第8話 結婚相手は未来の帝 其の六

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。

 頭が真っ白になって、手から扇が滑り落ちた。

 想像が膨らんでいた、これからの暮明との暮らしも。

「だ、だって、きさんが東宮じゃ……」

 震える声で、雲雀は訊ねる。

「ああ、そうか。俺が未来の帝だなどと言ったから、誤解させたのだな。悪かった」

 誤解させた? 悪かった?

 耳に言葉が入ってきても、心のしんまで届かない。

 何が悪かった、なのか。

 一体、何を誤解していたというのか。

 充分に考える間もなく、暮明は身体を横へずらす。

 そこにいたのは、暮明の後ろに侍っていた従者の少年である。

 いや──違う。雲雀が勝手に従者だと思い込んでいただけだ。

 彼の服装は、公家のなかでは最正装にあたる、束帯だった。

 まとうは位の高さを表す、黄丹色の袍。

 背が低いために、服を着ているというよりは、着られているという状態ではあったが。

「紹介しよう」

 暮明は少年の後ろに回り込むと、もつたいをつけるように言った。

「先日東宮となった、すずなるだ」

「は?」

 紹介された少年は、不機嫌そうに小さく頭を下げる。

「陽渡帝の孫で、俺にとっては姉の息子。つまりはおいにあたる」

「は?」

「まだ十二だが、つい最近元服もしたのだ。俺と血がつながっているだけあって、なかなかしい顔つきをしているだろう?」

「は?」

「は、しか言わないが……。お前、ちゃんと話を聞いているか?」

「聞こえん聞こえん。あー、聞こえん!」

 雲雀は自分の耳を手で何度もたたき、現実逃避する。

 何だ、それは。

 全てが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 自分は相手が暮明だと思ったから、己と同等以上の強さを持つ男だと思ったから、渋々ながら八雲京まで嫁に来たのだ。

 なのに、本当の相手は、こんな戦場に出たこともないような子供だという。

「何をわらべの真似事をしているんだ。世に聞こえた鬼姫とは思えんぞ」

「鬼姫言うな、このボケナス!」

「ボケ……?」

 これには、暮明もカチンと来た様子だ。しかし、雲雀は良い気味だとしか思えない。

 そもそも怒る権利は、自分のほうにこそあるのだから。

「このちんちくりんが、うちの夫? まだ背も伸びきっとらんようなこん餓鬼が?」

「おい。東宮に向かって、ちんちくりんや餓鬼はないだろう。不敬にもほどがあるぞ」

「餓鬼を餓鬼と呼んで何が悪かと」

「お前な……」

「いいんだ、暮明」

 怒って前に出ようとした暮明を押しとどめたのは、淡々と成り行きを見守っていた鈴鳴である。

「確かにまだ僕は餓鬼だからね」

 その名の通り、高く澄んでよく通る声色だった。

 改めて見れば、確かに暮明とは似て美しく、血の繫がりを感じさせた。だが、まゆが太くて彫りの深い、日焼けした男らしい叔父おじに比べ、鈴鳴は色白で、眉も目も細い。幼さも手伝ってか、女のような印象を抱かせる。

 大人しそうな少年だ、と雲雀が思った途端、鈴鳴は顔を左右非対称にゆがめ、生意気な口調で言い放った。

「でも、考えてみてよ。そんな餓鬼がさ、十も年上の妻をめとらなきゃならないんだ。自分のことをあわれむより、少しは僕の身にもなってみてほしいね、おばさん」

「おば……!」

 信じられない。そんな風に呼ばれたことは、ただの一度もなかった。

「自分だけが結婚を不本意だと考えているなんて、ゆめゆめ思わないでほしいね。八雲京や、公家に益ありと思わなければ、僕だってこんな話はお断りだったさ」

「……それが嫁いできた女に言うことかいね?」

 雲雀は戦場でも出したことのないような、おどろおどろしい声音ですごむ。

「きさんは餓鬼じゃなか。──礼儀も礼節もなっちょらん、クソ餓鬼たい!」

「こんなときだけ、自分が女だってことを振りかざさないでくれる? 姫扱いされたければ、少しは姫らしく振る舞うべきだよ。それが貴女あなたにできるんならね」

「はははは! 気の強い者同士、なかなかお似合いじゃないか」

 何がおかしいのか、暮明がひざに扇を打ち付けて笑う。

 まるで他人事だとばかりの無責任な態度に、雲雀は心底腹が立った。

「暮明。きさん、陽渡帝の息子じゃなかと? なんで餓……、こんな子供に東宮の座を奪われとる」

「ああ。俺は戦場に出すぎたせいで、武家に敵がわんさといるからな。これから太平を求めるなら、次の帝には戦とは無関係だった鈴鳴のほうがふさわしい、と父が決めたのだ」

 確かに公家の中では、道理は通っているように思われた。

 であれば問題は、雲雀の実家が、東宮は鈴鳴だと知っていたかどうか、だ。

 もし知った上で雲雀に知らせていなかったのだとすれば──

 不愉快な想像が膨らみかけた、そのときだった。

 ばたばたと何かの倒れる音がして、女の悲鳴が上がったのは。

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