第2話 美郡川の戦い 其の二

 ふいに、有宗の眼がれた。

「あれはなんだ」

 いぶかしむように呟くので、雲雀もまた彼の視線を追った。

 はるか遠方より、一直線に近づいてくる黒毛の騎馬がある。

「待て!」

 後方に控える武家本陣への侵攻を食い止めようと、何人もの兵がその前に立ちふさがる。

 だが、彼らはたった一騎の無謀な突進を、一時たりとも遅らせることはできなかった。

 馬上の男は邪魔する者を残らず斬り伏せ、こちらへと向かってくる。

「ほお」

 距離が詰まり、男の姿を間近で見たとき、雲雀は感嘆の声をあげた。

 味方を荒波の如く押し退けておきながら、息ひとつ切らしていない。

 背は高く、公家の男にしては珍しい、くっきりとした目鼻立ちだ。

 男のかつちゆうと兜に施された金の装飾──そのきめ細かさから、身分の高い人物であることは容易に察しがつく。手に握られた彩り刀の柄先にもみどりのうがちりばめられている。

 年齢は、雲雀よりやや上だろうか。

 武家本陣へと向かうかと思われた男は、雲雀を見つけると馬の脚を止め、獲物を前にした狼のように微笑わらった。

「貴女が噂に名高い『鬼姫』か」

「鬼姫?」

 ほうけた雲雀に、横にいた有宗が忌々しげに補足する。

「あちらの都で、貴女はそう呼ばれてるんですよ」

 敵の本拠である八雲京。

 無論、雲雀は訪れたことはないが、春は桜が咲き乱れ、夏は緑が生い茂り、秋は紅葉が染め上がり、冬は雪が降り積もる。四季を通して美しい場所と聞いている。

 そして都に住まう者が最も怖れるもの──それが鬼だ。

 人から生まれ、人の道を踏み外し、人を殺す、額に角持つ異形。

 敵からそんなもうりようたとえられているとは思わなかった。

「きさん、うちをその鬼姫、綱月の雲雀と知った上でやり合うつもりたい?」

 刀を前にかざして、雲雀は上機嫌に名乗りをあげる。有宗は無礼な異名だととらえたようだが、武を貫く雲雀にとっては褒め言葉に感じられた。

 特に戦場においては、敵に恐れられることこそ誉れだ。

「無論。そして鬼の首を持ち帰るつもりだ」

 しかし、男に雲雀に恐怖を抱いている様子はない。むしろとしている。

 強き者と戦えるのが心底楽しみだとでも言うように。

「公家にも、命知らずがおったもんやね」

 こうも堂々と自分に挑んできた者は、身内を含めてもここしばらく覚えがなかった。

 殺すには惜しい。が、戦のただなかにあってはそうも言っていられない。

「しょうがなかね。首だけは八雲京に帰してやるたい」

「それは親切にどうも。貴女の首を落としたときには、そこの家来に託せばいいか?」

「はっ」

 雲雀が笑うと、野嵐が即座に地面をった。

 泥が後方へ飛んだ頃には、すでに男を間合いに捉えている。

 目にも留まらぬいつせん。先ほど雑兵の首をねたときと、寸分たがわぬ速さ。

 常に変わらぬ、必殺のざんげきである。

 しかし──手に届いた感触はいつもとは違っていた。

 激しい金属音とともに、新鮮な驚きが返ってくる。

 男は雲雀の刀を、自らの刀によって受けとめていたのである。

 駆け抜けていく野嵐を反転させて、再び向かい合う。

「驚いた。初手を受けられたのはいつ以来か」

 連続で仕掛けても良い場面だったが、話しかけずにはいられなかった。

 自分の刀を受けられることなど、想定の範囲外だったのである。

「そうか。ならばもっと驚いてもらおうか」

 今度は己の番とばかりに、公家の男が馬を詰める。

 敵の太刀が迫ってくる。その鋭さは、雲雀自身の一撃と大差ない、いやむしろ上回っているのではないかと思える代物だった。

 雲雀は刀でいなすも、威力を完全には流しきれない。

「ちっ!」

 じん、としびれる左手。その隙を見逃してくれるほど甘くはない。

 男はすぐさま刀を翻し、二撃目を放ってきた。

「野嵐!」

 殺意に満ちた剣閃を必死の想いで躱して、雲雀は叫んだ。

 愛馬は主の声に呼応し、男との距離を完全に零にする。

 せつ、雲雀は鞍から身体を浮き上がらせ、思い切り男に体当たりした。

「ぬおっ」

 これは男も想定していなかったようだ。体格差はあったものの、虚をついたことで男は体勢を崩し、馬から滑り落ちる。

 が、それは捨て身でぶつかった雲雀とて同様である。

 地面に転がり落ちた二人は、互いをばして間合いをとると、地にひざをついたまま刀を構え、向かい合った。

 男は顔の泥をぬぐいながら、楽しげに笑った。

「……やるな。鬼姫の異名は伊達だてではないらしい」

「きさんも、なかなかのもんたい」

 雲雀もまた、気づかぬうちに笑っていた。

 愛馬がそばに寄り添ってきたが、再び乗る気にはならなかった。

 男との決着をつけるのに、馬など必要ない。むしろ不純物だとすら思えた。

「雲雀様。加勢を」

「やめんね」

 今まで一度たりとも見たことのない姫の苦戦に動揺し、刀を抜こうとする有宗を、雲雀はひとにらみして落ち着かせる。

「ここで助けを借りたら末代までの恥たい」

 立ち上がると、刀をこめかみのそばで立てる男。八相の構えである。

 狙いは、雲雀の左肩から胴にかけて。

 たとえ読まれようと、己の剣速をもつてすれば絶対に入る、そう考えているようだ。

 不敵で憎たらしい顔である。

 ならば、と雲雀も挑発を受ける。同じく八相の構えを選び、たいする。

 機を逃さず、よりはやく刀を振るった者が勝ち、敗者は確実に命を落とす。

 防御のことなど考えぬ、互いに決死の構えをとったことになる。

 生まれて初めての、紙一重の勝負に雲雀の魂は震えた。

 そして、こうして命をけられることに──賭けられた自分に誇りを感じた。

「いざ」

 ついに、それぞれの足は同時に地を離れた。

 雲雀の、男の刀がそれぞれの生を絶つべく、こんしんの一筋となる──

 まさに、その瞬間であった。

 遠くから聞こえる大太鼓の音が、よどんだ空気を震わせたのは。

 二人のやいばは、すんでのところで止まっていた。

 鳴り響く音が示すのは、退却の意だ。大太鼓が鳴った後は戦いを止め、深追いしない。

 それが義を重んじる両軍の不文律であった。

 無論、不文律である以上、破ってもとがはない。

 しかし、興を削がれたのは確かである。

 せっかくの勝負を台無しにされた両者は、しばらくのあいだ見つめ合っていた。

 いまだ雲雀の刀は男の眼前に、男の刀は雲雀の首元にあったが、どちらの刀身もすでに輝きを失っていた。

「……これからというときに」

 つまらなそうに目を背け、先に刀を下げたのは男のほうだった。

「まったくたい」

 力を抜くと、背中からどっと汗が噴き出した。

 己の身体が示した感じ慣れない反応に、雲雀は驚く。

 理性は楽しかったと言っているが、どうも本能は悲鳴を上げていたらしい。

 男が刀を止めなければ死んでいたかもしれないのだから、当然といえば当然である。

 この男は──強い。

 自分と同じか、あるいはそれ以上に。

 ただそれだけのことが、妙にうれしい。

 己の馬に飛び乗って、場を去ろうとする男に、名残惜しさすら感じるほどだ。

「きさん、名前は」

 敵の名を知ることに意味などないと知りつつも、思わずたずねてしまう。

「そう言えば、名乗っていなかったな。俺はくれあき

 男はにやりと微笑んで、こう続けた。

「──将来、帝になる男だ」

 言い終わるやいなや、男の馬はきびすを返して走り出す。

「暮明だと!」

 慌てた有宗が、背負っていた弓に矢をつがえて、遠ざかる馬めがけて射かける。

 が、暮明は飛んできた矢を見ることもなく、無造作に剣で払いのけた。

 第二矢が放たれるより先に、馬の姿は豆のように小さくなっている。

「ここまで傍にいて取り逃がすとは、なんという失態」

 その悔しがりようは尋常ではなかった。日頃大切にしている弓を、投げ捨ててしまうほどである。

「有宗、あん男を知っとるたい?」

 退却の不文律を無視してまで仕留めたかった相手とは。

「暮明親王。あの者自身が言っていたとおり、おそらく次の東宮です」

 帝が死没した際、次を引き継ぐ皇太子──東宮。

 現帝の一人子が病死し、東宮の席は一時的に空になっていると聞いていた。

 あのような才気かんぱつとした青年がその地位についたとしたら、敵対する武家にとって良いことは一つもない。

「あん男もおるんねえ……」

「雲雀様?」

 だが、雲雀は頰がほころぶのを止められなかった。

 そしてと武家とのあいだにぼくが結ばれたのは、雲雀と暮明が斬り結んでから三日も経たぬうちであった。

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