第9話 結婚相手は未来の帝 其の七
「鬼だ! 鬼が出たぞ!」
遅れて、男の叫び声が聞こえる。
「ああ?」
最悪の気分だった雲雀は、思わず声を荒らげた。
「うちならここにおるが」
「ひ、雲雀様のことではありません。本物の鬼ですよ」
そばに控えていた小未苗が、雲雀の殺気にびくつきながら答える。
「本物の、鬼……」
雲雀は
八雲京の人間が、鬼を恐れているとは聞いていた。だが一方で、それは滅多に現れないもののはずだ。現に雲雀は、雄成岳でも、幼少期を過ごした府門院でも、鬼を一度も目にせず、見たことのある者にも会ったことがない。
もし目撃談があれば、きっと勝負をするために駆け出していたことだろう。
「またか」
しかし、暮明はさも日常茶飯事であるかのようにぼやき、立ち上がる。
「雲雀。ここでじっとしていろ」
そう告げると、腰に
「鈴鳴、きさんは行かんでよかと?」
ひとり《山椿の間》に残った鈴鳴に問いかけるが、彼は座ったままで微動だにしない。
「僕は東宮だからね。鬼なんかいる場所に行って、怪我でもしたら大変だろ」
その物言いに、雲雀はため息の出る思いだった。
この行動力も好奇心も感じられない少年が、本当の夫か。
東宮は、宮廷においては帝に次ぐ立場のはずだ。であるならば、我が身よりも他の者達の安全を
自分の理想とは正反対で泣けてくるにもほどがある。
立ち上がって殿舎から出て行こうとすると、鈴鳴が怪訝そうに呼び止めてくる。
「どこにいくの?」
「鬼退治にきまっちょーがね」
「お、おやめください。危険です」
それを聞き、小未苗が顔を真っ青にした。
「心配せんで。うちにはこれがある」
雲雀は上衣の中から、愛用の彩り刀を取り出す。
「長年連れ添って、幾度となく守ってくれた、どこかの夫より頼りになる愛刀たい」
嫌味が伝わったのだろう。鈴鳴のつるんとした
「鬼姫が鬼を退治しようって言うのかい。笑えない冗談だね。そんなの暮明と、
雲雀はだんだんうんざりしてきた。
話す価値もないように思えたが、それでも夫になる人物である以上は、小言を言わざるを得ない。
「弱かね、きさんは」
雲雀は抱いている想いを、いつもの口癖に乗せた。
「どういう意味?」
「戦いから逃げる男は、肝が磨かれん。暮明に勝って東宮になったつもりかもしらんが、きさんはまだ男にもなっちょらん未熟者たい」
これ以上問答をしていると、鬼より先に夫を斬ってしまいそうだ。
雲雀は己の殿舎から出て、廊を歩く。おろおろと小未苗が後ろをついてくるが、道案内を頼めそうにはないので、耳を頼りに騒ぎの方角へと進む。
勝手がわからず遠回りになってしまったが、目当ての殿舎へは
さらには、武官と思われる男の死体まで転がっていた。その胸に
母屋には他に、わなわなと震える女房達が三人。腰が抜けているのか、身体を寄せ合って逃げ出すことも出来ずにいる。
彼女らを守るように、背を向けて立っている暮明。
彼が
だるそうに腰を曲げ、だらりと腕を垂らした姿は無気力に思える一方、眼光は
着崩れた十二
そして──彼女の額、眉間の上には、一本の角があった。
火山岩に似た黒くゴツゴツとした質感で、奥は熱を帯びているのか赤く明滅している。
それに、爪。
女の爪は、その一枚一枚が刀のごとく光り、そして鋭利に伸びているのだった。
長さは一尺近くはあるのではないだろうか。
「暮明──」
雲雀が呼びかけようとした瞬間、暮明は刀の上下を素早く持ち替え、刃のない峰を女の肩に叩き
しかし、鬼女は飛び
そのありえない跳躍力に、雲雀は目を見張った。
とても人とは思えない、人ではなしえない俊敏さにも、その動きを
凶器と化した爪が、暮明の首先めがけて走る。
突如放たれた一撃を、しかし女は爪で受け止めきる。爪などいかに伸びようと刀で斬り飛ばせる。そう思っていた雲雀にとっては、それもまた衝撃だった。
「来たのか、雲雀。じっとしていろと言ったのに」
助けなどなくとも、どうとでも対処できた──そんな余裕の表情を雲雀に向ける暮明。
「鬼を見たことなかったけん、興味があったとよ。それにしても、きさんほどの男が、何を手間どっとる」
確かに、女の動きは人並み外れている。
しかし、それだけで暮明が苦戦するとは思えない。
戦った者だからこそ、分かることがある。
彼の武は
力のみに頼んだ相手が、心技体揃った
「殺すなよ、雲雀。あれは鬼であって、人でもあるのだ」
暮明はいまだ、敵を斬らぬよう刀を裏返したままだ。
手加減をしていることは見れば分かるが、言っている意味は理解できない。
「鬼が人に化けとったんじゃなかと?」
「鬼が狐のように人に化けたりするものか。鬼は、人の身体に取り
暮明の母とは、帝の正室。すなわち中宮である。
宮中の女社会においては、むしろ帝を敵に回すより厄介かもしれない。
「居場所は最初からなかけど、それは面倒たいね」
ただでさえ、武家出身の嫌われ者だというのに、自分を攻撃、あるいは排斥しようとする者達に、さらなる口実を与えたくはなかった。
「それなら、どげんして止めると? 気絶させて止められるようなもんとは思えんが」
「案ずるな。俺達はただ、時間稼ぎをすればいい」
「時間を稼いだところで、どうなるん? うちや暮明ほどの手練れが、まだ八雲京に残っとるとは思えんが」
そんな人物がいるのなら、とっくに戦は
「鬼には鬼の、専門家がいるのさ」
「鬼の、専門家?」
そのときだった。母屋を隠す御簾の隙間から、白く平べったいものが飛んできて、鬼と化した女房のまわりをひらひらと舞い始めたのは。
はじめ、
羽のない蝶などいるはずがない。
それは人を
鬼女は目障りだとばかりに、薄紙を追って爪を振り回す。
だが、爪が命中した途端に、紙はバラリと無数の綱になって、鬼女を縛り上げた。
「ぎゃっ」
鬼女は逃れようと躍起になるが、暴れれば暴れるほど、網はきつく締め上がり、ついには身動きすらとれなくなる。
「……なにが起きたと?」
呆気にとられていると、背後から男の声がした。
「──噂に
振り返れば、そこにいたのは
「雅親様」
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