第6話 赤

 奇妙に煌めく赤の瞳からフェリクスは目を逸らす。怒りが込められた瞳が怖くて痛くて直視できないが、それでもなんとか声を絞り出す。


「生贄ってなんのこと? なんの話?」

「さっき電話で言っていただろう。『パーシーをよく分からない恐ろしい行為に付き合わせるくらいなら、僕が生贄になります』だったか。わざわざ大和語で話すくらいだ、冗談で済むものじゃないんだろう?」

「……っ!」

――まさかそこから聞かれていたなんて……!


 核心をつく言葉に大きく目が見開いて、次に悩ましげに眉間に皺を寄せた。フェリクスの額に汗が滲む。言い逃れも出来ないだろうし今更冗談と言ったところで通じる相手ではないが、それでもここで引き下がってもらうために頭を働かせる。膝の上に置いた握り拳に思わず力を込めた。

 思い詰めるフェリクスとは対照的に、パーシヴァルの表情は怒りを宿している。腕を組んで扉に背を預ける彼は、フェリクスの様子を見てベッドへと腰掛けた。表情が少しだけ和らいだように見えたのはフェリクスの錯覚か否か。


「……フェリクス。別に自分は貴方を問い詰めるつもりは無いんだ。……ただ、先程の言葉はなんなのかを教えて欲しいだけなんだ。困っていることがあるならば手助けをしたい。危険が迫っているなら防ぎたい。それだけだ。……もし本当になにかの冗談ならそう言ってくれ」


 赤が失われた双眼がフェリクスを見据える。少し穏やかさは戻ったのだろうが、未だ彼を直視できず突き放す。


「なにも、ないよ。別に……パーシーには関係ない」

「……そうか」


 ぽつりと小さく頷いたが、パーシヴァルは瞳を疑惑に染めて、寂しげに口元を下げて一旦目線を外し沈黙する。窓の外から差し込む橙の光により形成される足元の影を呆然と見つめていた。

 フェリクスも言葉をどう続ければいいか分からず黙り込んだ。ただの相槌のように返答がきたところで、誤魔化せたわけがないだろう。質問への答えに動揺しすぎた上に、パーシヴァルに秘匿できているわけがないのだ。――そう考えて、心が沈むままに短く息を吐いたその後、何度か秒針の音を耳にしてふとパーシヴァルが口を開く。


「できることなら自分は、貴方の言うことを信じたい。自分に関係ないのならば深入りもやめておきたい」

「……そう」

「だけどどうしても信じきれないんだ。貴方は、自分の代わりに、何をするつもりなんだ? 貴方が危険地帯に足を踏み入れるつもりならば、なんとしても止めたいんだ」


 また、赤が宿る。その真剣な瞳に僅かに背筋を冷たくさせながら、視線を外したフェリクスは素っ気なく呟いた。


「言ったよね、パーシーには関係ないって。聞こえなかったかな」

「聞こえたさ。しかし見過ごすことはできん。貴方は元来わかりやすいし、『パーシーの代わりに』なんて話も聞こえては、無視なんて出来るはずもない」

「…………そうだとしても、見過ごして……くれないかな」

「それはできん」

「そこを、なんとか……」

「ここまで来て引き下がれるか」


 どれほど勘づかれていようとあの話を聞かれていようと、フェリクスはひたすらに拒否を続ける。大事な弟を裏の出来事に関わらせたくない兄心とでもいおうか。しかし例えそれを口にしたところでこの話に決着が着くわけでもないだろう。パーシヴァルが病室を訪れてから20分近い。そろそろどのような形であれケリを付けたかった。

――どうしよう、もうここまで来たら全部言うしかないのかな。でも……。

 フェリクスが一瞬の揺らぎを見せたその時だった。目を伏せて考え込む素振りを見せたパーシヴァルが鈍い声を上げた後話を切り出す。


「フェリクス、貴方は自分のことを随分と子供だと思っていないか?」

「……へ?」

「いや、確かに自分はまだ子供のようなものだ。外見だけでなく中身だってまだ新米だ」

「……うん、まぁ、まだ19歳だしね」

「あぁその通り。言ってしまえば中途半端だ。だが貴方が思うほど自分は餓鬼じゃない」


 フェリクスに体を向けるように体勢を変えて、パーシヴァルはあくまで真面目に続ける。


「酒だって飲めるし、好きではないが煙草も吸える。貴方も知るようにカジノで勝ちまくったこともある。あと女が裸で写っている雑誌だって読んだことある」

「ちょっと、最後のは言わなくてもいいでしょ」

「ただまあ、生身の女の裸の何処が良いのかはさっぱり分からんがな」

「そういやパーシー、絵の方が好きだったね……」

「あぁ。あと――」


 淡々と連ねられた唐突の報告に戸惑いながらもフェリクスは耳を傾け、その後いとも簡単に吐き出された言葉に目を丸くした。


「実家の家業も、とっくに知ってる」

「……えっ」


 予想外の事実に、まるで鋭いもので貫かれたような衝撃を受け、呆然とパーシヴァルを見つめる。彼の表情に偽りはないように見受けられたが、信じられなくて震えた声で嘘でしょ、と零した。しかしそれで違う答えが返る訳もなく、真剣な眼差しがフェリクスを射抜いた。

 頭がくらくら、ぐるぐるするような感覚に襲われ反射的に頭を抱えた。信じたくないあまりに脳内でパーシヴァルの言葉を否定するが、確かに彼の言うようにそこまで子供ではないのだ。自分が偶然知ってしまったように、彼だってどこかで知るのだろう。いくら兄が必死に隠したところで、知る時は知るのだ。


「……っ、いつから?」


 漸く絞り出した声はか細く震えていた。それほどまでにフェリクスとっては衝撃的であった。

 パーシヴァルが思い出すように目線を上方にやった後口にしたのは小学生頃という、思っていた以上に幼い時分であった。驚愕するフェリクスに、更に続ける。


「あまり口にせぬほうがいいことだと思うが、不審に思ったきっかけは、貴方なんだ」

「え、僕、なの?」

「あぁ。……同級生に殴られたという話があった日のことを覚えているか? 自分が、加害者に報復に行くと言って、止められた日だ」

「――あっ」

「思い出したか? 貴方が気を遣ってくれていたのはよく分かったが、あまりにも狼狽が目に見えていたのでな」

「……やっぱりバレバレだったか」


 自嘲気味に笑ったフェリクスを、複雑な表情で見つめたパーシヴァルは話を展開していく。

 前述のように兄の反応から異変と捨て置けぬ違和感を察知したパーシヴァルは、自分で調べることにした。


「隠そうとしていた貴方には悪いが、勝手に調べた。一筋縄ではいかなかったが、貴方の動揺の理由も分かったし、周囲の妙な態度も理解できた。決して無駄ではなかったな」

「そっか。やっぱりパーシーも引っかかるところ、あったんだ?」

「勿論。そのあたりも含めて疑問が解明したからいいんだが……その、当時のフェリクスの気持ちを考慮しなかったのは、悪かった」

「……いいよ、別に。元々、僕に対してはやけに鋭い君に、隠しておけるものでもなかったんだから」


 呆れたように脱力し大きく息を吐いたフェリクスは緩く肩を竦める。それを受けてパーシヴァルは罪悪感による戸惑いの表情を正して言葉を続けた。


「そうか。なら、こちらの鋭さを理解している貴方なら、いつまでも黙っているのも不利だということも分からないか?」

「あー……分かってても、言いたくないっていう意地があるんだよね。それに、そっちも大体予想してるんじゃない?」

「大方は。恐らくあのジャスパー清武がなにか変なことでも考えているんだろう。しかし、自分は、貴方の口から全て話していただきたいんだ」

「話すわけないよね。君がのことを知ってようが関係ないよ」


 冷ややかな言い方と眇めた瞳に、一瞬パーシヴァルがたじろいだのが分かった。彼を困らせているのは自分だというのに、その反応に心が乱れる。

 ジャスパー――清武の名が出てきたことに少々驚いたが、それは決定打にはならない。乱れる感情を極力胸中に収めて冷ややかに言葉を吐いていく。

 しかしパーシヴァルは退かない。いくら突き放し苛立つであろう言い方をして失望を誘っても、変化が見えない。お互い意地がある以上譲れぬところはあるのだが、いつまでも平行線の話し合いにフェリクスも苛立ちが募り、彼にしては棘のある言い方が口に出る。


「ねぇ、そろそろ諦めてくれないかな。別にいいじゃないか、僕が『生贄』になる理由がなんであれ、君が痛い思いをすることは一切ないんだから」


 吐き捨てるように言い切った刹那、乾いた音が部屋に鳴り響き頭部に鈍い痛みが生じた。気分が悪くなりそうな程の激痛に一瞬目眩がしたが、それに対する文句は、パーシヴァルを見やった瞬間に消し飛んだ。

 驚きに瞠目するフェリクスの目先にいたパーシヴァルの顔は赤く変貌し、それに呼応するように尖った瞳にまたもや赤が走っていた。


「馬鹿げたことを言うな! あんたはこっちの気持ちも分かっているだろうに何故そんなことを! が、どれだけあんたのことを……!!」


 それまでとは比べ物にならないほどに低く荒々しい声が空気を震わせ、思わず肩が跳ねた。見開かれた瞳がフェリクスを睨みつけるが、はっと眉を上げた彼は慌ててベッドに座り直し、片方の手で頭を抱え静かに目を閉じた。そして悩ましげに眉間の皺を増した後、薄く瞼と唇を開く。


「…………っ、殴って、怒鳴って、すまない。その、あまりにも貴方がおかしなことを言うものだから」


 先程の恐ろしい声とは打って変わった弱々しい声に虚を突かれた感覚を抱きながら、静かに『大丈夫』と返答すると、彼は安堵したように口元を緩めた。すぐさまその緩みを正して慎重に言葉を紡ぐが、フェリクスは素っ気ない態度を貫き通す。


「……フェリクス、自分は、今の貴方の言葉は流石に許容できない」

「……どうして。君が痛い思いをしないのならばいいでしょ」

「逆の立場でも同じことが言えるのか? 言えんならば、こちらの怒りも分かるはずだ」

――勿論分かってるさ。だけどこっちにだって意地があるんだよ。


 諭すような彼の物言いにどこか憤懣フンマンやるかたない気持ちになりながら静かに耳を傾ける。


「貴方がこちらのことを大切に思うように、自分だって、フェリクスのことを大切に思っているんだ。だから、自分が痛い思いをしないのならばなんでもいいなんて、そんな浅はかな思考回路はできない。それに、自分は貴方がいなくなったらと思うと生きた心地がしない」

「……そこまで、いうほど?」

「勿論だ。自分にとって貴方は、とてもとても大切な愛する唯一の兄だ」


 裏などまるでないであろう真っ直ぐに言うパーシヴァルに、フェリクスの胸はちくりと痛み、無意識的に胸部を押さえる。苛立ちではなく罪悪がトグロを巻いた。


「貴方に何があったのが、何故代わりに犠牲になろうとしているのか、そんなことは自分にも正確に分からない。たが、自分は、貴方に生きていてほしいし『生贄』なんてものにはなって欲しくない。自分のために、その身を犠牲にするなんていう愚かしいことはしないでほしい。ただ、それだけなんだ」

「……パーシー」

「自分は、いや、は、貴方を素晴らしき兄として敬愛している。そんな愛する兄がその身を捧ごうするならば引き止めるのが当然だし、力になりたいと思うのも当然だ。……だから、貴方のことを私に話してくれ。そして、私も貴方も、どちらも犠牲にならぬ術を考えよう」

「…………そんなの……」


 真摯に訴えるパーシヴァルの悲痛な言葉から逃げるように、顔を背ける。しかしそれは彼に対する嫌悪からのものではない。フェリクスは自分自身の決意が崩れていく感覚が嫌だったのだ。しかし、彼の言葉に混ざったとある道筋に、心の棘が俄に消失していく。

――そんな道、あるわけ、ないじゃないか。あいつだぞ。あの外道だぞ。

 胸中では否定的な言葉を吐く反面、弟の言葉はフェリクスの中にゆっくりと染み込んでいく。

 ちらりとパーシヴァルを一瞥すれば、ついさっきの真剣さはどこへやら。不安げな面持ちでパーシヴァルがこちらを見つめていた。彼の瞳にあった赤は消え失せて、いつもの深い茶の双眼が揺らいでいており、その視線がフェリクスの背を押してしまった。


「ほんっとに、ほんとに……パーシーは、もう……」

「フェリクス……?」


 全てを諦めたように、フェリクスは大仰に息を吐く。その物言いに一瞬身構えたパーシヴァルだったが、次の言葉に彼は反対に、力を緩めていく。

 茶の瞳が写したのは呆れたように口の端を緩めるフェリクスの姿。


「仕方ないなあ、そんなに言うなら、君が納得するまで全部話すよ。……二人とも『生贄』にならずに済むっていう方法を、考えよっか」


 驚きに目を瞠ったパーシヴァルは大層安堵したのか肩を下ろし、思わずフェリクスの手を取った。

 しかし内容は決して軽い気持ちで聞けるものでは無い。直ぐに身を正したパーシヴァルは、兄が直面していた選択にまた心を掻き乱されていく。

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