第21話あいつと秘密
「いやぁー、終わった終わった。ホント疲れた。冗談抜きに死ぬかと思ったし」
「あぁ、もう駄目かと思ったぜ。お前、めっちゃ血出てんぞ」
「とりあえず、これで一安心だねー! お腹減っちゃった」
「お前あの断末魔聞いた直後に飯食えんの?」
三人で、どっかりとその場に腰を下ろす。
全身から力が抜けていき、表情筋だけが仕事をする。
久しぶりに、心から笑った気がする。
生死を分かつ、地獄の釜の上での睨み合いの、息の根が止まる程の緊張感。それが穴の向こうに消え去った今、俺らを担ぎ上げるのは並々ならぬ、いや、比喩なしに、九死に一生を得た安堵感だった。
それこそ死ぬ気にもぎ取った勝利。
張り詰めた糸が緩んだ先にあるのは、柔らかな風に揺られるがまま、フラフラと笑う、今。
噛みしめるように景色を見ているのではない。
ただ、こんなにも夏の空は青かったんだなぁという、呆然とした感動だった。
どこからか、蝉の泣き声がする。うるさいとは感じなかった。
三人で空を見上げる。
この静寂に、それは染み渡るように溶けていった。
溶け出したその声の色が、景色に混ざって、また表情を変える。
「さて、帰るか。アイス食べよーぜ。俺、今日買ったアイス全部当たり出てんねん」
「何だよその激運。もう動くパワースポットじゃん」
「もう今年の運が底尽いたんじゃない?」
「マジ? まだ七月だぜ?」
そう言いながら、笑顔を浮かべて立ちあがろうとした瞬間。
景色が爆ぜた。
落とし穴ごと地面が爆発的に飛散し、そして。
そこには、アイツが立っていた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
憤怒が乱雑に張り付けられたような、怒号。
幾千もの呪詛を編み込んだような、咆哮。
地獄の阿鼻叫喚を無理矢理、現世に持ち込んだような声にも聞こえた。
口はもう耳元まで到達し、目や鼻と顎が完全に離別したように、残虐無慈悲に裂けていた。
目において、眼球はその位置を定めておらず、黒目が白目を蹂躙するように跋扈していた。
髪の毛は完全に重力を克服し、天を衝くが如く、空へ空へと爪を伸ばしている。
等しく、化け物だ。
だが、少し前のコイツは、こんなにも人間の所作というカテゴリーを逸脱していただろうか。
等しく、化け物だったはずだ。
だが、俺はこんなにも、全身に力が入らない。
最後通告をするように、ソイツは右腕を掲げ、上を見上げる。
そして、黒い煙がその腕に集まるように纏わりついたかと思ったら、その次の刹那には、そこには人の腕なんて簡単に両断できそうなハサミが握られていた。
まるで、命を切断することを何年も待ち続けたような、そんな恨みを溜め込み続けた時間を感じさせるような錆がそれを覆っている。しかし、刃の部分は研ぎ続けた牙のように、光を反射して、怪しく嗜虐的に殺伐と嗤っていた。
自らの存在を誇示するように、何度もソイツはそれを開閉する。
大気が斬られ、死に、空中に消えない傷を刻むように、それは激烈な金切り声で吠えた。
死の詰まった軌跡の後に瞬く、刹那の閃光。
その苛烈な死神の鎌の準備運動は、切断という結果だけを残すような速度を銜え、俺らを見下ろしていた。
「ごぎぎぎぎぃい、ごが、ごぐぐぐぐごぎぃぃいい」
唸り声と共に、化け物が首を次々に、ボキボキと鳴動させる。
死が、あった。
目の前に。
すぐそこに。
死が。
「逃げろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
冬冬狼が力の限り叫んだ。
しかし、もう既に時遅し。
俺らには、その攻撃を防ぐ手段がない。
逃げる時間もない。
かわす手立てもない。
もはや、死を待つだけ。
叫びを上げる時間すらないだろう。
でも、せめて目は閉じなかった。
最後まで、人間の強さを、反抗を、見せつけてやりたかったのだ。
ソイツが見ているかは分からない。これに果たしてそれだけの意味を持たせられるかは、分からない。
でも、だけど、それでも。
俺は。
すべてが、ゆっくりと過ぎ去る。
走馬燈なんてなかった。
ここまで瞬間的に突き付けられ、そして自分の哲学では測ることが出来ない事態を目の前にしては、脳も対応できないのだろう。
せめて、誰かの笑顔ぐらい浮かんでくれれば、俺も返すように笑って逝けただろうになぁ。
せめて、母親の拳が飛んでくる光景でも浮かんでくれれば、母親に殺されたものだと思い込んで、その枕元に化けて出られただろうになぁ。
けっ。
ちくしょうめが。
だが、刹那。
俺の視界に、そのゆっくりな世界でさえ素早く。
素早く飛び込んで来る影があった。
「バジぃぃぃぃぃぃぃ!」
それは、白い羽を携えた、天使のようだった。
そして、時間は通常通りに動き出す。
金属同士が音速でぶつかったような、耳を劈く衝突音が辺りに吹き荒れた。
その衝撃で、俺は後ろに転がる。
すぐさま、立ちあがる。
俺を守るようにして立っていたのは――
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