第7話 異変
橙色の光が窓から差し込む広めの病室、柔らかな風を受けて止め、タッセルで纏めてあるカーテンがふわりと揺れた。
「暑いな」――そう呟いたフェリクスは体に掛けていた布団を剥がしベッドへと座り直す。夏は過ぎたといえ、流石にずっと布団を掛けているのは蒸し暑かったのだろう。
前述の「暑い」という言葉や長く話していたことを踏まえてか、パーシヴァルは少し窓を開けた後なにか飲むかと問いかける。有難く肯定すると、パーシヴァルは立ち上がり一旦部屋を後にした。
数分後、冷たいコーヒーを二人分手にして戻った彼から、カップを受け取る。カップ越しに冷たさを感じながらひとくち含み、丁度良い甘さと苦さを堪能して、徐に話を切り出した。
「さて、何から話そうか」
「そうだな……聞きたいことは多くあるのだが、何故生贄なんて話が出たのかを聞きたいな」
「そっか、まずはそこからだね。……最初は少し前から東さんが見舞いに来ていたことがきっかけなんだけど――」
そしてフェリクスはここ最近の出来事を話す。
今世間を騒がせている不審死事件が話題に登るよりも前から、フェリクスは頻繁に実家に戻るよう話を受けていた。しかし、病状を理由に、帰宅は辞めておいた方がいいと医師に言われていたことや、実家に好感が抱けないことを理由にずっと断っていた。
流石に医師に止められてしまっては引き下がるしかないが、しかし、フェリクスの調子が改善されつつあった頃、再び説得は始まった。
当たり前のようにフェリクスは帰宅を拒否したが、それは安易に了承されるものではなかった。
何度も何度も話を受け、それでもフェリクスは拒絶をし続けた故に我儘を言うなと何度叱責を受けたか。それでもフェリクスは居心地の悪い実家よりも、友がいる病院の方がよかったのだ。
昨日も清武は実家への帰宅と治療の話を進めてきたがフェリクスの意志は変わらない。好感だとか居心地だとかそれ以前に、治療方法もなにも不明瞭な話を易々と受け入れる訳にはいかない。
当然の拒否をしていた結果、突きつけられたのは自分かパーシヴァルが『生贄』になるという俄に信じ難い提案だった。
こんな提案をする清武側に恐怖も動揺も抱いたが、しかし弟を身代わりなど出来るはずもく、生贄が必要な理由も手段もなにも知らぬまま清武の話に乗った。
そして明日、フェリクスは生贄として清武の関係者に会う予定になっている。
そこまで静かに話を聞いてきたパーシヴァルは、呆然と開いていた口を固く結び、ごくりと息を呑んだ。続けて戸惑いつつ言葉を吐き出す。
「……そんなことがあったなんて。そうか、それであんな電話を……。……しかし、そんなにも頻繁に
「君に言うつもりはなかったからね……」
顔を曇らせるパーシヴァルの真意は恐怖か不安か驚愕か。彼の心の内を正確に読み取ることは出来ないが、少なくとも彼の心境が穏やかでないことは確かだ。
こんな反応をさせたくなかったから極力秘匿したいと考えたのだが、フェリクスはパーシヴァルと解決策を見つけると決めたのだ。
――行動力のあるパーシーとなら、何かしらいい方法が見つかるかもしれないし……もし見つからなくても、一人で抱え込むよりは、きっと、いいはず……。
そう思うものの、狼狽しているパーシヴァルの様子を目の当たりにしたため、複雑な気持ちになりながら口を開いた。
「今話したことでだいたいの経緯は分かってもらえた、かな」
「あぁ、ありがとう。だが、しかし……怪しさが増したな。病を治すと言っているのに、治療法を一切話さんのは妙だし、そもそも、何故脅してまでフェリクスを実家に戻す必要がある?」
「そこだよね……」
パーシヴァルの疑問にフェリクスは頷いた。ただ自宅療養を勧めるためだけに脅すのは異様な話だ。だからこそ生贄という言葉がキーワードになるのではないかと考え、真の目的は当然他にあるとみるべきか。
パーシヴァルもその点には気づいていたようで、彼は徐に腕を組み考え込む。
「……生贄ということは、なにか古式めいた儀式でもやるのかもしれんな。なにか知らんか?」
パーシヴァルが発した言葉に、フェリクスは頭を働かせる。しかし家業を知っていても詳細は不明瞭なままだ。東家がどのように裏で動いているかなんてまったく知らず、儀式と言われてもとんと心当たりがない。こんなことなら聞いておけばよかったと淡い後悔をしながら弟に目を向ければ、彼も眉間に皺を刻んで考え込んでいるようだった。
二人は、お互い知る限りの情報を出し合い考察を重ねていくが、そもそも手にしている情報が少ない二人が話し合ったところで、明確な解決策が出ないのも致し方ない。
「明日、私も貴方と共にその関係者に会おう。これしかない」
「そうしようか。僕一人だとやっぱり怖いけど、パーシーがいるなら、ちょっと安心かも。……でも、仕事は平気なの?」
「大丈夫、私のことは気にするな」
傾けたカップを口から離し、パーシヴァルは断言した。そう簡単に休みが取得出来るとも思えぬだけに憂慮する事項ではある。しかし、彼の話し方から推察するに、裏も何もないと感じ、極力気にせぬよう務めることに決める。
「じゃあ、明日はお願いするよ、ありがとう。……ちょっと危険かもしれないけど、事情を聞くのも僕一人じゃ上手くいかないかもしれないし」
「そのあたりも任せておけ。何があるか分からんが、私が何としてもフェリクスを守ろう」
言葉に合わせるようにパーシヴァルが自身の胸部を軽く叩いた。その様子に、フェリクスの心は僅かだが解れた感覚がある。一切の不安が抹消された訳では無い。今後パーシヴァルになにかよからぬ事が起こるのではという不安はあるが、一人ではないということが、思った以上に心強いものだと実感した。
僅かに口の端を緩めたフェリクスの反応にパーシヴァルは不思議そうに目を瞬かせた。どうしたと問う彼になんでもないと返して、ひとくちコーヒーを飲んだ。程よい苦味が喉を通っていく。
その傍らで、何やら考え込んでいたパーシヴァルは唐突に別の話を切り出した。
「少し、思ったんだが、聞いてくれるか」
「ん? なに、パーシー」
「いや、大したことではないんだが、自分が今晩ここに泊まり、夜中の間ここを見張るのはどうだろうか」
「えっ」
真顔での提案にフェリクスは思わず目を丸くした。どうやら彼は、夜中にフェリクスが被害に遭わないか、その点を気にしているらしい。
思い返せば、不審死事件の被害者は皆、夜中眠っている間に手をかけられている。自分が知らぬ間に何かあっては遅い――そう主張するパーシヴァルの気持ちは理解出来るが、それはフェリクスの了承だけで実行出来るものではなかった。
緊急に備えてただ泊まるだけなら、粗雑ではあるがベッドが用意されたり別室がある。しかし基本は事前の申請が必要なものだ。医師や看護婦からの指示もなく、当日にいきなりは難しいのではないだろうか。
「僕としては有難いよ。でも、それは流石に病院の人に聞いてからじゃないと判断できないね……」
「それはそうか。ならそれを確認してこよう。詰所に行けばわかりやすいか」
フェリクスの言葉に頷いて、パーシヴァルはすぐさま立ち上がり行動に移し、部屋を退出した。直ぐに戻ると言い切ってフェリクスに会釈をし扉の向こうに消えていった。
扉を閉め廊下に出たパーシヴァルは、急いで詰所に向かう。走らず、だがのんびり歩く訳でもない。
大事な兄の身の危険が迫っているが、それに対する焦りを今ここで出す訳には行くまい。実を言うと仕事の件を初め、懸念事項は幾つもあるのだが、今はフェリクスを優先すべきである。清武に対する怒りや不快感も当然あるが、あくまで平静を装って歩く。しかし、突如、何者かに腕を掴まれ歩みを止めた。
パーシヴァルの手を掴んでいたのは、すぐさま振り払えそうな程に細い腕だった。その相手は自分より頭一つ分背が高い男性。皺や汚れのない背広に合わせた帽子を深く被り、少々長い緑髪をひとつに纏めている。彼は、向かって左側の目を眼帯で覆っており、妙な風貌という印象を抱く。
――誰だこの人。
一切見覚えのない顔に動揺しながらなんとか声を発する。
「あの、なにかご用でしょうか。……私、少し急いでいるのですが」
「用がなければ、腕なんて掴まない」
「あ、そうですよね……。では、どのようなご用で?」
淡々とした物言いと、中々用件を話し出さないことに少し苛立ちを覚えたパーシヴァルだったが、次の瞬間、突如として全身から力が抜けていくような感覚が身を襲う。
「――っ、な、なん、だ……?」
急激に衰えて行くように足に力が入らなくなっていく。外観上、体には特に異変は見受けられないにも関わらず、立っているのがやっととすら思えるほどに全身から力が失われていくことに驚愕した。
続けて襲いくるのはまるで後頭部に鉛でも乗せたかのような頭の重さと、自分の手すらぐにゃぐにゃに見えるほどに歪む視界だった。腕が掴まれていなければそのまま地に伏してしまいそうな程に力が抜け震え視界が薄暗くなっていく。
――なんだ、これ、は……おかしい、何が起きている……!?
何かが噎せかえって来るような気持ち悪さを口の中に味わいながら、口元を押さえ膝をついた。周囲の音に耳を傾ける余裕もなく青白い顔を晒しすパーシヴァルは、現状を碌に理解出来なかった。目の前の男に腕を掴まれ、用件を聞くはずが突然体がおかしくなっている。目の前の男との因果関係を導こうという算段など立つはずもなく、ただ全身を襲う症状に苦しんだ。
――なん、とか……彼から離れなくては……。
そう考えた直後、男のものであろう低い声がパーシヴァルの耳を通る。
「……抵抗は、やめた方がいいぞ。――君は、生贄なんだからな」
その言葉の真意を問いただす前に、パーシヴァルの意識はぷつりと途切れ、目の前が真っ暗になった。
一方、病室のフェリクスは自らが書いた封書を手にパーシヴァルの帰還を待っていた。しかし、10分、15分、20分といくら待てども彼の足音が聞こえることは無い。
最初は交渉に時間がかかっているのかと考えたが、幾らなんでも長すぎる気がする上に、フェリクスになにも連絡が無いのことが奇妙だと思った。
窓から見える景色も徐々に薄暗くなりつつある中、フェリクスは嫌な予感に額に汗を浮かべる。
――まさか、東さんの関係者と遭遇したとか……?
予定では明日。ならば今日訪れることは無いだろうと思いたいが、その可能性に気づいただけでフェリクスは一気に激しい焦燥と恐怖を抱く。頭がくらくらするような感覚を覚えながら、全身が一気に粟立つのを感じ冷や汗をかく。
「……ぼうっと待ってる場合じゃない……!」
もしそうだとしたら一大事だ。心の中を掻き毟られるような強烈な焦燥を胸に、フェリクスは急いで封書を引き出しにしまい込み、ベッド脇の車椅子に移動した。
逸る気持ちでハンドリムを動かして扉に向かおうとしたその時だった。ガタ、と扉が開く音がする。
「っ、もしかしてパーシー!? よかった、戻って――えっ」
不安を払拭するかのように聞こえたその音に、フェリクスは心底安堵した。よかった、ただの杞憂だったのか。強ばった体から力が抜け思わず大声で呼びかけたフェリクスだったが、その先にいた人物を目にした瞬間、間抜けな声を上げ、硬直してしまう。
何故なら、そこにいたのはパーシヴァルでも医師や看護婦でもなく、今まで一度も会ったことはない男性だった。
さっぱりと整えられた黒が混ざる紫の髪に、くりくりとしたガーネットのように煌めいた双眸。そしてどこか幼い顔つきとは似合わず、がっしりとした褐色の体を覆う半袖シャツと膝上の半ズボン。子供のような、大人のような、どちらとも判断つかない奇妙な男性が、フェリクスを見下ろしていた。
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