第8話 探し人

 医師、看護婦、患者……老若男女問わず様々な人たちが往来する廊下の片隅。深く帽子を被った眼帯の男は、目の前でぐったりと倒れる少年を見つめる。

 手を差し伸べることも声をかけることもせずに見つめたのち、男は己の手に目を向けた。先程まであったのは骨と皮だけと言っても過言ではなかった程に細い手だった。力もろくに入らず、よくこの少年を引き留められたものだと思うほどには。しかし、今目下にあるのは多少だが肌にハリが生まれ、肉付きがよくなった己の手。そして腹にある満足感のある重み。

――思ったより、腹が膨れたか。

 分かりにくいながらも満足げに口の端を上げた男に目を向けるものは誰もいない。周りに人は何人もいるのに、皆まるで彼が見えていないかのように廊下を往くのだ。

 男は周りの様子など気にとめず静かに顔を上げ、呆然と周りを眺める。

 男の隻眼に写るのは、周囲の何もかもが捻じれている様。何故そんな風に見えるのか原因を知る彼は決して驚きはしないが、不気味なものではあるという感想はぼんやりと抱いている。

 その時よく知った声が男の耳に届いた。


「イグナーツさん!」


 声に応じてエメラルドの隻眼を向けた先にいたのは、ニコニコと妙に上機嫌に振る舞う清武だ。イグナーツと呼ばれた彼は、自分より頭一つ分小柄な男を見おろし細い指を少年に向ける。


「……キヨ、ナオタケってこいつ?」

「そうそう! いやぁ見つかってよかった!」


 尚武――つまりパーシヴァルを指さすイグナーツの言葉を清武は笑顔で力強く肯定し、すぐさま担ぎ上げる。思ったより重量がある彼に戸惑ったか背負いなおして、自身に身を任す末弟に目を向けた。


「久々に見たけど、尚武でっかくなったなあ。体格も良くなったし」

「……情報によれば、士官になったばかりというが」

「そうそう。まさかこの子が軍人を志すとは思いもしなかったけど。……成長したなあ」


 子の成長を喜ぶ親のように感慨深く口にするが、その瞳に宿るのは決して慈愛ではない。だが決して温かなものでなくとも彼なりの愛があるとイグナーツは聞き及んでいるため口出しするつもりはない。

 ふぅ、と疲労感のある息を吐いてイグナーツは帰還を促す。


「いつまでもここにいるわけにもいかない。俺達が帰るべきだ」

「おっと、それは俺のを信用してないな?」

「そのつもりはなかったが失礼した。とにかく目的は終えた。早く戻ろう」

「そうだな。尚武の状態もいいし、これは生贄としても丁度いい。しかしさぁ、乾涸びてたらどうしようかと思ってたんだぜ」

「……そこは私も考えてますよ」


 軽い調子で言い合って、彼等は人が行き交う中を平然と歩き、階段を下りる。

 迎えの車の位置だとか今後の予定だとか、そんなことを確認し合いながら歩くそんな二人――青年を負ぶった東洋人と、長髪痩身の男をした人物は、病院内では存在しなかった。



 一方フェリクスは、病室に突如現れた見知らぬ男を驚きの眼で見上げていた。パーシヴァルと思っていただけに、彼とは似ても似つかぬ人物の登場にフェリクスの狼狽する。だが、いつまでも呆然と見上げている訳にも行くまい。僅かに息を呑んで、恐る恐るフェリクスは問いかけた。


「…………えっ、と……どなた、でしょうか?」


 すると目の前の男性は数度目を瞬かせた後、ぽつりと予想外に柔らかい声でこんなことを呟いた。


「……おねえちゃん、だれ?」

「僕男ですけど」

「あっ、ごめんなさい!」


 可愛らしい声に驚いたのも束の間、まさかの『お姉ちゃん』にすぐさま訂正を入れれば、目の前の彼は大層眉を下げて謝罪した。

 しかし自身の容姿――華奢な体に童顔、少し長めの髪――を考慮すれば、そう判断されることも致し方ないと理解している。気にしてないことを伝えて、フェリクスは改めて眼前の相手に目を向けた。

 先程の不思議そうな様子から、恐らく単純に部屋を間違えたのだろうと推測をつける。家族か友人かの病室に来たと思ったら、見知らぬ相手がいたために『誰?』とつい口をついてしまったか。

――しかしちょっと変な人だな……早く帰ってもらおう。

 身を掻き毟った焦燥はかなり沈静化したが、まだ冷え切った訳ではない。パーシヴァルが看護婦の詰所にいるのかどうか、せめてそれを確かめる為にも彼に割く余裕はないのだ。

 しかし、訝しむフェリクスの気持ちとなど気にしていないように、彼は不安そうにたどたどしく言葉を投げかける。


「あの、ぼく、わかんないの」

「……なにが?」

「ぼくの、おねえちゃんがね、ねてるところがあるの。そこに、おにいちゃんと、きたんだけど、わかんなくなったの」

「…………お兄さんと、はぐれてしまったんですか?」

「ちがうよ、おにいちゃんがどっかいったんだよ」


 経緯はどうあれ迷子らしい彼は、姉がいる病室か、もしくははぐれてしまった兄を探して彷徨っていたらしい。兄が勝手に居なくなったと勘違いしているのは置いといて、同伴者が居なくなったとなればそりゃ驚き不安にもなるだろう。

 その後も彼の話に耳を傾ければ、彼は自分と一緒に兄を探して欲しいということを言うではないか。

 自分は早くパーシヴァルの無事を確かめたいのだ。子供のような妙な人物に構っている暇はない――そう一蹴するのは簡単だが、ここで少しその思考に待ったをかける。

 僅かなやり取りから、フェリクスは彼を幼い子供、もしくは精神的な障害を抱えた人物と判断した。仮に幼い子供であれば、保護者と離れ離れになっているときの心境は察するにあまりある。そうでなくとも、困った時に誰にも助けて貰えないというのは非常に心細いものだ。自身とて似たような思いをしたことがあるため、多少は理解しているつもりだ。

 車椅子故に様々なところで不便さを味わい、些細なことが行動を妨げる。ほんの僅かな手助けを申し出ても困ったような顔で多くが断っていく。何故と問わずとも分かるが、幾度も頻繁にその事態に直面すれば、心もしくしくと痛むのだ。

 ならば、少しくらいこの妙な人物の手助けをしてもいいのではないか。そう考えて、フェリクスはゆっくりと口を開いた。


「……僕も、人を探してるんです。そのついででいいなら、お手伝いしますよ」

「ほんと!? やった! おにいちゃんありがと!」


 素直に驚いた彼はぱあっと晴れやかな笑顔を浮かべ、溌剌とした声で礼を述べるとすぐさま行動に移そうとするが、フェリクスはそれを慌てて止め部屋の中に戻る。薄手の上着を羽織り、胸ポケットに手帳を入れ出入口へと向かった。たったそれだけだが待ちきれなかったらしい男性は、扉を開けて早く行こうとばかりに車椅子を押す。その勢いがあまりにも強いものだから、反射的に体冷ややかさを感じ、短い悲鳴をあげてしまった。


「すみません、押すならゆっくりお願いします」

「あ、ごめんなさい……」


 フェリクスの指摘に悲しげに眉を下げた男性はグリップを握り直すと指示通りにゆっくりと押し始める。

 徐に扉を通り抜け人通りが少ない廊下へと出た。一先ずパーシヴァルのことをハッキリさせたくて詰所へ向かうよう頼もうとして、ふと彼の名前を聞いていなかったことに気づく。


「すみませんが、名前聞いてませんでしたね。僕はフェリクスといいますが、あなたは?」

「ぼく? ぼくはねー、ウォルト!」

「ウォルトさんですね、よろしくお願いします」

「うん!」


 元気よく名乗った彼――ウォルトと共に、ゆっくりと詰所へと向かう。目的地までは真っ直ぐにも関わらず何故か右へ左へ行こうとするウォルトを制しながら、漸く目的地へと辿り着く。

 座った状態のフェリクスには少し高く感じるカウンターの前。いつもは殆ど見えない部屋の中をなんとか必死に覗き声を張り上げるのだが、今回は代わりにウォルトが呼んでくれたので、無駄に喉を傷める必要が無くなった。ウォルトの大きな声にすぐさま看護婦も気づき、こちらへとやってくる。


「どうなさいました?」

「あのね、えっとね、フェリにいちゃんがね、かんごふさんたちにねぇ、ききたいことがあるんだって」


 ウォルトの言葉に一瞬不思議そうな顔を浮かべた看護婦だったが、すぐさま車椅子に腰掛けるフェリクスに気づき、傍らの扉から廊下へと出、側にしゃがみこむ。


「お待たせしてすみません。聞きたいことというのは、どのようなことでしょう」

「わざわざ出てきてくださりありがとうございます。その、ここ2,30分の間にこんな感じの人が詰所に来ていませんでしたか?」


 胸ポケットから取り出した手帳に挟んでいたのは、数ヶ月前に無事卒業式を終えたパーシヴァルと撮った白黒の写真だ。制帽に黒っぽい上衣に白のズボンやサッシュなど人目見て軍人と分かる少年と背広姿で髪を纏めた車椅子の青年。その内前者を指さして説明するが、看護婦は首を傾げる。


「そのような、東洋人風の方は……すみません、覚えがありませんね」

「えっ、そう、ですか……」

「他の人にもちょっと聞いてきますね」


 一旦詰所に戻った看護婦に礼を返しながら、曇った表情で写真を見つめる。彼女から否定的な返答があったことにより一気に不安が渦巻くが、看護婦も常にここにいる訳でもなければ詰所へ訪れた者の写真記録を取っている訳でもない。たまたま心当たりがなかっただけだと願って、暫し待つ。

 すると、軽い足音と共にやってきたのは、パーシヴァルとも顔を合わせたことがある壮年の看護婦だった。彼女もまたフェリクスの前にしゃがみこみキリッとした眉を少し下げて、静かに問う。


「弟さんって、よく君の病室に来てる黒い髪で小柄の子よね?」

「はい、そうです」


 念の為写真を見せながら簡単に先程の状況を説明した。彼女は頭を捻り心当たりを探るが、フェリクスの思いとは裏腹に更に不安が募る結果となってしまう。


「30分くらいここで対応していたけど、ちょっと見ていないわね……ごめんなさいね」

「……っ、……いえ、お手数をお掛けしてすみません。ありがとうございます」


――そんなばかな……。

 面では苦い笑みを浮かべながら、まさかの結果に内心では愕然とした。頭がおかしくなりそうな感覚を覚えながら記憶を漁るが、彼は間違いなく『詰所に行く』と言っていた。それなのにここで対応していた看護婦が姿を見ていないだなんて、どうにも奇妙だ。

――なら、パーシーはどこに……?

 しかしいつまでもこの問題に頭を使う訳にはいかない。今はウォルトの尋ね人も探さねばならぬ状況なのだ。過剰に落ち込んでもいられないと自らを鼓舞し落胆を表に出さぬよう振る舞う。


「すみません、実はこの方も聞きたいことがあるんですけど……」

「そうなの、えっとね――」


 ウォルトの拙い説明をなんとか纏めると、尋ね人はビルという名前らしい。ウォルトより少々高めの背丈に背広姿でも分かるがっしりとした体つき。金髪と少し日に焼けたような色合いの肌が特徴なのだとか。


「ちょっとめがへんだけど、カッコイイおにいちゃんなんだよ」

「そうなんですね。……でもごめんなさい。ちょっと心当たりがありません」

「わかんないの? ……そっかあ」


 ニコニコと元気よく話していたウォルトだが看護婦の返答にがっくりと肩を落とす。その姿がどこか物悲しく感じられ、ついフェリクスはウォルトに姉の名を聞き、看護婦の方について問うた。ビルがそこにいる可能性だって充分にあるし、居なくともそこで待っていれば会える可能性はある。

 手際よく看護婦は資料を調べてくれたが該当者はいないらしい。ならば質問は再びウォルトに向かう。姉がいる病棟は何科なのか、兄が居そうな場所はどこなのか――静かに訊ねたフェリクスに、ウォルトはウンウンと首を傾げてぽつりと呟く。


「うーんと、このたてもののどっかには、いると、おもうんだけどなあ……」

「……この建物の、どこか、ですか」

「うん!」


 おずおずと言葉を返すフェリクスの声色に違和感を覚えることなく、ウォルトは元気よく頷き説明を続ける。


「えっとね、このたてものまではね、ビルにいちゃんときたの。だからたぶん、この、どこかにはいるとおもうの」

「そうですか……なら他の階に探しに行きましょう。看護婦さん、どうもありがとうございました」

「どういたしまして。見つかるといいですね」

「おねえさん、ばいばい!」


 看護婦に礼をして、2人は詰所を離れエレベーターへと向かう。エレベーターは幸い詰所の近くにあったため特に迷うことも無く辿り着き、他の利用客と共に乗り込み三階へ向かうボタンを押す。周囲を特に気にせずに話すウォルトの言葉に相槌を打ちつつエレベーターから降りると、廊下の所々に警察らしき人影が見えた。

 そういえば、事件のせいで警察がくると言っていた看護婦を思い出し、彼等の邪魔にならぬよう詰所へと向かうと、カウンターの奥に複数の影が見えた。


「すみません」

「あぁ、はい。なにかご用でしょうか?」


 にこやかに挨拶を返してくれた看護婦に、フェリクスはまずパーシヴァルのことを訊ねた。他の階に来ていた可能性も否定は出来ない、一縷の望みをかけて説明をしたが、対応した看護婦にも、近くにいた看護婦にも心当たりは無いらしい。大して期待していなかったとはいえ、足取りがまったく掴めないことに対する悔しさはある。正直がっくりと肩を落としたくなったが落ち込んでいられるわけもない。

 気持ちを切り替えて次に問うのは、勿論ウォルトの人捜しのこと。ウォルトに確認を取りながらフェリクスが代わりに姉の名を訊ねていた最中、突然彼等の耳に荒々しい足音とよく通る声が響いた。


「ウォルター様!」


 病棟に反響した声に肩を跳ねさせ振り返れば、そこにいたのは濃い灰色を基調とした背広を見に纏う男性だった。蜂蜜色の髪と鮮やかなタイガーアイが、淡い褐色の肌によく映える。よく見れば額や頬には汗が滲んでおり、彼が必死にウォルトを捜していたことがよく分かる。恐らく、彼がビルだろう。

 息を荒らげる彼は驚きに目を見開いたまま、大股でウォルトに近づくと彼の肩を勢いよく掴んだ。


「ウォルター様! 捜したんですよ!? 何故勝手に私の元を離れたんですか!」


 心配から成る強い口調に怯えたのだろう、体を硬直させたウォルトにあるのは陰りだった。まるで主に怒られて反省している犬のようにしょげているように、小さく口を開く。


「ご、ごめんなさい……でも、まどのそとに、いぬがいっぱいいたの。それで、さわりたくなったの」

「犬? ……まぁ気が引かれるのは仕方ないですが……野良犬は触ってはいけませんし、そういう時は私に一言言ってください。いいですね」

「うん!」

「……はぁ。…………ところで、この方は、どなたです? ご友人でしょうか?」


 すぐさま発せられた溌剌とした声に、一瞬呆れたように息を吐いたビルは、静かにフェリクスへと目線を向ける。突然話を振られて戸惑い返事が遅れたが、ウォルトが代わりにビルの問いに答えるように声を上げる。


「このひとね、フェリクスにいちゃん! あのね、ぼくをたすけてくれたの!」

「そうだったのですか? それは誠にありがとうございます」

「いえ、そんな大袈裟なものでは……ですが、その…………今更ですが、少し、移動……しませんか?」


 ウォルトの言葉に深い謝意を見せるビルの言葉に曖昧に返しながら、恐る恐る提案した。

 そうここは詰所の前だ。他にカウンターはあるとはいえ邪魔であることは確実だ。フェリクスの言葉に慌てて現状を把握し、焦るビルの傍らでは、詰所内の看護婦が複雑そうな表情を浮かべていた。

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