第16話 宮中の鬼姫 其の三

 まさか自分に声がかかるとは思っておらず、雲雀はきょとんとする。

「ええよ、飛ばしてもらって」

「そういうわけには参りません。雲雀様も歌合の人数に入っているのですから」

 雅親はかすが、雲雀の紙札は白いままだ。待ってもらっても歌が出てくることは絶対にないので、素直に雲雀は白状する。

「そぎゃんこと言われても、歌なんか詠んだことないしなあ」

「歌を、詠んだことがない?」

 その告白に女房達はざわつき、驚きは次第にくすくすという笑い声に変わる。

「ほら、雲雀様は武家出身だもの」

「雄成岳では文字を書ける人も少ないと言いますし」

「きっと、四季の花をでることもないのでしょうね」

 八雲京の文化が雅で形式的なのに比べて、雄成岳は地味で実用的。

 びと言って、豪華けんらんよりも簡素閑寂を好む美意識の違いがある。

 ただそれだけのことなのに、まるで劣っているかのように言われるのは心外だった。

「歌を詠めることが、そんなに偉いんか」

 ぼそりと思いを口にすると、今度は一斉に言葉は攻撃的なとげまとって襲ってきた。

「まあ、開き直るなんて」

「歌わない人など、獣と同じでは?」

「そんな方に、中宮の座をお任せできるのかしら」

 まるでとびきりの餌を前にした烏のよう。くちばしをせわしなく突き出して、雲雀の失言を食い散らかしにかかっている。

 その浅ましさに自ら気づけないとは、なんと可哀相な連中だ。

 そして自らの境遇の、なんと呪わしいことか。生命の危機はあれど、戦場を駆けていた頃の方が、よほど気楽だった。

 立ちはだかる敵を残らず斬り伏せてきた自分が、まさかこのような人間関係に煩わされることになろうとは。

『──八雲の宮廷は、貴女にごたえを感じさせる、初めての戦場になるかもしれんな』

 わたりのみかどの不吉な言葉が、今になって木霊する。

 やかましいわ、と心の中で帝に文句を言っていると。

「静かになさい」

 鎬雨がりんとした声を出し、けたたましい女房達をしんと黙らせた。

 その上で、彼女はきついまなしを雲雀に向けてくる。

「いくら東宮様の妻とはいえ──否、東宮様の妻だからこそ、郷に入れば郷に従っていただきます。つたなくても構いません。さあ、お詠みになって」

「だから、詠め、と言われてもな」

 雲雀は何をどうすれば歌になるのかすら知らないのだ。

 下手に詠もうものなら、鈴鳴が帝を継承するために乗り越えねばならぬ障害を、一つ増やしてしまうことにもつながりかねない。

『いいかい。僕が帝になるためには、妻である雲雀の評判が上がることも絶対条件だ』

 彼を帝にすると誓った昨夜、雲雀は鎬雨についても話を聞いていた。

 彼女は、八雲京では一、二を争う名家、藤咲家の姫である。

 宮中の女社会においては時に帝以上の権力を有する中宮もまた、藤咲家の出身。

 しかも、鎬雨は中宮の息子である暮明の妻。

 繫がりの強さは、並大抵のものではない。

 女房達が位の高い雲雀に対して失礼な態度をとれるのも、鎬雨という味方、さらには後ろ盾である中宮の存在があるからに他ならなかった。

『僕が暮明に勝つのと同じくらい、貴女あなたが鎬雨に勝つことは重要なんだ。それも、貴女の得意な武ではなく、文でね』

 雲雀は自分を愚かだとは思っていない。

 身体を動かすのと同じくらいには、兵を指揮することも得意だ。海を越えた先にある大国、しやの兵法書を読みあさっていた時期もあり、文字を読むのも苦ではない。

 故に、鈴鳴から鎬雨に勝てと言われたときも、さほど難題ではないと高をくくっていたのだが──文化の違いによる不利を、こうもまざまざと感じさせられることになろうとは。

 雲雀が口を開くのを、今か今かと待つ女房達。

 沈黙に耐えきれず、ままよと意を決して、歌らしきものを詠もうとしたとき。

「鎬雨様。歌とは無理強いされて詠むものではありますまい」

 助け船を出してくれたのは──意外なことにも雅親であった。

「歌を詠むという行為は、あくまで自然でなければなりません。心の赴くままに、どこまでも自由に。人に詠まされた歌に、何の価値がありましょう」

 なかなかの正論である。なんだ、この男にも良いところもあるではないか、と雅親を見直していると、鎬雨が不満をたたえて彼に突っかかった。

「雅親様の仰ることももつともですが、詠む気がないで済まされるものでもないでしょう。平民ならともかく、雲雀様は今後、中宮になられるお立場なのですから」

 次の中宮には自分がなる気のくせして、思ってもいないことを、よくもしゃあしゃあと言えたものである。

「鎬雨様にも一理ある」

 雅親はふむ、と納得した様子であごに手を当てる。

「それではこういうのはどうでしょう。次の歌会は十日後でしたよね。雲雀様はそれまでに歌を学び、再度、歌合に参加されるというのは」

「それは良い」

 鎬雨はその提案を、首肯によって受け入れ、周りの女房達も同意を示す。

「雲雀様もそれで構いませんか」

「……ああ」

 構うも構わないも、拒否する権利はなさそうだ。

 問題が先延ばしになっただけ、むしろ事態は悪化しているように思われた。

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