第2話 美郡川の戦い 其の二
ふいに、有宗の眼が
「あれはなんだ」
「待て!」
後方に控える武家本陣への侵攻を食い止めようと、何人もの兵がその前に立ち
だが、彼らはたった一騎の無謀な突進を、一時たりとも遅らせることはできなかった。
馬上の男は邪魔する者を残らず斬り伏せ、こちらへと向かってくる。
「ほお」
距離が詰まり、男の姿を間近で見たとき、雲雀は感嘆の声をあげた。
味方を荒波の如く押し
背は高く、公家の男にしては珍しい、くっきりとした目鼻立ちだ。
男の
年齢は、雲雀よりやや上だろうか。
武家本陣へと向かうかと思われた男は、雲雀を見つけると馬の脚を止め、獲物を前にした狼のように
「貴女が噂に名高い『鬼姫』か」
「鬼姫?」
「あちらの都で、貴女はそう呼ばれてるんですよ」
敵の本拠である八雲京。
無論、雲雀は訪れたことはないが、春は桜が咲き乱れ、夏は緑が生い茂り、秋は紅葉が染め上がり、冬は雪が降り積もる。四季を通して美しい場所と聞いている。
そして都に住まう者が最も怖れるもの──それが鬼だ。
人から生まれ、人の道を踏み外し、人を殺す、額に角持つ異形。
敵からそんな
「きさん、うちをその鬼姫、綱月の雲雀と知った上でやり合うつもりたい?」
刀を前にかざして、雲雀は上機嫌に名乗りをあげる。有宗は無礼な異名だと
特に戦場においては、敵に恐れられることこそ誉れだ。
「無論。そして鬼の首を持ち帰るつもりだ」
しかし、男に雲雀に恐怖を抱いている様子はない。むしろ
強き者と戦えるのが心底楽しみだとでも言うように。
「公家にも、命知らずがおったもんやね」
こうも堂々と自分に挑んできた者は、身内を含めてもここしばらく覚えがなかった。
殺すには惜しい。が、戦の
「しょうがなかね。首だけは八雲京に帰してやるたい」
「それは親切にどうも。貴女の首を落としたときには、そこの家来に託せばいいか?」
「はっ」
雲雀が笑うと、野嵐が即座に地面を
泥が後方へ飛んだ頃には、すでに男を間合いに捉えている。
目にも留まらぬ
常に変わらぬ、必殺の
しかし──手に届いた感触はいつもとは違っていた。
激しい金属音とともに、新鮮な驚きが返ってくる。
男は雲雀の刀を、自らの刀によって受けとめていたのである。
駆け抜けていく野嵐を反転させて、再び向かい合う。
「驚いた。初手を受けられたのはいつ以来か」
連続で仕掛けても良い場面だったが、話しかけずにはいられなかった。
自分の刀を受けられることなど、想定の範囲外だったのである。
「そうか。ならばもっと驚いてもらおうか」
今度は己の番とばかりに、公家の男が馬を詰める。
敵の太刀が迫ってくる。その鋭さは、雲雀自身の一撃と大差ない、いやむしろ上回っているのではないかと思える代物だった。
雲雀は刀でいなすも、威力を完全には流しきれない。
「ちっ!」
じん、と
男はすぐさま刀を翻し、二撃目を放ってきた。
「野嵐!」
殺意に満ちた剣閃を必死の想いで躱して、雲雀は叫んだ。
愛馬は主の声に呼応し、男との距離を完全に零にする。
「ぬおっ」
これは男も想定していなかったようだ。体格差はあったものの、虚をついたことで男は体勢を崩し、馬から滑り落ちる。
が、それは捨て身でぶつかった雲雀とて同様である。
地面に転がり落ちた二人は、互いを
男は顔の泥を
「……やるな。鬼姫の異名は
「きさんも、なかなかのもんたい」
雲雀もまた、気づかぬうちに笑っていた。
愛馬がそばに寄り添ってきたが、再び乗る気にはならなかった。
男との決着をつけるのに、馬など必要ない。むしろ不純物だとすら思えた。
「雲雀様。加勢を」
「やめんね」
今まで一度たりとも見たことのない姫の苦戦に動揺し、刀を抜こうとする有宗を、雲雀は
「ここで助けを借りたら末代までの恥たい」
立ち上がると、刀をこめかみの
狙いは、雲雀の左肩から胴にかけて。
たとえ読まれようと、己の剣速を
不敵で憎たらしい顔である。
ならば、と雲雀も挑発を受ける。同じく八相の構えを選び、
機を逃さず、より
防御のことなど考えぬ、互いに決死の構えをとったことになる。
生まれて初めての、紙一重の勝負に雲雀の魂は震えた。
そして、こうして命を
「いざ」
ついに、それぞれの足は同時に地を離れた。
雲雀の、男の刀がそれぞれの生を絶つべく、
まさに、その瞬間であった。
遠くから聞こえる大太鼓の音が、
二人の
鳴り響く音が示すのは、退却の意だ。大太鼓が鳴った後は戦いを止め、深追いしない。
それが義を重んじる両軍の不文律であった。
無論、不文律である以上、破っても
しかし、興を削がれたのは確かである。
せっかくの勝負を台無しにされた両者は、しばらくのあいだ見つめ合っていた。
いまだ雲雀の刀は男の眼前に、男の刀は雲雀の首元にあったが、どちらの刀身もすでに輝きを失っていた。
「……これからというときに」
つまらなそうに目を背け、先に刀を下げたのは男のほうだった。
「まったくたい」
力を抜くと、背中からどっと汗が噴き出した。
己の身体が示した感じ慣れない反応に、雲雀は驚く。
理性は楽しかったと言っているが、どうも本能は悲鳴を上げていたらしい。
男が刀を止めなければ死んでいたかもしれないのだから、当然といえば当然である。
この男は──強い。
自分と同じか、あるいはそれ以上に。
ただそれだけのことが、妙に
己の馬に飛び乗って、場を去ろうとする男に、名残惜しさすら感じるほどだ。
「きさん、名前は」
敵の名を知ることに意味などないと知りつつも、思わず
「そう言えば、名乗っていなかったな。俺は
男はにやりと微笑んで、こう続けた。
「──将来、帝になる男だ」
言い終わるやいなや、男の馬は
「暮明だと!」
慌てた有宗が、背負っていた弓に矢を
が、暮明は飛んできた矢を見ることもなく、無造作に剣で払いのけた。
第二矢が放たれるより先に、馬の姿は豆のように小さくなっている。
「ここまで傍にいて取り逃がすとは、なんという失態」
その悔しがりようは尋常ではなかった。日頃大切にしている弓を、投げ捨ててしまうほどである。
「有宗、あん男を知っとるたい?」
退却の不文律を無視してまで仕留めたかった相手とは。
「暮明親王。あの者自身が言っていたとおり、おそらく次の東宮です」
帝が死没した際、次を引き継ぐ皇太子──東宮。
現帝の一人子が病死し、東宮の席は一時的に空になっていると聞いていた。
あのような才気
「あん男もおるんねえ……」
「雲雀様?」
だが、雲雀は頰が
そして
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