赤い水槽

春風月葉

赤い水槽

 私の通う中学校には一階の奥、保健室の隣に小さな相談部屋があった。

 そこの先生は変わった人ではあったが、私にとって学校での唯一の味方であり大切な相談相手だった。

 いじめられっ子の私には自分の教室が居心地悪く、授業以外の時間はこの相談部屋に匿ってもらっていた。

 先生は私のどんなに小さな愚痴にもどんなに深刻な悩みにも、そうだね、辛かったね、頑張っているんだね、と肯定し、頭を撫で、首を縦に振ってくれた。

 私はその度に少しずつ救われて、心が軽くなるのだった。

 ある時、私は気になって先生に聞いた。

 どうして先生はいつも親身に私の話を聞いてくれるのか、文句の一つも言わずに肯定してくれるのか、どうしてこの仕事を選んだのか、と。

 先生は少し窓の外に視線をやると、今まで見せたことのない悲しそうな顔をして、少し昔話をしようか、言った。

 机の上にコトンと赤のボールペンを置き、先生は語りはじめた。


 一人の男がいた。

 彼は医者の端くれで、まだ若かったが愛する妻もおり、幸せな日々を送っていた。

 しかし、彼の幸せは突然に崩れはじめる。

 彼の妻が当時の医療では治せぬ病を患ってしまったのだ。

 彼は妻を不安にさせぬよう自分の心配を決して表に出さないように努め、持ち得る時間を全て医学書や最新の論文、多くの文献を読むことに裂き、必死に妻の病の治療法を探した。

 しかし、その努力も虚しく、彼の妻は発病から僅か半年で世を去った。

 彼女は一枚の手紙を残していた。

 彼は彼女の死後、彼女の世話をしていた担当の看護婦からそれを受け取った。

 彼女はとても綺麗な字を書く人だったが、その手紙の文字は弱々しく歪んでいた。

『この手紙をあなたが読んでいるのなら、私はもうあなたに会えない場所にいるのでしょう。もう長くないことはなんとなくわかっていました。自分の身体ですもの。一つ、愚痴を言うのなら、少しくらいは難しい本ばかりでなく私とも向き合っていて欲しかったです。一つ、わがままを言うのなら、最期くらいはあなたの顔を見ていたかったです。別に病なんて治らなくたって良かった。ただ、この不幸をあなたにも一緒に嘆いて、悲しんで欲しかった。今までありがとう。私の愛しい人。』

 手紙を読み終えた男の目からは涙が溢れた。

 男は後悔した。

 男は馬鹿な自分を心の底から恨んだ。

 でもそれを伝えられる相手も、伝えたい相手も、もういなくなってしまっていた。

 それから男は決意した。

 自分は自分や彼女のように行く宛のない気持ちを胸の奥に抱え持った人達の助けになろうと。

 誰かの塞き止められた気持ちを自分だけは絶対に受け止めようと。

 そして男は医療の道から姿を消した。


 これで昔話は終わりかな、つまらない話を聞かせてごめんよ、と先生は無理に笑って言った。

 私は泣いていた。

 ボロボロと大粒の涙を流していた。

 きっと酷い顔をしていたと思う。

 辛かったんだね、と泣きながら先生を抱き締めた。

 うん、と先生は小さく言った。

 先生がどんな顔をしているかはわからないけれど、その声は少し震えていたような気がした。

 私は少しでも先生の気持ちを受け止めてあげられたのだろうか。

 机の上のボールペンがコトンと床に転がり落ちた。

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赤い水槽 春風月葉 @HarukazeTsukiha

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