第5話 決断
あれから一夜明け、フェリクスは病室で目を覚ます。壁にある時計は七時より五分ほど前を示しており、いつも起きる時間とだいたい同じだった。
ゆっくりと体を起こして背伸びをし、ベッド脇にある車椅子へと、腕を支えに移動する。本来単独での移動は危険であるかもしれないが、十数年の車椅子生活により、一人で行えることは多くあった。
室内に併設された簡易的な御手洗にて用を済ませ、水道で手と顔を洗う。冷たい水を顔にかければ、未だ少々重苦しい気持ちが切り替わるのではと思ったが、大した変化はなかった。
多少の眠気を打ち消し涙の痕を消した冷水が、ぽたぽたと洗面台に落ちて流れていく。
顔を拭き、寝癖がついた髪を整えたあとは、ベットに戻り日課である体温を測る。砂時計をひっくり返し心に浮かべるのは、やはり昨日の清武とのやり取りである。
『選択肢は有って無いようなもの』――フェリクスがそう表現したように、清武が提案したものに選択の余地はない。
いや正確にはあるのだ。彼が示した案は二つ。フェリクスが実家に戻るか、戻らないか。もしくはその提案を拒否するという選択を含めれば三択か。
しかし、フェリクスはそのうちのひとつしか選ぶことが出来なかった。その理由は、昨日くしゃくしゃに丸めて捨てた手紙にあった。
清武が何を考えあの手紙を書いたかは知らぬが、その手紙には、フェリクスが選択を拒絶した際にパーシヴァルへ向かうことになる刃が明確に記されていたのだ。
『尚幸ガ要請ニ応ジナイ場合ハ、尚武を実家ニ戻ス』
『即チ、我ガ組織ト一族ノタメノ、生贄トシテ、身ヲ捧ゲテ貰ウ』
そんな手紙を読んで、フェリクスが穏やかで居られるはずもない。選択によってはパーシヴァルが犠牲となる――そんな恐ろしいものを突きつけられては、フェリクスが手にすべき道はひとつしかない。
勿論残された選択を摘み取ったところで、全てが丸く収まるのか。その答えを返したあとパーシヴァルはどうなるのか――その後については全く不明である。だがフェリクスの兄心を利用した取引としては、最悪ではあるが最適だろう。
また、その手紙には病の治療方法も書いてあった。しかしそれも他人の犠牲の元に施される理解し難い非科学的な方法だ。清武が病室にて言葉を濁したのは、この説明が難解だから、ということであろう。
だが、難解か否かに関わらず、フェリクスには誰かの死を背負ってまで病を治し生きる覚悟なんてものは、存在しえなかった。
「あの外道め……なにが生贄だよくそ……」
眉根を寄せて、淡く呟いたフェリクスの視界の片隅で、砂時計が完全に流れ落ちる。今一度確認して、フェリクスは脇に挟んでいた体温計を取り出しすと、いつも通りの平熱が確認できた。
その直後、フェリクスの耳がドアのノック音をとらえる。開かれたドアの向こうからやってきたのは、明るい声で挨拶をする看護婦だった。
「おはようございます、アズマさん! ご気分はいかがですか?」
「おはようございます。えぇ、いい感じですよ」
「それはよかったです! 最近は体調も安定してますね」
確認した体温と現在の調子を伝えるが、気分の重さは口にせず、和やかに肯定的な言葉を返す。
続けて体調に関していくつか質問をされてそれに適当に答えれば、彼女は手にしていた記録表に簡潔に書き込んでいく。
それを書き終えたところで、看護婦は少し落ち着いた声で違う話題を口にする。
「そういえば違う病棟の話ですが、今日は警察の方が来るので、少し騒がしくなるかもしれないです。またちゃんとした連絡が来ると思いますけど」
「そうなんですか……」
――つまり、また誰かが犠牲になってしまったのか……。
胸に沸いた悲壮感のままに言葉を零し彼女より状況を聞く。正確には夕方以降の新聞を見た方がいいだろうと前置きをして、彼女は続けた。
ある大部屋の患者が数名魂が抜かれたように死亡しており、一名は行方不明になっていると。
『行方不明者』――今までにない形の被害状況に、曇らせていた顔を上げた。思わず名を問いかけたがどうやら詳しいことは未だ不明であるため、なんとも返せないそうだ。
話を終えて、看護婦は他の患者の容態の確認のために退室すると、入れ替わるように配膳台を押した係の者がやってきた。
相手その相手にも此度の事件のことを聞いてみるが、やはり何も分からないようだ。
また夕刊か明日の朝刊でも確認するかとぼんやり考えながら、ひとまず朝食をとることにした。
朝食を終え、苦い薬を飲んだあとは、リハビリに励んだり友人と交流をしたりし、表面的にはいつも通りに過ごしていた。友人との話題に上がる事件の話から、行方不明者が三十代の男性であることを知り、一抹の不安がよぎる。
しかし何百人と入院しているこの大きな病院に三十代の男性なんて一体何人が該当するのか。真っ先に思いつく彼でないことを祈りながら、フェリクスは友人達と一時の安らぎの時間を堪能した。
その中で、なんだか無性に、パーシヴァルに会いたくなった気がした。
そして夕方、病室にてフェリクスは便箋の上にペン先を走らせる。ペン先に何度かインクをつけてサラサラと丁寧に綴られる文章は、漢字とカタカナ混じりだ。
「……これで、よし」
全てを書き終えた彼は手を止めて息をつく。
綴った手紙は二通分。片方は清武へ、もう片方はパーシヴァルに宛てたもので、前者には相手の要望を受け入れるという旨だけでなく、フェリクスからの要求と、それを守らせるための誓約書があった。
相手方が非道な取引を持ちかけるなら、フェリクスにもそれなりの考えはある。残されることになるであろうパーシヴァルのためにも、フェリクスは全力を尽くすつもりであった。
フェリクスは、手紙を書くまでに何度か自問自答を繰り返した。本当にこの道しかないのか、と。だが、肯定も否定もフェリクスには出来ない。
本当は警察などを頼るべきなのではないか。そんな考えもあるが、脅迫の証拠はフェリクスが捨ててしまったし、そもそも大和語を解読してもらえるのか? そうでなくとも、東家の家業がなんであるかを考えると、寧ろ警察は頼るべき相手ではないように感じられた。
『他人に知られたら――』その場合どうなるか等という記載はなかったが、フェリクスはもとより誰かに相談する気などなかった。それは全て、パーシヴァルに悪影響が及ばないようにするためでもある。
清武の意のままになることは自体は非常に癪ではあるが、パーシヴァルのことを思えば瑣末な問題だ。未来ある弟が訳の分からぬ魔の手に捕まる前に、自分1人でその毒を受けきろう。そう決めたフェリクスの意志は、とても強固だった。
もう一度内容を確かめて、小さな引き出しに手紙をしまい鍵をかける。
準備はできたとばかりに頷いて、真剣さを面に、フェリクスは小銭入れをポケットに入れて病室を出た。向かうは、病院に数台設置されている電話機だ。
廊下に貼られた地図で場所を確かめて、すれ違う医師や看護婦に挨拶をしながら緊迫した気持ちで設置場所を目指す。
数分ハンドリムを動かして辿り着いた電話機は、運良く誰も使用しておらず、周囲に人もまばらであった。
その電話機の前に車椅子を止め、受話器を手にする。小銭を入れると無機質な音の後に交換手の女性の声が聞こえた。口頭で相手の名や番号を伝えたら繋いでもらえるのを待つのみだ。
暫し待った後、無事相手先へと繋がり、耳にあてた受話器から物静かな印象を受ける柔らかな女性の声が聞こえた。何人かいる使用人の誰かだろうと予想しながら彼女に清武の名を伝え、再びひとり沈黙を耳にする。
暫くの後静けさが破られ耳に届いたのは、恨めしく憎たらしい清武の声だった。
『尚幸! まさかそっちから電話してくれるなんて思ってもみなかった! 嬉しいよ!』
高揚した声に思わずぞわぞわとした寒気が体に走り、手にしている受話器を投げたくなった。そんな衝動をぐっと堪えながらフェリクスは冷めた声で言葉を返す。当然、周囲や交換手に理解されぬよう会話は大和語だ。
「……本当は電話なんてしたくなかったんですよ。でも、仕方ないじゃないですか、あんな取引と言えぬ『取引』を持ち出されては」
『だと思った! それなのに電話してくれるなんて偉い偉い。流石尚幸だ。……んで? なに? 尚武を差し出す決心はついた?』
瞬間的に怒鳴りたくなるような怒りがフェリクスの中に巻き起こるが、それを何とか飲み下して、務めて冷静に、しかし怒りを言葉の端に込めて、続ける。
「…………僕がそんな外道に見えます? あぁ、貴方は外道だからそんな発想しかできないんですね?」
『ん? ってことはなんだ、お前が生贄になろうってのか』
「えぇそうです。パーシーをよく分からない恐ろしい行為に付き合わせるくらいなら、僕が生贄になります」
冷静に、しかし力強く発したその言葉に、清武がたじろいだのが分かった。予想外の反応に驚いたか、と推察するフェリクスの向こうで、清武が問う。
『体、治したくないのか?』
「真っ当な治療方法でしたらお受けしようと思いますが、誰かを犠牲にしたくはありません。それに、そんな怪しい治療方法に僕が乗ると思ってんですか?」
『あー……やっぱりかあ。ならいいよ、組織と一族のために、アンタを生贄としよう。さて、いつ俺はそっちに迎えに行けばいい?』
一瞬悩むように声を落とした清武だったが、すぐさまあがり調子の声へと変化していく。
清武が病室に来る、それはフェリクスとしては出来れば避けたいこと。いつパーシヴァルが来るか分からないのだ、清武といる場面に遭遇してしまっては、隠せるものも隠せなくなる。
フェリクスの希望に、清武は聞き馴染みある喫茶店を口にし、それを了承した。
話は順調に遭遇進んで行った。パーシヴァルに露呈しないためにも面会が明日に決められ、清武の部下という男が迎えに行くということも。
話し合いの際には、まず初めにフェリクスが用意した誓約書にサインをすることも。
清武は細かいと笑ったが、こちらとしては重要なことだ。少しでもパーシヴァルに迫る危機を減らすためにやれること、そのひとつとして足掻いた結果。他にも諸々を話して、漸く、決着がつき、話も終わりに向かっていた。
『まさかこんなことになるとは思わなかったけど、俺の要望受け入れてくれてありがとな。愛してるぜ尚幸』
「そうですか、僕は貴方なんか大っ嫌いですよ」
吐き捨てるように口にして、音を立てて受話器を戻した。話したのは実に数分。それなのに、どっと溢れ出た疲労がフェリクスの体を襲う。体も重苦しく、顔色は青い。決して気分は芳しくなかった。
―― 遂に、言ってしまった。
項垂れるように長く息を吐いて、深い達成感のような、後悔のような絶望のような、奇妙な感覚が胸に渦巻く。
自分で決断し連絡をとったのに、後悔なんておかしな話だとその感情を奥底に押しやり、受話器を当てていた耳に触れた。清武が奇妙なことをほざいたからだろうか、なんだか耳元がゾワゾワして落ち着かない。
早く忘れてしまおう。そう思いながら車椅子を動かそうと手を下ろしたその時だった。
「そんなところでなにをしているんだ、フェリクス」
耳に馴染む声が聞こえた。普段ならば心を落ち着かせる落ち着いた低い声が、そして今出来ることなら聞きたくなかった声が、耳を撫でる。
その声を認識した瞬間、心臓が跳ねて、頭が大きく揺さぶられた感覚になって、頭がクラクラした。背後にいるのが誰かなんて振り向かずとも分かるからこそ、逃げ出したくなる。しかし、息を整えて、何事もなかったように振り向き、不思議そうな顔つきのパーシヴァルへと笑顔を向けた。
「あ、あれ、パーシー。そっちこそどうしたのこんな所で。仕事は?」
「いや、その……フェリクスの様子がおかしいと聞いたものだから……心配になって」
「え? 何言ってんの? 僕何も変なところないよ」
口では平静を装いつつも、内心のフェリクスはまさか連絡が行くほどに取り繕えていなかったことに焦った。パーシヴァルに連絡がいったとなると、看護婦の誰かにはバレていたということか。
ならば、フェリクスに関しては察しのいいパーシヴァルに隠し通せる訳がない。
――まずい、非常にまずい。でもこれはパーシーに知られちゃダメだ……! 何とか誤魔化さないと!
大丈夫と笑ったフェリクスを、パーシヴァルはじっと見つめる。そうか、と一旦パーシヴァルは頷いたが、特に気を緩める様子もないままに車椅子を押す。
「一度、病室に戻ろうと思うのだが、いいか?」
「うん、いいよ」
何もかもを見透かされているような感覚になりながら、パーシヴァルに身を任し、ゆっくりと病室へと車輪を転がす。途中で看護婦や友人と少し会話をしながら、しかしパーシヴァルとは特に会話をせぬままに部屋へと辿り着いた。
フェリクスをベッドに戻らせたパーシヴァルは、何も言わず扉に鍵を掛けて、それを背を向けた。
「さてフェリクス」
「……なに」
「生贄ってどういうことか、全部教えてもらおうか」
鋭い声と共に向けられた茶の瞳が、深い怒りを宿し赤く煌めいて見えた。
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