第12話 結婚相手は未来の帝 其の十

 宮廷に戻ると、殿舎は釣どうろうによってぼんやりと照らされ、幻想的な風情を醸し出していた。《茅清の間》に牛車をつけると、小未苗がそくを持って待っていた。

 不慣れな雲雀が歩くには釣灯籠の灯りだけでは薄暗いと思ったのだろう。

「助かったわ。さすがにこの暗さでは、《山椿の間》まで戻れる気がせんかった」

「いえ……。雲雀様を待っていらっしゃる方もいましたので」

「待ち人。こんな時間に」

 誰かとげんに思いながら渡殿を越えると、確かに釣灯籠とは異なる、灯台の光がすの縁に立っている。

「遅かったね、鬼姫」

 外の柱にもたれて待っていたのは──鈴鳴であった。

「なんね。こんな夜遅くに」

「なんね、じゃないよ。本当に貴女はものを知らないな」

 鈴鳴は不満げに立ち上がると、母屋に入る雲雀のあとについてくる。

「僕は妻を娶るために三晩続けて、この《山椿の間》を訪れなきゃならないんだよ」

 何でも、公家の男は女の屋敷に三日間通い続け、寝所を共にすることによって、晴れて結婚が認められるらしい。雲雀は武家の姫であり、すでに宮廷に住むべき殿舎を持ってしまっているが、形式だけでも模倣したほうがいいだろう、と鈴鳴は考えたらしい。

「あっそ。ご苦労なこったいね」

「なのに貴女ときたら、いきなり外へ出掛けるのだから、戻ってこないかと思ったよ」

「うちだって、こぎゃんとこ戻ってきたくなかったわ」

 しかし、実家のためを思えば、煮え湯を飲むしかなかった。

 雲雀がこの役目を投げ出せば、父の、そして武家の思惑はたんするのだから。自らに与えられた仕打ちをどれだけ憎んでいても、姫としての責任が雲雀の行動を縛った。

 とはいえ、鈴鳴に構っている余裕などはなく、雲雀はすぐさまちようだいに駆け込み、とばりを下ろした。

「形式ならもう済んだ。誰も見とらんし、自分の間に戻って休んだらええ」

 雲雀はそう声をかけ、倒れ込む。

 敵からだまされ、味方からも裏切られ、もはや誰も信じられない気分だった。

 まして、偽りの夫など、どうして相手にしていられよう。

 さっさといなくなれ、という願いは、鈴鳴がしとねに腰を下ろす気配で断ち切られた。

「何しちょーと。帰らんの」

「まあね」

「嫌がらせするなら、他の日にしてくれん?」

 そう頼んでも、黙ったまま腰を据え、動かない鈴鳴。

「鬼姫、泣いているの?」

 幼い彼にも、雲雀の動揺はさすがに感じ取れたらしい。

「……泣いとらんわ」

 情けなさすぎて、涙も出なかった。

 知らず知らずのうちに、自分は浮かれてしまっていたのである。

 自分より強い男と結婚できると。

 女としての幸せを手にできたと。

 己のなかに、女は確かに残っていたのだ。

 そうして隙を見せた途端、あっという間に希望を絶たれて、こんな年端もいかぬ少年に心配されるまでに落ちぶれている。

「人生はままならんもんとは知っとるつもりやったけど、さすがにこれほどまでとは思わんかったわ。公家も、八雲京も、東宮の嫁も、なんもかんもくそ食らえたい」

 しかも、自分が「弱い」と見下した相手に愚痴までこぼしてしまう有様だ。

 これではどちらが弱いのか、分かったものではない。

 鈴鳴からは何も言葉は返ってこない。

 話せば気休めくらいにはなるかと思ったが、やはり己のうつぷんを受け止めてもらうには、彼は幼すぎたようだった。

 しかし、それでもあいづちの一つくらいは打ってくれても良いものを。ああ、こんなことなら言葉など交わさないほうがましだった。

 今後、二度と口など聞いてやるものか。

 そう思った矢先に、御帳台の外から聞こえてきたのはことの音色であった。

 おそらくは、《山椿》の母屋に用意されていたものだろう。

 耳に届く聞きなじみのある旋律は、武家の誰もが知っている《府門院の夜》であった。

 ただ、その調べは、これまで聞いたどんな箏よりも滑らかで、しかも音の一粒一粒が際立っていた。

 雲雀は幼少の頃によく遊んでいた、滝のほとりを思い出した。遊び疲れて、そばに建てられたほこらの中で眠った記憶がよみがえる。その時、まどろみながら耳にしていた滝の音に、鈴鳴の弾く優しい箏の音色はよく似ているのだった。

 箏を弾かない雲雀にも、彼の技巧が卓越していることは分かった。

《府門院の夜》であって《府門院の夜》ではない。

 そう評しても過言ではないほど、指遣いには大胆な変更がなされており、これまで聞いてきたどの奏者のものより、奏でられている音は多い。

 にもかかわらず、どの音も他を殺すことなく活きていると感じるのだ。

 まるで自分達のようだ、と図らずも雲雀は思わされた。公家と武家。両家の思惑が交わり生まれた大きなうねり。その中に放り込まれた雲雀と、鈴鳴。

 だが、その存在も無駄ではないと、箏の旋律は語っているようだった。

「……慰めとるつもりか」

 曲が終わると、雲雀は鈴鳴に向けてぽつりとつぶやいた。

「うん、まあそうだね」

 淡々とした、可愛げのない返答だった。

「馬鹿にしくさって。きさんみたいな子供にまで心配してもらうほど、うちは落ちぶれとらんわ」

「そんな強がりが言えるなら、確かに大丈夫そうだね。それに──貴女の悔しさは、多少は理解してあげられるつもりだよ。暮明とならともかく、僕みたいなお飾りと結婚させられちゃね」

「鈴鳴。きさん、知っとるとか」

 意外な言葉に、雲雀はがばりと上半身を起こした。

 周りに仕立て上げられた偽りの東宮だとも気づかず、その地位を鼻にかけている生意気な餓鬼。そんな第一印象を抱いていたものだから、驚かされたのである。

 先ほどの箏の音色に含まれた意味も、自分が都合よく解釈しただけだと思っていたのに。

「もちろん知っているよ。自分が東宮なんて地位とはかけ離れた、惨めな役目を背負わされていることくらいはね」

 とても十二の少年から発せられたとは思えないほどのちようを声に込め、鈴鳴は言う。

「なら、悔しいと思わんの?」

 全く、同じ境遇である二人。

 だからこそ、雲雀は聞きたかった。

 情けない、そう言って己を責め立てる自分もいれば、悔しい、と叫ぶ自分もいるのだ。

 炎のような荒々しさで、やつらを見返してやれと。

 ところが、鈴鳴は違うようだった。

「仕方がないだろ。皆、暮明を帝にしたいと思っているんだ。かくいう僕自身だってそうさ。暮明は、なにをやらせてもかんぺきなんだよ。男がれる男ってのは、ああいうのを言うんだろうね」

 彼が漂わせたていかんが、雲雀の胸に火をつけた。

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