第10話 結婚相手は未来の帝 其の八

 男の名を呼んだのは、小未苗だった。雲雀が飛び出してからずっとあたふたしてばかりだった彼女は、男が現れた途端に、ほっとあんの息を漏らす。

 そう。本当に、男はこつぜんと姿を現した。

 いくら鬼に気を取られていたとはいえ、常に感覚を研ぎ澄ませている雲雀ならば、殿舎に、少なくとも母屋に入ってきた時点では気づきそうなものだというのに。

「なんね、きさんは」

 後ろを取られたことで、自信を傷つけられた雲雀は自然と口調がきつくなる。鬼女を捕まえてくれて助かったという思いより、男への敵対心のほうが勝った。

「申し遅れました。私はかざかど雅親。朝廷に仕えているおんみようです」

「へえ……、きさんが風御門。噂だけは聞いたことあるたい」

「恐れ入ります。私も、貴女あなたのお噂はかねがね」

 いんぎんに、頭を下げる雅親。

 風御門家には伝説が多く、ある意味では帝よりも有名な存在である。

 いわく、太古より鬼を調伏し、その血を飲んで人外の力を手にしたとか。

 曰く、またの大蛇おろちが吐いた火を絶やさず持ち続け、その光はあらゆる真実を照らすとか。

 曰く、八雲京の地中深くに、春の精が宿りし古木を埋めて、都の守りにしているとか。

 そのような話は枚挙にいとまがない。

 そして彼らは、そんなまゆつばだと思うような伝説を真実だと感じさせるほどの、恐るべき力を有していた。

 先程の、紙を操った業もその一つ。

 式神。物に意思を持たせ、意のままに操る術である。

 風御門の現当主、雅親の名は、雄成岳からの旅路で有宗から聞かされていた。注意と警戒を怠ってはならぬ人物であると。

 年齢は、三十には達しておるまい。切れ長な狐のようなひとみをして、何を考えているのか読みにくい、底知れない印象の男だった。

「十二単姿で刀を振るう方を初めて見ました」

 雅親はそう言って、くすくすと笑う。

「想像していたよりも、お美しいお方ですね」

「ふん、こぎゃん格好じゃなきゃ、もっとまともに立ち回れるとよ」

「本来の貴女もぜひ見てみたいところですが、宮中ではその姿でいらっしゃるのがよろしいでしょう。しかし、まとう香は考え直された方がよいかと」

「香?」

びやくだんの香りですよ」

 雅親は畳んだおうぎで自らの鼻を指す。

「白檀は鬼を呼ぶ香です。鬼姫と呼ばれる貴女にはふさわしい香なのかもしれませんが、使うのならばせめてたきものに混ぜていただきたいですね。ましてや、白檀だけをくなどもつての外です」

「白檀が鬼を呼ぶ香、ねえ……」

 それは初耳だった。だとしたら、よかれと思って敵に施していた供養は、ありがた迷惑だったのかもしれない。あるいは自分が白檀を使っていたから、そんな迷信が生まれたのではないかとも勘ぐってしまう。

 八雲京では様々な香料を混ぜ、練り物とするのが主流であるが、雄成岳では香木そのものを焚くのが通例だ。その方が純粋に、自然な香りを楽しむことができるからである。

 しかし、白檀を焚いたから鬼が出た、などという話はやはり聞いたことがない。

「ところで……、この女はどうするつもりたい」

 鬼と呼ばれた女は、縛られて動けなくはなっているが、低いうめき声を上げ続けており、角に至っては先程よりも強く光を発している。

 力を蓄えているだけなのは明らかで、縄をほどけば、すぐにでも暴れ出すだろう。

「これは私の方で、処置いたします」

「処置、とは?」

「取り憑いた鬼をはらい、里へ帰すのです。一度でも鬼が取り憑いた者を、宮廷に置いておくわけにはいきませんから」

「鬼を抜くのは是非にお願いしたいが、里に帰すのは、どうにかならんか。浜亀は中宮様の典侍ないしのすけだぞ」

 困った表情で暮明が懇願するが、雅親は首を横に振る。

「どうにもなりません。鬼が取り憑けるのは、心が弱き者のみ。つまり、この者には鬼が取り憑くべくして取り憑いたのです。その結果、中将を一人あやめることとなった。見過ごせば、再び災いとなるでしょう」

 母屋の中央で絶命している男が、雅親の言った中将なのだろう。

 暮明が到着するよりも先に鬼を止めようとし、返り討ちにあったというところか。

「何事ですか」

 今さらになって警備の者達が駆けつけてきて、殿舎は鬼が暴れていたときにも増して騒がしくなる。

 女房達はそれぞれ、その中に親しい男を見つけ、状況を説明する。

 あとは任せておけばいいか、そう思い雲雀が退出しようとすると、

「鬼が現れたと聞きましたが、ここですか」

 多くの女房を後ろに従えて母屋に入ってきたのは、見目麗しい姫であった。

しのぎあめ

 暮明に名を呼ばれると、姫は切れ長の瞳をそちらへ向ける。

貴方あなた。ご無事で?」

「無論だ。鬼になど間違っても遅れをとりはしないさ。中将は残念だったがな。責任感の強い、良い男だったのだが。それに浜亀も」

 室内を見渡して、ただちに女は状況を理解したようだ。

 それでもまるで動じた様子はなく、平然としている。今日、驚いてばかりの雲雀とは大違いだ。

「浜亀のことは、私から母に伝えましょう。浜亀の実家にも文を出しておきます」

「そうしてもらえると助かる」

 いかにも親しげな口調で語り合う二人に、さっきまで暮明と結婚する気でいた雲雀は、心中穏やかではない。

「暮明。こん女性は誰かいね?」

 ひくつく頰を押さえながらたずねる。

「ああ、紹介しよう。俺の妻、鎬雨だ」

「つ、妻あ?」

 ひようひようと暮明が返してきた言葉に、雲雀はくらりとした。

 妻。妻。俺の妻。

 暮明は妻帯者だったのだ。

 複数の妻をめとるのは当たり前にあることだが、もし暮明が東宮、その先に帝になっていたとしても、正室は目の前の鎬雨であり、中宮の座もおそらくは彼女に渡っていたことになる。

 一体どうなっている。前提条件が、何もかも違うではないか。

「貴女が雲雀様ですか。初めてお目にかかります、ふじさき家の一の姫にして、暮明の妻──鎬雨と申します」

 鎬雨は、妻、というところを明らかに強調して、にこやかに微笑んだ。

 漆を何度も塗り重ねたかのように、しなやかに輝く髪。扇で顔が半分隠れているが、大きな瞳から意思の強さと利口さが伝わってくる。

「戦から戻ってきてから、暮明が貴女のことをよくしやべるのです。お強いんでしょう、女にしておくのは惜しいと申しておりました」

「ほ、ほおー」

 賛辞にもとらえられる言葉を使いつつ、鎬雨は雲雀を挑発していた。

 我が夫はお前のことなど、女としてすら見ていない、と言っているのだ。

 絶対に分かってやっている。

 雲雀が、暮明と結婚できるものと信じて八雲京に来たことを。

「鎬雨。俺がいるところで雲雀を褒めていたことをバラすな、恥ずかしいだろうが」

 女同士の間で火花が散っていることなど全く気づかずに、火種である男はうつけたことを口にした。

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