間に生えたものを見ていなければ、将吾郎は相手を少女と信じて疑わなかっただろう。


「あ……さっきは、ごめんな、さ」


 少年は山刀マチェーテを取り出した。

 その眼光には一切の感情がない。

 殺される――。将吾郎は慌てて両手を挙げた。


「待って。謝ってるじゃないですか! ちゃんと言われたとおり出て行きますし!」

「みんなが森から出て行けと言ったのは、森を血で穢したくなかったからよ」


 振り返ると、さっきの人々が森の中からこっちを監視していた。

 逃げ込んでくるようなら射る、という無言の圧を感じる。


 たった一跳びで、少年が将吾郎のすぐ目の前まで迫った。

 獣のような素早さに、将吾郎はなんのリアクションも取れない。


(さようなら、僕の人生――)


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